第2話 城ヶ島公園

 翌朝、まだ寝ぼけまなこの私と違って、拓海はシャキっと起きている。サーフィンに行くときはもっと早起きしているらしい。

「今日は智行ってヤツの車で行くんだ。少し前にもう一人をピックアップしたってメールが来てたから、そろそろ来ると思う。外で待ってようぜ」


 もうすぐ三月も半ばだが、外が明るくなったばかりのこの時間はまだひんやりしている。私はジーンズに、薄い紫色のざっくりとしたニットを着て、拓海から借りた黒とグレーの切り替えが入ったパーカーを羽織った。なにせ洋服はあまり持ってきていない。朝から拓海の部屋であれこれ着せられ、一番しっくりくるこのパーカーに落ち着いた。拓海はネイビーのブルゾンを羽織っていて、それがよく似合っていた。


 磨き上げられたようなメタルグレーの車が信号の向こうに見えた。

「あ、来た来た」と、拓海はその車に右手を挙げて合図をする。運転席に座っているのが、さっき拓海が言っていた智行くんなのだろう。髪は短く、眉はきちんと整えられていて、精悍な顔立ちだ。助手席に座っている男性は、緩いパーマをかけていて、少し面長の甘いマスク。優しげな雰囲気がある。私は拓海に促されて、後部座席に乗り込んだ。


「花音ちゃんだよね。はじめまして。拓海の元クラスメイトの義弥よしやです。運転しているのは智行。同じく元クラスメイトで、トモは拓海と同じ専門学校に進学予定なんだ」

「そうなんですね。はじめまして。今日はありがとうございます」

「長野から来たんだって? スキーうまい? オレ結構滑りに行くんだよ」

 義弥くんが後ろを振り返って聞いてくる。

「私、運動神経はあまり良くないんで、遊びに来ていた拓海の方がスキーは上手かも」

「そうそう。花音が得意なのは雪の中で盛大に転ぶことだよな」

「あの頃よりは、もうちょっと大人しく転んでるもん」


 義弥くんと拓海が会話を盛り上げてくれるので、緊張せずに仲間に入ることが出来た。智行くんはべらべら喋る性格ではないようで、運転しながら黙って聞いているが退屈している様子はなかった。


 城ヶ島公園の駐車場に到着したのは八時をまわったところだった。まだ停まっている車は多くない。

 三浦半島の最南端に位置する城ヶ島。小さい頃に私と拓海の家族で訪れたことはあるが、記憶は遙か彼方だ。それでも、公園に入ってすぐに広がる松林を見ると、記憶の引き出しが開けられ、懐かしい気持ちになる。


「なんとなく覚えてる。こんなふうに斜めに傾いている松の木」

 私が松林を見上げながら言うと、拓海も目を細めながらその景色を眺め、クスッと笑い出した。

「なあに? 急に一人で笑っちゃって」

「思い出したよ。花音さ、ここで広ぉーいってはしゃいで走り出して、思いっきり前につんのめって回転レシーブ並みに転がったんだよな。何が起こったのか自分でも分からなくてしばらくキョトンとしてたけど、そのあと泣き出して、オレが慰めたの覚えてる?」


 そう言われてみれば、そんなことがあったような……義弥くんが微笑ましく私たちを見ているのに気づき、妙に恥ずかしくなり、

「全然覚えてない」とだけ言って、拓海の前をずんずん歩く。

「花音。そんなに急いであのときみたいに転ぶなよー」

 拓海が茶化して言う声と、義弥くんの「おまえたち、超仲いいな」という声が聞こえ、余計に歩く速度を緩めることが出来なくなってしまった。


 松林を抜けると広場に出る。そうだ。此処でお弁当を広げた気がする。そして幼かった私は拓海と一緒にこの先にある海岸を目指した。岩場の海岸。その荒々しい風景に惹かれ、二人でドキドキしながら海岸散策をしたのだ。

 やっとペースを落とすと、のんびり歩きながら青い海を眺めた。深い青と黒い岩場とのコントラストが美しいと思う。頬を撫でる風が気持ち良い。長野の山に囲まれた風景に慣れていたので、この開放的な景色に見惚れていた。岩場に足を取られ、倒れそうになった私の腕を掴んでくれたのは智行くんだった。


「ちゃんと足元確認しないと危ないぞ」

「ごめんなさい。ありがとう」

 智行くんは、私がきちんと立ったことを確認してから腕を離す。

「そのパーカー、拓海とお揃い?」

「え? あ、これ拓海のを借りたの」

「ふぅん」

 智行くんが私から離れたのとほぼ同時に、拓海が駆けより、

「トモ、サンキュー。まじ転ぶかと思って焦ったよ。花音は先走り禁止」と言って私を引き寄せた。


 そのあとは島内散策を楽しみ、三崎漁港周辺で早めの昼食をとることにした。漁港なので早くから開いている店も何軒かあり、マグロ料理の店に入った。高校を卒業したばかりの私たちは、たいしたお金も持っていないので一番手頃なマグロ丼を注文したが、それでもボリュームのある丼は食べ応えがあった。一人では食べきれず、拓海が残りを美味しそうに平らげた。


 小上がりのテーブル席で、足を伸ばして寛ぎながら三人は高校の頃の話をして盛り上がっている。義弥くんが気を利かせて私に解説してくれるので、疎外感を感じることはなかった。


