第17話 辻褄合わせが得意でしょう

「幸喜さん、私と会えなくて淋しくないですか」


 電話越しの声に、幸喜はぱちぱちと瞬きを繰り返して、首を傾けた。

 時刻は夜の八時手前。部屋の中は少し、肌寒い。

 冬生まれだというのに寒さには弱い自身の体質を考慮し、そろそろ少しずつ上着などを引っ張り出してこなければいけないだろうか、と幸喜は冷えた足をさすった。

 茅乃は最近入る事になったという委員会とやらで、随分と忙しいらしい。

 だからなのか、いつもなら決まった時間に来る筈の連絡も少し遅くなる事があったり、メッセージのやり取りだけの時も多く、こうして声を聞くのも久しぶりな気がする、と幸喜は思う。

 志穂とも連絡先を交換してやり取りをしているそうなので、今までとは同じようにならないだろう事は理解していたし、そうなっていく事が正しいのだ、とも理解してはいる。

 いるのだけれど、それが何だか少し淋しいような、もどかしいような、どうにも言い表せない気持ちになっているのも確かな事で、何より、そんな事を気にしている自分が居た堪れなくて、幸喜は彼女に気づかれないよう、密やかに深く長く息を吐き出した。


「別に。毎日連絡取ってるし、どうせお前、いつもバス停から勝手に人の洗濯物見てるだろ」


 そう言うと、幸喜はカーテンを閉めた窓の向こうに視線を向ける。

 毎朝彼女と顔を合わせないよう、意図的に時間をずらして洗濯物を干しているのだけれど、それももう、変な意地から起因しているような気がしてならない。

 だって、この状態で顔を合わせたら、初めて目が合った時のようになってしまいそうで。

 だって、でも、に続く言葉なんて所詮子供の言い訳じみたものだというのに、と考えて耳を傾けた携帯電話からは、茅乃の小さな唸り声が響いている。


「何で知ってるんですか私は幸喜さんを見たくても見れないのに幸喜さんは私を見てるって事ですかいつ見てるんですか私いつ見られてるんですか教えて下さい」


 問い詰めるように次々と言葉を吐き出している茅乃に、幸喜はぎょっとして思わず携帯電話を耳元から引き離し、画面をまじまじと見てしまった。

 どうやら疲れてくると攻撃的になるらしい。

 慌てて電話を耳元に戻し、「落ち着け」と言ったところで、「どうしようもない程に落ち着いてます」といつになく刺々しい言葉が返ってくる。

 かと思えば、突然落ち込んだような声で名前を呼ばれたりするので、どうしたものか、と幸喜は額に手を当てて息を吐き出した。

 普段あれだけ落ち着いている彼女が、こんなふうに感情の振れ幅が酷くなっているというなら、それだけその委員会とやらが激務なのだろう。

 私生活について細かく聞くのを出来る限り避けているので、詳しくはわからないけれども、流石に心配になってくる。


「私、すっごく頑張ってるんですよ。褒めて下さい」


 しょげた声でそう言い出す茅乃に、以前もこうして言われた事を思い出して、幸喜は深く長く息を吐き出した。

 あまりの情緒不安定な様子に、かける言葉が咄嗟に出てこない。


「ええと……、が、頑張ってて偉いな」

「もっとちゃんと言って下さい」


 不満も露わにそう言われ、悪かった、と素直に返せば、今度は茅乃の方から深く長く息を吐き出されていた。

 幸喜自身、委員会など立候補した者が自主的にやるものであったと記憶していて、無理にやらされた覚えはない。

 そもそも、記憶が薄れつつある学生生活の中で、委員会など存在していただろうか、と訝しむ程だ。


「実際、委員会なんてボランティアみたいなもんだし、偉いと思うよ。俺はそんなの言われても絶対入らなかっただろうし」


 仕事ならばやらなくてはいけない事だからと納得出来るが、学校生活に於いてはそんな強制力はないだろうし、断る事も出来るのではないか、と思って口にするけれど、茅乃はそれがどうにも出来ないらしい。


「だって、頼まれると断れないじゃないですか」

「だから、頼まれないように態度で示したり避けたりしとけば良いんだよ」

「それが出来ていたら苦労なんてしてません……」


 茅乃と接している限り、どうしても嫌な事は嫌と言えるタイプだと思っていたのだけれど、通っていたのは女子高だと言っていたし、そうした状況下ではまた違った対応を求められるのだろう。

