第16話 昼下がりのコメット

 最寄り駅から数駅先にある大きなターミナル駅は、週末のせいか何度来ても人が多くて少し辟易するけれど、一人のせいか、いつもより余計に人の声や気配が神経に響く気がする。

 以前茅乃と出掛けたり、修司の家から帰る時に利用した時は然程感じられなかったのに、と考えて、幸喜は小さく息を吐き出した。

 今週末、茅乃は用事があるらしく、会う約束をしていない。

 ここの所どうも距離感がおかしくなっている気がするし、そもそも先日変な事を言われたばかりで動揺している自分がいるのもしっかり理解しているので、頭を冷やすには丁度良かったのかもしれない、と幸喜は思う。

 仕事上、気になっていた書籍を探しにわざわざここまで出てきたけれど、今日は天気が良く気候も穏やかなので、折角だから少し駅の周辺を歩いてみるのもいいかもしれない、と考えて、幸喜は近くにある大きな公園の方へと足を向けた。

 駅に近くにあるのは国営の大きな公園で、かなりの広さがあり、一周するだけでもそれなりの時間を要する程で、周囲でランニングをしている人もいる。

 園内にはボートに乗れるような池があったり、子供達が遊べるアスレチックや大きな広場もあり、時折イベントも開催されているようで、飲食系のイベントなどはテレビ中継が入っているのを見かける事も多い。

 入り口から真っ直ぐに伸びる道を抜け、池に沿って歩いていくと、流石に土曜の昼下がりという今の時間帯では家族連れが多いようで、楽しそうにはしゃいだ声が遠くから響いてくる。

 こんな風に景色を見ながら歩くのが久しぶりに感じられて、ゆっくりと辺りを見回しながら歩いていると、突然、目の前に黒髪の少女が飛び出してきた。

 年齢は高校生くらいだろうか。緩やかに巻かれた長い黒髪は毛先から赤みが強いピンクのグラデーションで染められていて、真っ直ぐに向けられた瞳は、薄い茶色にグリーンが混ざったような不思議な色合いをしている。


「ねえ、そこの人、助けて!」


 唖然としたまま動けなくなった幸喜に向かってそう言うなり、少女は勢い良く幸喜の腕を掴み、飛び出してきた場所へと戻ろうとしている。

 幸喜は驚きのあまりされるがままにしていたものの、どうにか状況を飲み込むと、慌てて少女の細い腕を振り払った。

 けれど、彼女はそれに怯む事なく、再び腕を掴んでいて。


「な、何なんだよ、いきなり! 離せって!」


 漫画やドラマじゃあるまいし、一体どんな展開なんだ、と思いながら声を荒げれば、少女も負けじと言い返してくる。


「良いから来て! この先でおじいさんが倒れてんの! 早くして!」


 この状況に妙な既視感を覚えるのは、きっと茅乃のせいだ、と幸喜は思う。

 どうしてこんな事ばかり起こるのだろう、とげんなりして少女に連れられるまま先に進むと、人通りの少ない小さな階段がある道へと出た。

 階段は十段程で手すりはなく、その下には丸くなった状態で男性が一人、倒れている。

 それを見た瞬間、幸喜はぞっと背筋が一気に冷えて、心臓の音がやけにうるさく鳴り響いているのを感じていた。


「おじいさん、大丈夫?」


 手を離した少女が側に駆け寄って声をかけると、男性は弱々しく頷いた。

 その事に幸喜はほっとして、それから、少女の向かいにしゃがみ込む。

 おじいさんと呼ばれた男性は小柄で、七十から八十歳くらいだろうか。

 その場で立ち上がる事も出来ずに、小さく呻き声を上げている。

 髪や頬、服にも砂や枯葉などがついていて、傷らしい傷はないものの、階段から転倒した様子はすぐに見て取れた。

 幸喜が少女に状況を説明するように言うと、この付近を歩いていた彼女が、突然凄い音がして様子を見た時には既にこの状況だったらしい。

 階段で足を滑らせてそのまま転んでしまったのだろうか。最悪頭を打っている可能性もある。

 数年前に受けた応急救護の内容を何とか頭の中からひっぱり出し、脈拍や呼吸の確認をしながら男性に幾つか問いかけをしたものの、頭部に外傷はないが、腰や足を動かすと痛い、と顔を顰めていた。

