◆刺青◆

卒業式を終えた翌日の朝。


俺はもう一度、美桜に尋ねた。

「本当に後悔しねぇのか?」


美桜は、まっすぐに俺の目を見て答えた。

「うん、後悔しない」

そう言った美桜の表情は何かを吹っ切った様に凛としていた。


◆◆◆◆◆


3年前。

美桜が初めて俺に自分の決意を伝えた。


その日、美桜は繁華街で母親と再会した。

それは虐待されていた美桜が保護された施設で会って以来,数年振りの再会だった。

久々の再会に母親もそして美桜も戸惑いを隠せない様子だった。

母親の隣には、美桜の弟である幼い子供がいた。

その弟に対する母親の接し方に美桜は深く傷付いた。


『……あの子にしたように優しく背中を撫でて欲しかった……』

『……あの子にしたように私が不安な時には抱き寄せて欲しかった……』

『……優しい瞳で見つめて欲しかった……』

『“愛してる”って言って欲しかった……』

それは美桜がずっと心に秘めていた本心だった。


その時、美桜が俺に話した決意は

「……私、背中に刺青を彫りたい」

というものだった。


正直、俺は美桜の言葉に驚いた。

それと同時に戸惑いもした。


背中に刺青を彫るっていう事は……。

決して簡単な事じゃない。

刺青は一生もの。

一度、彫ると消す事は難しい。

身体のどこかにワンポイントで彫るTATTOOとは訳が違う。

もし、美桜がTATTOOをアクセサリー感覚で彫りたいって言うなら、俺が反対する事はなかったと思う。

……でも、刺青はTATTOOとは違う。

世間の認知度だって刺青とTATTOOではかなり差がある。

その所為で制限される事だってたくさん出てくる。

背中に刺青を彫っている俺が偉そうに言える事じゃねぇけど……。

反対に俺が刺青を彫っているからこそ、それを勧める事は良策じゃねぇって思ってしまう。

……そして、何よりも美桜がそんな決意をしてしまった事が俺の所為って気がしてならない。

俺がこの世界に美桜を引き込んでしまったから……。

もし、美桜が俺と出会っていなかったら……。

美桜がこんな決断をする筈はなかったような気がしてならない。

だから本来ならば美桜を説得して、それを止めさせなければいけないのかもしれない。


でも、もしその決意を実行する事で美桜が過去の辛い想い出から解放されるなら……。

俺に反対する権利なんて無いのかもしれない。


『もう、決めた事なのか?』

『うん』

頷いた美桜の顔にはその決意が揺るがない事を物語ってた。


『美桜の人生は、美桜のモノだ。俺のモノじゃない』

『……うん』

『お前が決めた事なら俺は反対しない』

『……蓮さん……』

『十分、悩んで決めたことなんだろ?』

『うん』

『それならいい。美桜が心の底から笑えるようになるなら反対する必要がねぇよ』

『蓮さん、ありがとう』

『あぁ、だけどな……』

『それを実行するのは3年後だ』

『えっ?』

『美桜が聖鈴の高等部を卒業した時に、今と同じ気持ちだったら俺は反対しないから、そうしたらいい』

『……』

俺のその提案に美桜は納得出来ない様子だった。


『3年間待てねぇか』

『……』

『なぁ、美桜』

『うん?』

『焦らなくてもいいんじゃねぇか?』

『えっ?』

『人生ってさ、先のことは誰にも分からないだろ?』

『うん』

『今、お前がそうしたいと思っていることも時間が経てば気持ちが変わるかもしれない。そうなった時に後悔して欲しくねぇんだ』

『……うん』

『お前がしようとしていることと同じ事をして後悔した奴もたくさんいる』

しばらく、何かを考えるように俯いていた美桜が顔をあげ

『……分かった』

頷いた。


◆◆◆◆◆


“後悔しない”