 さらっと嘘を吐いたり、当たり障りなく受け流してしまえるからこそ、こうして色々と溜め込んでしまうのかもしれないし、と考えて、幸喜はテレビの側に置いてある時計を見た。

 電話をしてから、もうすぐ五分が過ぎようとしている。

 このまま話を聞いてやってもいいけれど、それが余計な負担になるのは流石に避けたい。


「まあ、無理しない程度にやればいいよ」


 そう言って会話を切り上げようとすると、電話の向こうが突然しんと静まり返っている。

 不思議に思って口を開きかけた瞬間、茅乃が名前を呼んでいて。

 途方もないような、心許ないような、そんな声に、僅かに緊張感が走った。

 何、と問い掛ければ、鼻をすんと鳴らした彼女の、吐息が震える音がする。


「幸喜さん、私、頑張ってるんですよ。……ちゃんと、やってます。本当です」


 今にも泣き出しそうな声でそう言うので、幸喜は思わず狼狽えてしまい、意味もなく部屋を見回してしまった。

 今までの彼女とは全く違う状態に戸惑って、ただただ電話の向こうに耳を傾けてみても、静かな呼吸の音が聞こえるばかり。

 彼女が何を望んでいるか、わからない。

 正しく言葉をかけてやる事も、手を貸してやる事も、何も出来ない。

 その事が、ただ、歯痒くてもどかしい。

 例えば人に助けを呼ぶ事を厭わないあの少女のようだったなら、何かしてやれただろうか、と、幸喜は思う。

 幸喜は静かに息を吐き出し、乾いた唇を噛むと、すっかり冷え切ってしまった足元を見つめた。冷え切って頼りない、足。


「……うん、知ってるよ」


 わかっている、とは決して言えないけれど、彼女の声や言葉から、それは確かに伝わってくる。

 その苦しさや辛さを共有してはやれないけれど。

 それがどうしようもなく、悲しくて悔しくて、淋しい、けれど。


「あのさ」

「はい?」


 素直に耳を傾けているらしい茅乃に、幸喜は思わず口ごもる。

 らしくないのは理解しているのだけれど、それでも、彼女が少しでも気持ちを上向かせる事が出来るなら、そんなちっぽけな矜持はかなぐり捨ててしまえばいい、と思えた。


「その……、委員会とかいうのが終わったら、ひとつだけ何でも聞いてやるから」


 だから、と携帯を強く握り締めて言葉を続けようとした所で、茅乃が慌てた様子で「本当ですか?」と勢いよく問いかけてくる。

 まさかここで突然食いついてくるとは思わなかったので、一瞬、わざとしおらしくしていたのだろうか、と疑ったものの、彼女がそれ程に器用ではないのを思い出し、幸喜は小さく息を吐き出した。


「本当。ただし、金銭絡まないもので、常識の範囲内なら、だからな」

「嘘じゃないですよね? 絶対ですよね? 何でも聞いてくれるんですよね?」

「嘘じゃないし、絶対で間違いない。ただ、本当に常識の範囲内にしろよ」


 電話の向こうから響いてくる、きゃあきゃあとはしゃぐ声やぱたぱたと騒いでいる音で、喜んでいるのがよくわかる。

 あんなに泣きそうな声をしていたのに、一体何だったんだ、と焦っていた自分が恥ずかしくて頭の後ろをがしがしと掻いていると、ふふ、と吐息混じりの笑い声を零して、茅乃は言う。


「ありがとうございます。幸喜さんのお陰で、頑張れそうです」


 その声の調子から、茅乃がすっかり元気になったらしい事に、ふ、と吐息混じりに笑みが零れてくる。


「頑張るのはいいけど、本当に無理するなよ」


 素直に出てきた言葉に、気恥ずかしさを感じて視線を俯かせれば、冷え切っていた筈の足が少し温まっていた事に気がついた。

 いつも振り回されているのに、いつの間にかこうして内側に入り込んでしまう。

 本当は、知らない間に内側に入れる隙間を開けてしまっているのは、自分なのかもしれないけれど、とぼんやり考えていると、彼女は言う。


「大丈夫ですよ」


 もう大丈夫になったから、と、告げたその声の柔らかさが消えていかないように、と幸喜は静かに瞼を閉じていた。

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