 意識はあるが、自力で立てない上に、倒れた前後の記憶もあやふやで、それがどうにも気にかかる。

 頭を打ってる可能性が高いのなら、無闇に動かすのは危険だろう。

 仕方ない、と息を吐き出してポケットから携帯電話を取り出すと、幸喜は少女に視線を向けた。


「とりあえず俺が救急車呼ぶから、異変があったらすぐに教えてくれないか?」

「わかった! おじいさん、今救急車呼ぶから安心してね!」


 少女は真剣な顔で頷き、何の躊躇もなく男性の手を握って話しかけている。

 連れてこられるまで多少強引ではあったけれど、それは気が動転していたからで、本来は優しい性格をしているのかもしれない。

 そんな様子を横目で見ながら幸喜が小さく息を吐き出して電話をかけると、すぐに通話に切り替わり、電話の向こうで冷静そうな男性の声が「事故ですか、事件ですか」と問いかけてくる。

 事故である事と簡単な経緯を説明すると、今度は男性の名前を聞かれ、慌てて幸喜は男性に問いかける。


「あの、名前、言えますか?」


 男性は上手く言葉を聞き取る事が出来ないのか、それとも、その意味を理解出来ないのか、戸惑ったような顔のまま何も答えようとしない。

 どうしたものか、と幸喜が唇を噛むと、少女が男性の視線にしっかりと自分の顔を見せるように身体を動かしている。


「おじいさん! な、ま、え! 名前、教えて!」


 しっかりと口元を見せ、ひとつひとつはっきりとした発音で少女が言うと、男性はたどたどしく名前を告げている。

 慌ててそれを電話の向こうへ伝えると、年齢なども次々と問いかけられるが、すんなり話が出来る様子ではないので、見た目と状況でわかる範囲で伝えれば、簡単な説明をされた後、救急車の到着まで待つよう言われ、幸喜は深く長く息を吐き出した。

 休日なのに、一週間分の疲れがどっとやってきたようだ。

 とりあえずはこれで大丈夫だろう、と顔を上げれば、目の前に派手な赤い髪が揺れている。


「おじいさん、駄目だって。頭動かさないで。頭動かすと、脳が傷ついちゃって危ないんだよ」


 男性が上体を持ち上げようとしているのを慌てて制した少女は、言い聞かせるようにそう言うと、にこにこと笑いながら話しかけている。

 男性も少女が優しく対応してくれているので安心しているのだろう、最初に見た時よりも顔つきが落ち着いてきているように見えた。

 強調された目元と真っ赤なリップが印象的なメイク、オーバーサイズのパーカーや太腿をすっかりと晒す程のショートパンツ、じゃらじゃらとつけた大ぶりなアクセサリー、きらきらと光る長い爪。

 目の前の少女は、同じような年頃だろう茅乃とは全く違う。

 茅乃はいつも少し大人びた落ち着いた雰囲気の服装をしていたし、スカートも膝丈より短い時はなかった。

 そういう意味でも茅乃といる時は気を使わなくて良かったな、と考えて、幸喜ははた、と顔を上げた。

 同じ年頃の少女だからかなのか、どうにも茅乃と比べていやしないか。

 距離感がおかしくなっている上に、そういった考え方もおかしいだろう、と頭を悩ませながら周囲を見回せば、通行人はいるものの、介抱している人間がいるからか、遠目に見る者はいるけれど、決して近寄ってはこない。