美桜がそう断言する事は何となく分かっていた。

だから、一応知り合いの彫り師にも連絡をしておいた。


「何時にする?」

「うん?」

「彫り師に予約を入れとく」

俺がケイタイを見せると、美桜は納得したように小さく頷き答えた。


「明日がいい」

その答えも予想通りだった。


「分かった」

それからすぐに俺は彫り師に連絡をして翌日に予約を入れた。



◆◆◆◆◆


翌日の朝。

少しでも長く寝ていたいはずの美桜が異常に早く起きていた。

明け方、外がうっすらと明るくなり始めた頃、俺がふと目を覚ますと美桜はカーテンの隙間から空眺めていた。


「……美桜?」

俺が声を掛けると、微かに身体を揺らし美桜がふり返った。


「ごめん、起こしちゃった?」

「いや、タバコが吸いたくなっただけだ」

手招きをすると美桜は、カーテンを閉めベットに近付いてきた。

ベッドの端にちょこんと座った美桜。

その小さな身体を引き寄せ、自分の膝の上に乗せる。


服越しに伝わってくる美桜の体温が低くなっていた。

「身体、冷えてんじゃねぇか」

春とは言えまだ寒さの残る3月。

なにも羽織らず、布団から抜け出していた美桜の身は冷たくなってしまっていた。

俺は布団で美桜の身体を包み、その上から抱きしめた。


「どうした?」

「えっ?」

「眠れねぇんだろ?」

一瞬、驚いた表情を浮かべた美桜は、俺の顔をジッと見つめた後、ふとその表情を緩めた。


「……うん……」

「なんか不安な事でもあるのか?」

「不安な事っていうか……」

「うん?」

「……ちょっと緊張してる」

「緊張?」

「うん」

美桜は照れくさそうに笑った。


「刺青か?」

「うん」

「……だよな。お前の今の気持ちは分かる」

「えっ?」

美桜は不思議そうな表情で後の顔を見つめた。


「……一応、俺も経験者だからな」

「あっ!!そうか!!……てか、蓮さんも緊張したの!?」


……いやいや、その発言はおかしくねぇか?

