◆新しい命③◆

◆◆◆◆◆


看護師の言葉通り、しばらくすると綾さんと親父が戻ってきた。

デケェ腹を抱えている所為で多少ダルそうには見えるけど、いつもと変わらない様子でズカズカと部屋に入って来た綾さんは腹だけじゃなくて態度もデカかった。

ズカズカと部屋に入って来た綾さんはドカっとソファに座った。しかもなぜか俺と美桜の間に……。


「……おい、なんでそこに座るんだ?」

「別にどこに座ろうと私の勝手でしょ」

「……てめぇは看者なんだからベッドに行けよ」

「は?私は病人じゃないし」


……いやいや、その格好はどう見ても看者だろ?


綾さんはいつの間にか着ていた洋服からワンピースっぽいパジャマに着がえていた。

そのパジャマのお陰で綾さんは十分入院看者に見える。

……本人は断固として認めようとはしねぇけどな……


「……てか、元気過ぎねぇか?」

「何言ってるの?私は元気よ」

「……いや、もっと苦しんだりしねぇのか?」

「まだ、そんな段階じゃなの」

「いつになったらその段階になるんだ?」

「さぁ?私もよく分からないんだけど、『もう、産まれる!!』って頃が1番キツいんじゃない?」

「じゃあ、いつ産まれるんだ?」

「そんなの私に分かる訳ないでしょ」

「……」

綾さんの言葉を冷静に分析した結果、この様子じゃまだ生まれそうにないって事だけが分かった。

まだ、時間も掛かりそうだし美桜と飯でも喰いに行ってくるか。

そろそろマサト達も終わる頃だし、みんなで行くか。

病院の周りにあんなに人相の悪い奴らがいたら迷惑だろーし。

そう思った俺は、正面のソファに座っている親父に声を掛けようとした。

だけどそれはドアをノックする音によって遮られた。

『失礼します』

部屋に入ってきたのは車椅子を押した看護師だった。

その瞬間、俺は見逃さなかった。

ソファに3人で座る俺達を見て怪訝そうな表情を浮べたのを……。

そりゃ、そうだろ。

ソファはまだ他にもあるし、旦那である親父の隣も空いているのになぜか窮屈そうに3人で座っているんだから……。

しかも、綾さんが美桜と俺の間に無理矢理割り込んできたからかなりの密着具合になってるし……。

そんな光景を目の当たりにした看護師が怪訝そうな表情を浮べるのは当たり前だ。

でも、その看護師はプロだった。

すぐに怪訝そうな表情から笑顔に戻し、“なにも見ていない”的な振る舞いを見せた。

『神宮様、分娩室にいきましょうか』

そう声を掛けられた綾さんは「はい」と答えて立ち上がった。

デケェ腹を抱えた綾さんは俺の前を通ろうとして……。

「……おい」

「なぁに?」

「……足、踏んでんぞ……」

「あら、足元が全然見えなくて」

詫びの言葉も言わず、笑っていた。

……こいつ、絶対に確信犯だな。

そう思ったけど、大人な俺は文句を我慢して舌打ちだけで勘弁してやった。

スタスタと部屋を出て行こうとした綾さんに

『神宮様!!』

看護師が慌てたように声を描けた。


「なに?」

訝しそうに足を止めた綾さん。

『分娩室には車椅子で移動しましょう』

「は?」

『えっ?』

「そんなのに乗らなくても歩いて行けるわよ」

『で……でも、もう破水もしてますし、急に強い痛みがくるかもしれませんから……』

「大丈夫だってば、気合でいけるから」

自信満々で言い放った綾さんは、看護師が止めるのも聞かずに歩いて部屋を出て行った。

そんな綾さんを慌てて追いかける看護士が、俺は気の毒で仕方が無かった。

「……さすが、綾さん……」

美桜が感心したように呟いた。

「……なぁ、親父」

「うん?」

「綾さんの教育はちゃんとした方がいいと思うぜ」

「そうか?」

……そうかって……。

どう見ても我がまま過ぎるだろ?