「これなら今日、オレの彼女も連れて来ればよかったな。花音ちゃんと会わせたかったよ」と、義弥くんが言う。

「連れて来れば良かったのに」

「最初はそのつもりだったんだけど、昨日、拓海フラれたからさ」

「え?」

「あ、聞いてない? 拓海の彼女とオレの彼女って仲良かったから、オレの彼女が居ると拓海が気まずいだろうって彼女が気を利かせたんだ。花音ちゃんが居るなら気にする必要もなかったな」

「そんな話、花音にしなくていいだろ」

「イトコに隠すことでもないだろ」


 昨日のいつだったんだろう。そんな素振り全然見せてなかった。てきぱきと引っ越し荷物を片付けてくれて明るかった拓海。でも心の中では落ち込んでいたのだろうか……そう思いながら拓海を見ると目が合ったが、拓海はすぐに目を逸らしてしまった。


「花音ちゃん、彼氏は?」

「みんなで遊びに行く程度の人は居たけど、彼氏は居なかったです」

「そうなんだ。なら大学で堂々と彼氏を見つけられるね。オレなんて彼女と違う大学だから、浮気したら許さないからね! って言われてるよ」

 義弥くんはそう笑いながら言うと、

「あ、ちなみにトモも彼女は居ない」と智行くんを指した。その人差し指の動きに視線が誘われ、智行くんと目が合った。


「拓海とトモくんは同じ専門学校に進学だったよね」

「そう。でもオレは電気工学科で、トモは自動車整備科なんだ。トモの実家は整備屋なんだよ」と、拓海が答える。

「じゃあ家業を継ぐんだ」

 私が智行くんに声を掛けると、彼は「ああ」とだけ言ってから、

「花音ちゃんは? 学部はなに?」と聞いてきた。

「人文社会学。いろんな国の文化や歴史に興味があるんだ」

「ふぅん、面白そうだね」

「トモもそういうの好きだよな。部屋に古代の歴史みたいな本、けっこうあるじゃん。花音ちゃんと話が合いそうじゃね?」

「え、そうなの? 今度見たいな」

「ああ。いいよ」

 そう言った智行くんの表情は、少し柔らかかった。


 帰りは相模湾沿いをのんびり走りながら、由比ヶ浜、七里ヶ浜の景色を楽しんで帰宅した。智行くんはまず私と拓海を家まで送り、そのあと義弥くんを送ってから帰るという。

「今日はありがとう。楽しかった」

「オレらも楽しかったよ。花音ちゃん、まだしばらくこっちに居るんだろ? また遊ぼうな」と義弥くん。智行くんも笑顔で頷く。ちょっと見た目が怖そうだったので、初めは緊張したが、打ち解けると優しい人だということが分かる。走り去る車を見送ってから、私たちは玄関のドアを開けた。


 伯母は私が荷物を置いている部屋でミシン掛けをしているので、私は拓海の部屋に行った。麦茶を持って部屋に入ってきた拓海が「おつかれ。今日はありがとな」と言いながら、グラスを渡してくれた。

「こっちこそありがとう。楽しかった」

「あいつらも、まじ楽しかったみたいだ。トモもいつもより楽しんでいたぞ。オレも義弥も歴史なんて興味なかったから、いい話し相手が出来たって思ってるかもな」

「なら良かった。あ、パーカーありがとね。そういえばこれ、拓海とお揃い? って言われた」

「ん? 誰に?」

「トモくん」

「そっか」

 拓海はパーカーを受け取ると無造作にベッドに放る。それから畳の上に寝転がり、隣に座っている私を見上げた。

「なに?」

「花音には彼氏が居なかったのか。可愛いのに」

「告白されたことはあるよ。でも断っちゃってた」

「なんで?」

「なんとなく……高校を出たら、こっちに来たいって思ってずっと勉強頑張っていたから」


 そう。私はまたこっちに戻ってきたかったのだ。小さい頃に慣れ親しんだこの環境に。小学生の頃は夏休みが待ち遠しかった。そんな甘酸っぱい思い出が甦る。

 拓海は手を伸ばすと、私の手を握り、微笑みながら口を開いた。


「おかえり」

「──ただいま」


 そう答えると、なんだかとてもその言葉がしっくりきて心地良かった。拓海は私の手を握ったままその指先を見ている。

「拓海……昨日、彼女と別れていたんだね。それなのにいろいろ……ありがとね」

「ああ、実際別れ話を言われたのは夜だから。風呂から出たあと」

 あのとき聞こえた声を思い出す。

「まあ、その前から、こうなることは分かっていたから。彼女は看護学校に行くんだけどさ、専念したいから別れましょうってさ」

「そっか……」

「なあ、明日は鵠沼くげぬま海岸に行こうぜ。サーフィンやろうよ」

「え! 三月に? 寒いじゃん」

「ウエットスーツ着るから平気だよ。早朝からわりと人も居るんだよ」

「私はいいよ。教えてもらったこと忘れちゃったもん。でも拓海のサーフィンする姿は久しぶりに見たいな。小学生の頃よりも、かなり上達してるんでしょ?」

 そう軽口を叩くと、拓海が握ったままの手を引っ張ったので、私は拓海の上に倒れ込んだ。

「あったりまえじゃん。バッチリ見せてやるよ」

 すぐ耳元で拓海の強気な声が聞こえ、思わずどきっとしてしまった。隣の部屋からミシンの音が止むと、拓海は手を離して起き上がり、壁に立てかけているサーフボードを手に取る。

「このボード、かっこいいだろ」

 そのとき部屋のドアが開き、伯母が顔を出した。

「花音。ちょっとこっち来て。ブラウスの試着」

「うん」

 私は立ち上がり、またあとでね、と拓海に声を掛け部屋を出た。

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