俺だって緊張することぐらいあるし……。


「ん?緊張っていうのとは違うけどな」

「……?」

「あの時は、95%ぐらい嬉しかった」

「そうなの?」

「あぁ、俺にとって刺青を彫ることはガキの頃からの夢みたいなもんだったからな」

「そうなの?」

「あぁ」

「じゃあ、残りの5%は?」

「罪悪感だな」

「罪悪感?」

「あぁ」

「なんで罪悪感?」

「ん?」

美桜が俺の顔を覗き込む。


「刺青を彫る事は、悪いことだと思ったの?」

俺は美桜の頭を撫でる。


「……まぁ、法律っていうか条例的には悪いことかもしれねぇな」

「どういう意味?」

「一応、刺青は18歳以上じゃねぇと彫れねぇんだ」

「そ……そうなの!?」

「知らなかったのか?」

「うん、知らなかった。もし18歳未満の人が刺青を彫ったらどうなるの?」

「彫った人間が罰せられる」

「……知らなかった……てか、蓮さんが刺青を彫ったのって18歳になってた?」

「なってねぇ」

「……だよね。だから残悪感なの?」

「それとはちょっと違う」

「……?」

「俺が罪悪感を感じたのは親父に対してだ」

「え?お父さん」

「あぁ」

「……もしかして、お父さんは、反対していたとか?」

「いや、反対どころか親父は知らなかったんだ」

「知らなかったって……蓮さんが刺青を彫ろうとしてることを?」

「あぁ」

「だから罪悪感があったんだね」

俺が小さく頷くと、美桜は小さな声で「そっか」と呟いた。


「それで、いつバレたの?」

「彫ったその日の夜」

「は?そんなに早く?」

「あぁ」

「なんで?」

「刺青を彫ったら熱を出すことがあるんだ」

「蓮さんも熱が出たの?」

「あぁ、んで、背中に違和感があるからずっとうつ伏せで寝てたら綾さんがそれを不審に思ったらしくて、すぐに親父の耳にも入ってた」

「お父さんに怒られた?」

「いや、親父には怒られはしなかったけど……」

「……?」

「綾さんには『学生のくせに生意気よ』って軽くボコられた」

「……!?」

「こっちは熱と背中の疼きで抵抗すら出来ねぇのによ」

「……」

「しかも、ボコった後に『そう言えば、私がTATTOOを彫ったのも高校生の時だったのよね』なん懐かしそうに言いやがったし」

「……」

「それだったら俺がボコられ損じゃねぇか……な?」

「……大変だったんだね、蓮さん……」

美桜が気の毒そうに呟いた。

「……まぁ、それはいいんだけど……お前は怖いのか?」

「……怖いって言うか……」

「……?」

「ちゃんと変われるかなって思う」

「ん?」

「……私、あの頃に比べると少しは変わったと思うんだ」

「あぁ」

「蓮さんと出逢って、付き合うようになって色々な人と関わりを持ってきた」

「……だな」

「綾さんの出産に立ち合わせてもらって“おかあさん”に対する想いも少し変わった気がする」

「そうか」

「うん、でもね……」

「あぁ」

「あと1歩なの」

「あと1歩?」

「うん」

美桜は小さく頷いた。

「もう少しで、私は過去を乗り越えれそうな気がするの」

「……それってどういう意味だ?」

「あのね……」

「あぁ」

「なんか上手くは言えないんだけど……」

「それでもいい。思った事を言ってみろ」

「うん」

美桜はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

「私は、2つの傷があるから過去を乗り越えれないんだと思うの」

「あぁ」

「心と身体に残る傷」

「あぁ」

「……でもね、心の傷はこの数年間で殆ど完治したと思うんだ」

「……」

「たくさんの人の優しさと温かい気持ちのお陰で……」