……。

……。

あぁ、綾さんにベタ惚れの親父に言った俺が間違ってた。

俺の口からは小さな溜息が洩れた。

「蓮さん」

「どうした?」

「私、ちょっとトイレに行って来るね」

「あぁ、場所は分かるか?」

「うん、分かる。それから戻ってくる時に飲み物買ってくるね。蓮さんはコーヒーでいい?」

「あぁ」

「お父さんもコーヒーでいいですか?」

「あぁ、ありがとう」

親父に礼を言われた美桜は嬉しそうに頷いて立ち上がった。

「金は持ってるか?」

「うん、持ってる」

「1人で大丈夫か?」

「大丈夫だって」

美桜は苦笑して部屋を出て行った。

「お前も過保護だな」

笑いを堪えている様子の親父。

「……うっせーよ。それより、なんで綾さんは分娩室に行ったんだ?」

「は?」

「……?」

「なんでって、子供を産む為だろ」

「あ?まだ産まれねぇだろ?綾さんだって全然そんな感じじゃなかったし」

「……いや……」

「……?」

「医者が言うには、あと1~2時間で産まれそうな感じだしい」

「はっ!?だって、綾さんも言ってたじゃねぇか。生まれる前はかなり痛いんだろ?」

「あぁ、そうなんだが……綾は痛みに強いらしい」

「……痛みに強いって……でも、陣痛ってかなり痛いんだろ?なんて言ったっけ?なんか例えがあったよな。あぁ、あれだ。スイカを鼻から出すくらい痛いんだろ?」

「あぁ、よく言うな」

「……てか、鼻からスイカなんて出たら死ぬんじゃねぇか?」

「まぁ、それは例え話だからな」

「じゃあ、陣痛ってどのくらい痛いんだ?」

「……さぁ?俺も男だから陣痛がどのくらい痛いのかは分からないな」

「……それもそうだな。それにしても、綾さんには痛覚ってもんがねぇのか?」

「……いや、さすがに痛覚はあるだろ?この前も家で箪笥の角に足をぶつけて『痛い!!』って大騒ぎしてたし……」

「……そうか、痛覚はあるんだな」

「あぁ、それにかなり我慢してるんだ」

「我慢?」

「さっきも診察室っでこっそり壁を殴ってたし」

「……!?」

「まぁ、綾にとってかなり辛い状況ってことだ」

「そ……そうか」

「あぁ」

「もうすぐ生まれそうなら、親父も綾さんの所に行ってやった方がいいんじゃねぇか?」

「いや、俺は分娩室には入らない」

「なんで?」

「綾に言われたんだ」

「……?」

「『分娩室は女が戦う場所だから男は外でタバコでも吸いながら待ってて』って」

「なるほど、綾さんらしいな」

「あぁ、それより……」

「ん?」

「美桜さん、遅くないか?」

「……そう言われてみれば……」

「どこかで迷ってるんじゃないか?」

「そうだな、ちょっと見てくるか」

「あぁ、そうしてやれ」

俺は美桜を探す為に部屋を出た。


◆◆◆◆◆


待合室にあるトイレや自販機の周辺に美桜の姿はなかった。

……どこに行ったんだ?

辺りを見渡していると

『あの……』

綾さんの受付をした事務員に話しかけられた。

『お連れ様なら、新生児室の前にいらっしゃいますよ』

「新生児室?」

『はい、あちらです』

事務員が掌で指した先には“新生児室”の文字と矢印が書かれたプレートがあった。

「どうも」

軽く会釈をした俺は、その矢印の先へと向かった。

建物の奥にある新生児室。

事務員の言葉通り、美桜の姿はそこにあった。

部屋の壁の1部がガラス張りになっていて、外から中が覗けるようになっている。

美桜はガラス越しに中を見つめていた。

「美桜」

俺が呼び掛けると

「蓮さん」

振り返った美桜がニッコリッと微笑んだ。

俺は、美桜の隣に並んだ。

中には、ベビーベッドに寝かされた赤ん坊が5人ほどいた。

寝ている赤ん坊。

大きな口を開けて泣いている赤ん坊。

真上にある照明をジッと見つめている赤ん坊。

ベビーベッドの上にはカードがあってそこには母親の名前と出産日が書いてある。

当然だけど、まだ生まれたばかりの赤ん坊達。

「……蓮さん」

「ん?」

「赤ちゃんって、ものすごく小さいね」

「そうだな」

「……可愛いね」

「あぁ」

ふと美桜に視線を移すと、美桜は優しく穏やかな表情だった。

そんな美桜の表情を見て、俺も穏やかな気持ちになった。

それからしばらく俺と美桜は赤ん坊達を眺めていた。

言葉を交わすことはなかったけど、とても心地いい時間だった。

そんな時間に終止符を打ったのは、慌しい足音だった。

その音が、遠くからこっちに近付いてきた。

……なんだ?