 それどころか、携帯電話で撮影しようとしている輩までいるので、幸喜は男性や少女が撮られないよう、さりげなく場所を移動してその視線を遮った。

 一体どういう神経をしているんだ、と辟易していると、ふと視界の隅にきょろきょろと辺りを見回している女性が目に入る。

 丁度今倒れている男性の子供くらいの年齢に見える女性と、男性を見比べてみると、少し似ているような気がしなくもない。


「あの、もしかして、ご家族の方じゃないですか?」


 手を振りながら声をかけると、女性は警戒した様子で幸喜を見つめていたが、男性が倒れているのを見るなり、慌てて駆け寄ってくる。

 その顔は、一気に血の気が引いたように青ざめている。


「うちのお父さんです。家から突然いなくなっちゃって、探してて……」


 もしかすると徘徊でもしていたのだろうか。

 段差で倒れて頭を打っている可能性がある事、救急車を呼んだ事を告げると、女性は更に狼狽えて、どうしよう、と泣き出しそうになっている。

 他人でさえこの状況に戸惑ってしまうのだ、身内なら余計に動揺してしまうのは仕方ない事だろう。

 その様子に、一瞬、修司や志穂を思い出し、こんな気持ちにさせていたのだろうか、と幸喜は唇を噛み、視線を俯かせた。

 そんな女性を見ていた少女はひらひらと彼女の前で手を振り、視線を自らへ誘導させると、にっこり笑いかけている。


「お姉さん、大丈夫だよ! おじいさんは意識もちゃんとあるし、返答もしっかりしてるから」


 ね、とにこにこ笑いながら男性に笑いかける彼女を見て、女性も少し安堵したらしい、ほ、と息を吐き出すと、泣き出しそうな顔のまま小さく笑みを浮かべている。

 流石に自分ではこうは出来まい、と幸喜は胸を撫で下ろし、女性が混乱しないよう話しかけた。


「あの、頭を打ってる可能性が高いので、多分、病院に搬送されると思います。なので、保険証と財布とか持ってなかったら持ってきた方が良いです。確か、搬送される場合は誰かが一緒に乗らないといけなかったと思うので」

「わかりました。家がすぐ近くなので持ってきます」

「お姉さん、急ぐと転ぶから焦んないでね!」


 一旦女性を見送りながら息を吐き出すと、幸喜は携帯で時間を確認した。

 十数分経っているので、もうじき救急車が到着する頃だろうか。

 ゆっくり辺りを見回し、撮影をしているような輩がもういないかを確かめると、幸喜は少女に視線を向けた。

 彼女は男性の側に駆け寄った時と変わらない様子で、家族の人が来てくれて良かったね、もうちょっと頑張ろう、と笑顔で話しかけている。


「そろそろ救急車が来るかもしれないから、公園の入り口で待機してる。ここ頼んで平気か?」


 そう言うと、少女がしっかりと頷くので、幸喜は遠くで鳴り響いているサイレンの音を聞きながら、公園の入り口へと駆け出していた。



 ***



「警察に話聞かれるなんて聞いてないし!」


 何なのめっちゃくちゃ怖かったんだけど、と警察官から返された学生証を仕舞い込みながら、少女はげんなりとした顔で言った。

 搬送されるまでの間にやってきた警察官は、来るなり簡単に状況を聞き、男性の容体を確認すると、到着した救急車の救急隊員へと引き継ぎをして、その後は幸喜や少女に詳しい話が聞きたいと身分証を確認しながら聞き込みをしていたのだ。

 流石に幸喜もそこまでされるとは思っておらず戸惑ったけれど、話を聞いた限り、こうした状況の時には調書を取らなくてはいけないらしい。

 担当してくれた警察官も、仕事上必要ではあるけれど、あまり心象が良くない事は理解しているらしく、案外フランクに接してきた上に、もしかして兄妹ですか、などと少女と幸喜を見比べて冗談を言っていた程である。

 変な誤解をされるよりはよっぽどいいけれど、と溜息を吐きながら、幸喜は肩を竦めてみせた。


「多分だけど、今回のは事故扱いだからじゃないか? 良い事してるんだから堂々としてれば良いんだよ」

「そうかもしんないけどさあ。はあ、もう疲れた」


 腕を上げ、大きく伸びをしながら欠伸を零した少女は、そう言うと近くのベンチにぐったりを座り込んでいる。

 時間を確認すれば、もう二時間近く経過していた。

 救急隊員の話を聞いた限りでは、やはり男性は頭部をぶつけている可能性が高いと言っていたので、大きな病気や怪我をしていなくとも今日一日は病院にかかりきりになるだろう。