「あぁ」

「私の中にあるお母さんの存在だって強い恐怖感しかなかったけど……」

「……」

「それがかなり薄れた気がするんだ」

「……そうか」

「うん、今ならお母さんの気持ちが少しは理解できる気がする」

「ん?」

「多分……多分なんだけどね」

「あぁ」

「もしかしたら、あの時はお母さんも大変だったんじゃないかなって思うの」

「……?」

美桜は、俺の顔からふと宙に視線を動かした。

それはまるで遠い過去を思い出しているようだった。

「綾さんとお父さんを見ていてそう思うんだ」

「綾さんと親父?」

「うん、姫花ちゃんが生まれて、お父さんも綾さんもすっごく大変そうでしょ?」

「あぁ」

「でも、お父さんと綾さんは2人で協力して頑張ってる」

「そうだな」

「夫婦が協力して頑張って子育てをする。でも、それって当たり前のことなんかじゃないんだよね」

「……」

「多分、それはすごく幸せな事なんだと思う」

「……」

「だけど、逆に考えれば何か事情があって夫婦のどちらかが欠けてしまうとその負担は計り知れない」

「……」

「1人で子供を育てていく事はとても大変なことだと思う」

「……」

「いつだったか、蓮さんが教えてくれたでしょ?」

「ん?」

「お母さんが私を産んだ時、病室の窓から見える満開の桜がとても綺麗だったから私の名前を“美桜”にしたって……」

「あぁ」

「その話も正直に言うと半信半疑だったんだ」

「……」

「お母さんが私の為に願いを込めて名前をつけてくれて嬉しいと思う反面だったらどうして私を虐待したんだろうって……」

「……」

「だってさ、誕生を喜んでくれたのなら虐待なんてしないって思ってたんだ」

「……」

「でもね、綾さんの出産に立ち会ってみて思ったの」

「……」

「私を生んでくれたお母さんには感謝をしないといけないって……」

「……」

「あの辛さに1人で耐えて私を生んでくれたお母さんには、感謝しないといけないと思うんだ」

「あぁ、そうかもしれねぇな」

「うん」

美桜は満足そうに頷いた。

「それで、お前のお袋さんが大変だったっていうのはどういう意味なんだ?」

「えっとね……これは私の推測なんだけど……」

「あぁ」

「お母さんは余裕が無かったんじゃないかと思うの」

「余裕?」

「そう、色々な面で……」

「例えば?」

「お金とか気持ちとかかな」

「金と気持ち?」

「うん、私が施設に入る前に住んでたアパートってすごく古くて狭いところだったの」

「あぁ」

「なんとなくしか覚えてないんだけど家具とか家電製品もほとんどなかった気がする」

「……そうか」

「その頃は、そんなこと全然分からなかったけど今思えばかなり貧しかったんだと思う」

「……」

「親とも絶縁状態で私の父親が誰かも分からない」

「……」

「誰にも頼る事ができなくて、金銭面でもいっぱいいっぱいでお母さんは心に余裕がなくなってしまったんだと思う」

「……確かに、そうかもしれねぇな」

「うん。……これも結局は自分にとって都合のいい考えかもしれないんだけどね」

「都合のいい考え?」

「そう、ある意味、現実逃避的な?」

「……?」

美桜は苦笑いを浮べた。

「だってさ、私の事が大嫌いで憎いから虐待されたと思うよりも心に余裕が無いから虐待されたと思った方が気が楽でしょ?」

笑顔で冗談交じりにそう話す美桜。

美桜のその態度を強がりだと俺が気付かない筈がなかった。

……また、こいつは……。

なんでこんなに無理をするんだろうか。

辛いなら『辛い』って言えばいいのに……。

哀しいなら我慢せずに泣けばいいのに……。

どうしてそんなところでそんなに頑張るんだろうか?