そう思ったのは、俺だけじゃないらしく美桜も不思議そうな表情で俺の顔を見上げた。

俺と美桜は顔を見合わせた後、足音が聞こえてくる方向に視線を向けた。

足音の主は、さっき綾さんを分娩室に連れて行った看護師だった。

その看護師は、俺達の姿を見つけると後ろを振り返り

『こちらにいらっしゃいました』

と叫んだ。

その声に導かれるように現れたのは親父だった。

看護師と親父がこっちに向かってくる。

急いでるって感じで小走り気味の看護師とその後ろを悠然と歩いている親父。

……一体、何事だ?

俺達の前で足を止めた看護士の視線は美桜の方に向けられていた。

『美桜さんですか?』

「は……はい」

『産婦さんがお呼びです』

「えっ!?産婦さんって綾さんがですか?」

『はい、美桜さんに立会って欲しいらしくて』

「……は?立会い?」

『分娩室に一緒に入って欲しいらしいです』

「え!?私が!?」

『もう、いつ生まれてもおかしくない状況なんですが、産婦さんは『美桜ちゃんが来ないと産まない!!』っておっしゃてて……」

……は?

なんで綾さんは美桜を呼ぶんだ?

どうせ呼ぶんなら美桜じゃなくて親父だろ?

突然、指名された美桜は戸惑いを隠せない様子だった。

「……あの……」

美桜が恐る恐る看護師に話し掛けた。

『はい?』

「私が行ってなにか役に立つんでしょうか?」

美桜の問い掛けに看護師はニッコリと優しい笑みを浮べた。

『もちろん!!産婦さんの手を握って「がんばれ!!」って応援してあげてください』

「……応援……」

美桜の表情には、まだ不安の色が残っていた。

そんな美桜に親父が声を掛けた。

「美桜さん」

「……はい」

「無理だったら断ってもいいんだよ」

親父の言葉に美桜は瞳を閉じた。

そして、深呼吸を1つしてゆっくりと瞳を開けた。

「……私……」

「うん?」

「私、綾さんの応援に行ってきます!!」

美桜の言葉に親父は嬉しそうに表情を崩し頷いた。

「頼んだよ」

「はい!!」

『こちらにお願いします』

「はい」

看護師の後ろを着いて行こうとした美桜が足を止め振り返った。

「あっ!!蓮さん、ごめんなさい!!」

「うん?」

「飲み物、買うの忘れてた」

「あぁ、俺が買っておくから後でゆっくり飲もうな」

「うん!!」

大きく頷いて、美桜は綾さんが待つ分娩室へと向かった。

親父と2人になった俺は、再び新生児室の中に視線を移した。

「……なぁ……」

「うん?」

「これって計画的犯行だよな?」

「……バレたか?」

「バレるに決まってるだろ」

「そうか。計画が甘かったな」

「……あぁ、甘すぎだ。大体、綾さんの入院中は仕事を休むって言ってたくせに分娩室には入らないなんておかしいと思ったんだ」

「……」

ガラスに映った親父は困ったような表情を浮べて、鼻の頭を掻いていた。

「美桜の為にって綾さんが考えた事なんだろ?」

「……あぁ」

「病院に着いてからも、綾さんが必要以上に我慢していたのも美桜の為だよな」

「……綾の言う通りだな」

「……?」

「お前は変な所で勘が鋭い」

「……」

「……まぁ、綾が我慢していたのは性格の所為もあるけどな」

「美桜の為でもあるんだろ?」

「“未来を信じている”かららしい」

「……未来を信じている?」

「あぁ、綾は信じていることがあるらしい」

「信じていること?」

「まぁ、それは綾の“願い”みたいなものだけどな」

「……?」

「綾は、将来、美桜さんがあたたかい家庭を作れるって信じてるらしい」

「……」

「幼い頃の事があるから、美桜さんには幸せになってほしいらしい」

「……」

「色んな幸せの形はあるが、好きな人と結婚して、その人の子供を産んで……それが綾が知っている最高の幸せの形らしい。だからそれを美桜さんにも教えてあげたいって言ってた」