 家族である女性も疲弊しきった顔をしていたが、別れ際には少し落ち着きを取り戻し、何度もお礼を言っていた。

 倒れていた男性もあの女性も、何事もなく安心出来たら良いのだけれど、と考えて、幸喜は近くにあった自販機を見つけて少女に顔を向けた。


「ま、お疲れ様。飲み物買うからついでに奢るけど?」

「やった! うち、ココアがいい!」


 少女は遠慮の欠片もなくそう言うと、早く早く、と自販機に飛びつくような勢いでボタンを押す用意だけしているので、呆れながらも幸喜は財布から小銭を出して、少女と自分の分の二つ分の飲み物を取り出し口から引っ張り出した。


「ほら」

「ありがと」


 ココアの入ったペットボトルを手渡すと、少女は早速、蓋を開けてごくごくと飲み込み、頑張った後のココアめっちゃうまーい、などと喜んでいる。

 全く遠慮がないのはある意味素直で良い事なのかもしれないが、茅乃ならきっと戸惑って遠慮をしているだろう。

 少女の行動が然程嫌悪感に繋がらないのは、修司が似たような性格だからかもしれない、と幸喜は思う。


「にしても、よく助けてなんて声かけてきたな。警察の人も感心してたよ。偉いじゃん」


 ああした時に見ず知らずの他人に助けを求められるのは、素直な彼女の良さなのだろう。

 本人に自覚はないだろうが、他人を無条件に信じて助けを求めるという事は、案外難しい事だ。

 自分ならきっと、自分だけで何とかしよう、と思ってしまうだろうから、少しだけ羨ましい、と幸喜は思う。

 少女は照れているのか、口先を尖らせながらもすんとすました表情をして、顔を背けている。


「別に。あの時はすっごく焦ってただけだけ。うちの家、おばあちゃんいるからああいうのほっとけないし」


 なるほど、それでやけに聞き取りしやすい話し方や、年配の男性に対しての接し方に慣れていたのだろう。

 おまけに派手な見た目だけれどおばあちゃん子、という意外性に幸喜が少しばかり驚いていると、少女は突然跳ねるように前のめりになって、ことりと首を傾けた。

 猫のようにアーモンド型の吊り目が、楽しそうに細められている。


「ねえ、あんたどっかで見た気がするんだけど、どっかで会ったりしてない?」


 その言葉に、下手なナンパじゃあるまいし、と幸喜は盛大に溜息を吐き出した。

 どうしてこう、出会い頭にとんでもない事を言うような女子高生ばかり近寄ってくるのだろう。


「完全に初対面だけど。この辺は何回か来てるし、どっかですれ違うくらいはあるんじゃないか」

「ふーん? うち、結構記憶力いい筈なんだけどなあ」


 そう言うと、少女は立ち上がって幸喜の前まで足を進めると、ずい、と顔を近づけてくる。

 薄い茶色に緑を混ぜたような不思議な色の瞳は、自前なのか、それともカラーコンタクトなのだろうか。

 鼻先が触れそうな程に距離を詰められ、バニラとムスクが混じったのような甘ったるい匂いに気づくと、幸喜は思わず眉を顰めた。

 近寄んな、と言って慌てて身を引けば、ケチ、と返される。

 こいつは完全に修司と同じ距離感の人間だ、と悟って、幸喜は顔を歪めて睨みつけた。

 その様子を見て少女は楽しそうに笑うと、ひらひらと手を振っている。


「ま、いーや。うち、この近くのドーナツ店でバイトしてるから、良かったら来てよ。今回のお礼するからさ」


 じゃあね、と颯爽と走っていく元気な姿を見送りながら、まるで嵐、というより隕石のようだ、と幸喜は思い、何度目になるかもわからない息を吐き出していた。

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