「美桜」

「なぁに?」

にっこりと笑みを浮べた美桜の身体を俺は引き寄せた。

俺の膝の上に座っていた美桜の身体がすっぽりと俺の胸に収まった。

「れ……蓮さん!?」

美桜は焦った声を出した。

そんな美桜の小さな身体を強く抱きしめる。

「……蓮さん?」

その声が焦った声から不安そうな声に変わった。

「……俺もそう思う」

「え?」

「お袋さんはお前を憎んでいたんじゃない」

「……」

「嫌ってもいない」

「……」

「ただ余裕が無くなってただけだ」

真実は俺にも……。

そして、美桜にも分からない。

でも、それで美桜の心が少しでも晴れるのであれば……。

俺は何回でも

何十回でも

何百回でも言ってやる。

それが例え、真実ではなかったとしても……。

俺は自信を持って言う。

美桜がそれを真実だと思い込むまで……。

「……うん、そうだね」

俺の胸の中で美桜がそう呟いた。


◆◆◆◆◆


しばらくして美桜は俺の胸から顔をあげた。

「なんか気持ちが軽くなった!!」

すっきりとした表情で、ニッコリと笑う美桜。

その瞳が少しだけ充血していて、美桜が泣いていた事は一目瞭然だったけど俺は気付かない振りをした。

こんなに必死に泣いた事隠そうとしている美桜。

なんでそんなに無理をして涙を隠す必要があるのか、それは分からない。

……でも、美桜がそうしたいと思うのならば、俺はそれでいいと思う。

そうする事にきっと美桜なりの理由があると思うから……。

「……蓮さん、ありがとう」

「ん?」

「もう、こっちは大丈夫」

「こっち?」

「うん、こっち」

美桜は自分の左胸を指差した。

「そうか」

「うん」

凛とした表情で美桜は頷いた。

「あとはこっちだけ……」

美桜は目線を動かす訳でも、そこを指差す訳でもなかったけど……。

俺には美桜がいう“こっち”という言葉が何を指しているのか安易に理解できた。

美桜が背中に刺青を彫る理由。

それは、背中にある傷を消す為。


美桜の背中一面にはタバコの火を押し当てて出来た火傷の痕がある。

1つや2つではなく無数に残るその痕。

傷ができてかなりの時間が経っているため、若干薄くなってはいるがそれでもはっきりと分かるそれに美桜はこれまでずっと悩まされてきた。

どんなに楽しい気分の時でも、その傷を見ればすべてを思い出してしまう。

この傷がある限り過去を乗り越える事は出来ない。

そう考えた美桜はその傷の上に刺青を彫る事を決意した。


その考えが正しいのかは分からない。

背中一面に虐待で負った傷を背負って生きていくのか

刺青を背負って生きていくのか

それは究極の選択だったに違いない。

どちらを選んでも痛みを伴ってしまう。


その上で美桜が選んだのは刺青を彫る事だった。

この選択が正しいのかそれとも誤っているのか……。

それは俺にも分からない。


……でも、ただ1つだけ分かるのは、 この選択肢の選択権を持つのは美桜だけだという事。

どんなに大きなリスクを伴ってしまったとしてもそれを背負うのは美桜自身だから……。


そんな時、俺に出来る事と言えば美桜の傍にいることくらいしかない。

……それだけしかないけど……。

美桜がそれを望んでいるのなら……。

俺は迷わずそれを受け入れる。

それがいちばんだと思うから。


「なぁ、美桜」

「うん?」

「彫りたい絵柄は、もう決まったのか?」

俺の問い掛けに

「……うん……」

美桜は小さく頷いた。

それから、少し照れくさそうな表情を浮べた。

「実はね、あの時から決まってるの」

「あの時?」

「うん、私が蓮さんに話したでしょ?刺青を彫りたいって……」

「あぁ」

「あの時は、その翌日にでも彫りに行こうって勝手に思っていたからしっかり決めてたんだ」

「……そうか」

「うん」

「で、何を彫るんだ?」

「教えない」

「あ?」

「秘密」

「は?」

「完成するまで楽しみにしててね」

美桜は小悪魔的な笑みを浮べた。

……おい、おい……。

……ちょっと待て……。

なんで教えてもらえないんだ?

……てか、秘密ってなんだ?

美桜の衝撃的な発言に固まっていると……。

「あっ!!それから……」

「……?」

「私の刺青が完成するまでは、一緒にお風呂に入るのも禁止ね」

「……あぁ?」

思わず俺の口から飛び出した低い声にも美桜は動じる事はなく

「それから……Hも禁止ね……」

唖然とするしかない俺に爆弾を投下しやがった。

……しかも恥ずかしくて堪らないって顔をして……。

「……。」

もはや、相当なダメージを食らった俺には言葉すら発する事は出来なかった。

そのダメージからの復活にはかなりの時間を要した。

頭の中で美桜の言葉だけがグルグルと回る。

“一緒にお風呂に入るのは禁止ね”

“それから……Hも禁止ね”

しばらくの時間を要して、俺の頭の中には1つの疑問が浮かんだ。

……なんでだ?

「……なぁ、美桜」

「なぁに?」

「なんで禁止なんだ?」

「……」

無言で意味ありげに微笑む美桜。

「……?」

そんな美桜を俺は訝しげに見つていると……。

「……だって……」

「……?」

「だってちゃんと完成してから見て欲しいんだもん」

「……」

美桜は満面の笑みを浮かべてそう言い放った。


「……だからか?」

「えっ?」

「だから禁止なのか?」

「うん。裸になったら見えちゃうでしょ?」

「……だな。でも、俺は途中経過も……」

「ダメ!!」

「は?」

「私は完成したのをドーンと披露して蓮さんを驚かせたいの!!」

なぜか微妙に鼻の穴を膨らませて美桜は断言した。


……いやいや……。

俺はお前の発言に十分驚いてるし……。

……てか、なんで美桜は俺に驚きを提供しようとしてるんだ?

これはなんの気遣いなんだ?

……いや違う。

これは気遣いなんかじゃねぇ。

一種の嫌がらせに違いねぇ。

美桜の提案をどうにか考え直させようと俺は頭をフル回転させた。

……でも、さっき受けた衝撃が大き過ぎたらしく、思うようにはいい案が浮かばなかった。

それでも素直に大人しく美桜の提案を受けいれる事が出来なかった俺は、想いの全てを込めてその言葉を口にした。

「……却下」


……だけど

「その意見が却下だし」

バッサリと切り捨てられてしまった。


結局、俺には美桜の意見に強く反対する事も出来ず

その提案を肩を落として受け入れるしかなかった。


……美桜の刺青が完成するまでどのくらいの時間が掛かるんだ?