「……」

「将来、美桜さんが子供を産む時に安心できるように自分が出産する時に立ち会って欲しいって……」

「……」

「そういう事を口で説明するのは難しいし照れくさいらしい」

「……」

「それに出産って神秘的ですごく感動するらしいぞ」

「……そうなのか?」

「あぁ、綾が力説してた」

「……そうか」

「そんなシーンを体感したら、美桜さんの中でも何かが変わるんじゃないか?」

「変わる?」

「母親に対する想いとか」

「……そうかもしれねぇな」

「まぁ、こういう事は女同士の方がいいのかもしれないな」

「……だな」

綾さんの企みには本当に手を焼くけど、今回の企みには感謝せずにはいられなかった。


◆◆◆◆◆


「親父」

新生児室の前で話し込んでいると、マサトが駆け寄ってきた。

「マサト、悪かったな」

「いいえ。あの後、村山さんがお見えになられて話を収めていただきました」

「あぁ」

「今回の件は、妊婦を病院に連れて行く為にやむを得なかったという事で、今後気をつけるようにと注意だけで済みました」

「そうか、分かった。他の奴らは?」

「病院に迷惑が掛かったらいけないので、車で待機させています。綾姐さんは?」

「今、分娩室に入ってる。もうすぐ生まれるそうだ」

「そうですか」

それからマサトは辺りを見渡した後、俺に視線を移した。

「頭」

「マサト」

「はい」

「今は蓮とお前と俺しかいないんだ。普通の話し方でいい」

「はい、ありがとうございます」

マサトは親父に向かって頭を下げた。

そして、頭を上げたマサトが再び俺に視線を向けた。

「美桜姐さんは?」

「分娩室」

「は?」

「出産に立ち会ってる」

「マジか?」

「大丈夫なのか?」

「多分な、綾さんも一緒だし」

「そうか」

それからしばらく俺達はそこで話をしていた。

俺とマサトの会話を聞きながらさりげなく、親父が何度か腕時計に視線を落としたのに気付いた。

親父にとってこの時間はとてつもなく長く感じているはずだ。

だからこそ、俺とマサトは少しでも親父の気を紛らわそうと他愛もない会話を続けていた。


◆◆◆◆◆


『神宮様!!』

背後から近付いてきた足音と今日、何度目かに聞く声に俺達は一斉に振り返った。

さっきまでに比べると落ち着いた様子の看護師。

どうやら、この看護士は綾さん担当のらしい。

その看護師が親父の前で足を止めた。

『奥様が15時10分に元気な女の子をご出産されました。おめでとうございます』

看護師は深々と頭を下げた。

「綾は……」

『もちろん、お元気ですよ』

その瞬間、親父が安心したような表情を浮べた。

『先生が処置をしていますので、もう少ししたら分娩室に入っていただいてご対面できますよ』

「はい」

『準備が出来ましたら、またお呼びしますね』

「お願いします」

『はい、それでは失礼します』

看護師は深々と頭を下げ、その場を離れた。

「親父、おめでとうございます」

マサトが頭を下げた。

「ありがとう」

「良かったな」

俺が親父の肩を叩くと

「あぁ」

嬉しそうな笑顔を浮べた。

「蓮、良かったな」

マサトが俺に視線を向ける。

「うん?」

「妹だってよ、お兄ちゃん」

……あぁ、そうか。

俺も兄貴になったんだな。

マサトの言葉で、ようやく俺は実感を持った。

「親父」

「どうした、マサト?」

「俺は、これで失礼します」

「綾に会っていかないのか?」

「会いたいのは山々ですが、姐さんも今日は疲れていらっしゃると思いますので、また改めて伺います」

「そうか?」

「はい、姐さんにもおめでとうございますと伝えていただけますか?」

「あぁ」

「それからお疲れ様でしたと……」

「分かった。今日は本当に悪かったな。お前がいてくれて助かった」

「いいえ、お役に立てて良かったです。それでは失礼します」

マサトは親父に深々と一礼した。


それから俺に視線を向けると

「あとで妹ちゃんの写メをよろしくな」

そう言い残して帰って行った。


マサトの背中を見送りながら

「……写メを悪用したり しねぇだろうな?」

思わず呟いた俺の声はかなり小さかったはずなのに、親父にはしっかり聞こえたようで苦笑されしまった。


◆◆◆◆◆


ガラにもなく俺は緊張をしていた。


『こちらになります』

一歩先を歩いていた看護士がドアの前で立ち止まった。


「ありがとう」

案内してくれた看護士に親父がにっこりと笑みを浮かべると

その看護師は頬を微かに赤く染めた。


……。

こんなシーンを綾さんが見たらブチギレるんじゃねぇか?

……とは言え、親父はただ礼を言っただけ。

あの笑みだって100%社交辞令だろーし。

その証拠に親父は看護師に背を向け分娩室に入ろうとしていた。

どんな時でも、親父には綾さんしか映ってねぇんだろうな。

そう思った俺は溜め息混じりに苦笑した。


「おい、蓮。行くぞ」

「あぁ」

俺は看護師に軽く会釈をしてから親父のあとを追った。


1っ目のドアを潜ると30m程の廊下があり、その先にはもう1つドアがあった。

多分、あのドアの向こう側に美桜と綾さん、そして妹がいる。


初めて対面する妹。

一体どんな顔をしているんだろう?

興味と微かな緊張感を抱きながら、その廊下のような空間を俺は歩いた。


親父がドアを開け先にそこを潜った。

それに続き俺もそこに足を踏み入れる。


そして、一番に俺の目に映ったのは、ベッドに横たわる綾さんの傍らで生まれたばかりの赤ん坊を愛しそうに抱く美桜の姿だった。


「……美桜」

「あっ!!蓮さん」

美桜が優しい笑みから嬉しそうな笑みへと表情を変えた。


それから美桜は、俺の隣にいる親父に視線を移すと申し訳なさそうに口を開いた。


「お父さん、すみません」

「うん?」

美桜の言葉に親父は不思議そうに首を傾げた。


「お父さんより先に抱っこさせてもらっちゃいました」 「あぁ」

美桜の言いたい事を理解した親父が笑みを浮べた。

「美桜さん」

「はい?」

「ありがとう」

親父が美桜に言った『ありがとう』

その言葉が何に対しての言葉なのかは俺には分からない。

綾さんの分娩に立ち会った“ありがとう”なのか……。

生まれたばかりの赤ん坊を優しく抱いてくれていることに対しての“ありがとう”なのか……。

それとも、全く別の事に対しての“ありがとう”なのか……。

俺には分からない。

でも、美桜には分かったようで

「いいえ、私こそありがとうございました」

そう言って頭を下げた。

そして、綾さんもベッドに横たわったまま、美桜と親父のやり取りを見て満足そうに笑っていた。


◆◆◆◆◆


綾さんは出産後の様子を2時間ほど看ないといけないらしく、分娩室のベッドの上で安静にしておくように命じられていた。

その間は家族も分娩室にいてもいいらしく、綾さんと親父、美桜と俺、そして生まれたばかりの妹。

初めて5人で過ごす貴重な時間となった。

「はい、お父さん」

そう言って美桜は抱いていた赤ん坊を親父に手渡した。

意外にも慣れた手付きで我が子を受け取った親父は寝ている赤ん坊の顔を覗きこみ

「……」

無言でその表情を崩した。

『可愛いなぁ』

口には出さないけど親父のそんな声が聞こえて来そうだった。

念願の女の子。

親父は嬉しくて堪らないらしい。

腕の中にいる小さな赤ん坊を見つめる親父。

そんな親父を見て俺は思った。

これから相当な親バカぶりを惜しげもなく披露しまくるんだろうな……。

美桜の時でも凄かったのに、それが実の娘となると……。

軽く想像して、俺は大きな溜息を吐いた。

……気の毒に……。

無性に妹が可愛そうに思えて仕方が無かった。

そんな俺に

「おい、蓮」

親バカ予備軍の親父が呼び掛けた。

「なんだ?」

「お前の妹だ」

「……あぁ、知ってる」

「ちょっと抱いてみろ」

「はっ!?」

俺の返事も聞かず親父は自分が抱いている赤ん坊を差し出してくる。

「……」

自慢じゃねぇが、俺は生まれたばかりのガキなんて抱いた事がない。


だから『ちよっと抱いてみろ』な んて言われてもそれ無理って話だ。


「……いや、俺は……」

そう言いつつ俺の身体は自然と一歩後退した。


「……」

そんな俺に不思議そうな表情の親父は、無言で一歩近付いてくる。

俺が一歩後退りすると親父も一歩近付いてくる。