彫る予定の絵柄すら教えてもらえない俺には必要日数の検討すら付かない。

その事実に俺は深い溜め息を吐いた。


「ねぇ、蓮さん」

「……」

「一緒にお風呂に入ろうか?」

「……風呂?」

「うん、しばらく一緒に入れないから今からゆっくりとお風呂に入ろうよ」

「……」

「ね?」

「……おう」

美桜の言葉に、さっきまで急下降していたテンションが急上昇した事は言うまでもない。

そんな自分になんだか笑えてくる。

情けないと言われれば否定は出来ない。

でも、そんな自分を俺は嫌いじゃない。


どんな肩書きを持っていようと俺は俺なんだ。

惚れた女の前じゃガキみたいで……。

くだらねぇヤキモチを妬いてみたり……。

ささいな事で大喜びしてみたり……。

目に見えない不安に苛まれたり……。


そんな日々をくり返しながら俺は、美桜と一緒にゆっくりと未来に向かって歩いていく。

時には足を止め立ち止まり過去【うしろ】を振り返って、懐かしさに目を細める。


そんな未来を思い描いている自分が俺は嫌いじゃない。


◆◆◆◆◆


その日から、美桜が彫師の元へと通う日々が始まった。

毎日、彫師の元へと通い少しずつ彫られる刺青。


美桜に紹介した彫師は、俺の剌青を彫った彫師でもある。

職人気質なじぃさんで囗数は少ねぇし、愛想もねぇけど刺青を彫る腕前は最高級。

その世界では知る人ぞ知る有名人だったりする。

そのじぃさんに刺青を彫って貰いたくて、日本全国から人が殺到する為、予約を取る事さえ難しい。


そのじぃさんも親父の知り合いだったりする。

その為、親父の刺青はもちろんウチの組員逹の刺青もそのじぃさんの力作だったりする。

そんなじぃさんに頼んで美桜は刺青を彫って貰った。


初めてそのじぃさんの元を訪ねた時、美桜は緊張した面持ちだった。

それでも日々が経つにつれて、美桜は楽しそうにじぃさんの元へ通うようになった。

回数を重ねる毎に背中に描かれる絵が完成するのが嬉しかったのかもしれないが

美桜が楽しかったのは、じぃさんとの世間話が楽しかったらしい。

美桜は刺青を彫り終わった後、30分程じぃさんと茶を飲みながら世間話をする事が日課になっていたらしい。


最初はたまたま俺が仕事中で迎えに行くのが遅れ、外で美桜が待っている時にじぃさんから「お茶でも飲まないか」と誘われたらしい。

それからは、それが毎日の日課となったらしい。


美桜はじぃさんぐらいの歳の人と接した事が殆どなかったらしく『なんかおじいちゃんが出来たみたいで嬉しい!!』と喜んで

時折、じぃさんの好物だという和菓子を買って持って行ったりしていた。

またじぃさんも美桜の為にいつもケーキなどを用意してくれていたらしい。


じぃさんと茶飲み友達になった美桜。

気難しくて有名だったじぃさんも美桜にとってみれば“優しいおじいちゃん”だったらしい。


美桜の刺青が完成して請求された代金はビックリするくらいに安かった。

刺青にも一応相場というものがある。

その相場を平均として彫師の知名度や腕前で代金は決まる。

その為、じぃさんに刺青を彫って貰うには相当な額の金を準備しなくてはいけない。

だから俺もそのくらいの金を用意しておいたのに……。


後日、じぃさんから送られてきた請求書。

それを見た俺は自分の目を疑った。

……これ、間違ってんだろ……。

どう考えてもゼロの数が1つ少ない気がする。

そう思った俺は、すぐに準備していた金を持ってじぃさんの所に向かった。


相変わらず気難しい顔で出迎えてくれたじぃさんに用件を伝え準備していた金を差し出すと

『この請求書は間違ってない』

と断言されてしまった。


『だから、これ以外の金は受け取れない』

と差し出した金まで返される始末。


そんなじぃさんにほとほと困っていると

『あの子は、これ以上刺青は彫らないと言っていたが、刺青を彫らなくても暇な時はここに遊びに来るように伝えてくれ。また、お茶でも飲みながら話し相手になって欲しいと……』

じぃさんは気難しい顔を、少し照れくさそうに崩してそう言った。


どうやらこの請求額にはじぃさんから美桜への感謝の気持ちが含まれているらしい。

そう気付いた俺は、素直に返された金を受け取る事にした。


『分かりました。そう伝えておきます』

『あぁ、頼む』

じぃさんは嬉しそうに頷いた。


◆◆◆◆◆


「ねぇ、蓮さん」

その日、夕食を食べ終わり一服をしていると美桜がどこかソワソワとした感じで口を開いた。


……てか、このソワソワ感は今に始まった事じゃない。

今日、家に帰って来てからずっと美桜はなぜかソワソワしている。


……なんかあったのか?

そう思った俺は、美桜に尋ねた。


「ん?どうした?」

「あのね……」

「あぁ」

「今日……」

「あぁ」

「一緒にお風呂に入ろう?」

「一緒に風呂?」

「うん」


美桜から禁止令が出されたのは、1ヶ月程前の事。

それが解禁になったって事は……。


「完成したのか?」

「うん!!」

嬉しそうに頷く美桜に俺は、目を細めた。



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