そのまま俺達が数歩移動した時

「なにやってんの?」

綾さんの溜め息混じりの声が聞こえた。


助けを求めるように咄嗟に声がした方に視線を向けると、そこには訝しげな表情の綾さんと苦笑いをしている美桜が俺と親父のやり取りを見つめていた。


「そんな事をして遊んでると落としちゃうわよ」


……別に遊んでる訳じゃねぇんだけど……。

綾さんには、俺の心の声が伝わるはずもなく……。

俺を助けようとするどころか、『早く抱きなさいよ』的な視線を向けてくる。


……だよな……。

綾さんが俺を助けてくれる訳がねぇよな。

……困ったな……。

この空気的に『抱けない』ないて言えねぇし。

だからってこんなに小せぇ赤ん坊を抱くのもなんか怖ぇし。


俺が必死で考えていると

「お父さん」

いつの間にか美桜が俺の隣に立っていた。


「うん?」

「もう1度抱っこさせてもらってもいいですか?」

「あぁ、もちろん」

親父は、俺に差し出していた赤ん坊を美桜へと差し出した。


その赤ん坊を器用に受け取った美桜が俺の顔を見上げた。

そして、にっこりと笑みを浮かべた。


……?

なんだ?

そう思った瞬間、


「はい、蓮さん」


美桜は赤ん坊を差し出した。

美桜のその声と動作に俺は咄嗟に手を出してしまった。


「……」

「落とさないように気を付けてね」

美桜はそう言いながら、俺が差し出した両手にそっと赤ん坊をのせた。


掌に感じる温もりと重み。

俺は差し出した両手の上に赤ん坊を乗せたまま、呆然と美桜の顔を見つめる事しかできなかった。


「蓮さん、それじゃ落としちゃうよ」

「あ?」

美桜が何を言いたいのかが分からない俺はただ、首を傾げるしかなった。


「それは抱いてるっていうより持ってるって感じだな」

苦笑気味の親父と

「お願いだから落とさないでよ」

呆れ果ててるって感じの綾さん。


親父に苦笑されようが、綾さんに呆れ果てられようが、俺は両手の上にスヤスヤと眠る赤ん坊をのせたまま、身動き一つできずにいた。


「蓮さん」

「うん?」

「あのね、左の肘のところに赤ちゃんの頭を載せて,右手はお尻を支えるように……」

「……」


「うん、そうそう。そんな感じ」


美桜にレクチャーされた俺は、なんとか赤ん坊を抱く事ができた。


両腕に感じる温もり。

そして、微かな重み。

俺は、産まれてすぐの赤ん坊がこんなに軽い事を知らなかった。小さな身体を抱くその腕に少しでも力を入れると壊れてしまいそうな気がする。


「ね?可愛いでしょ?」

美桜にそう尋ねられて、俺は改めて赤ん坊の顔に視線を落とした。


「……」

「蓮さん?」

「……なんか……」

「……?」

「……サルみてぇだな」

「……!?」

俺の正直な感想に美桜は絶句し、親父と綾さんは顔を見合わせて苦笑していた。


◆◆◆◆◆


出産が終わって2時間後。

なにも異常が無かった綾さんは病室へと戻り、赤ん坊は経過観察の為に新生児室へと連れて行かれた。

今晩は、このまま綾さんに付き添うという親父を病院に残し、俺と美桜は帰る事にした。


帰りの車内。

俺は美桜に尋ねた。


「腹減ってねぇか?」

「お腹?」

「あぁ,バタバタしてて昼飯も食ってねぇし。」

「……そう言えば、すっかり忘れてたね」

「何か食って行くか?」

「うん」

美桜が小さく頷いた。


「腹減ってねぇのか?」

「……お腹は空いてるんだけど……」

「……?」

「それよりも、なんか胸が一杯で……」


……胸が一杯?

……。

……。

あぁ、そうか。

そうだよな。

美桜は今日、緊張の連続だったはずだ。

“なんか胸が一杯で……”

本当にそれが美桜の正直な心境だと思う。


「今日、綾さんの出産に立ち合わせて思ったんだけど……」

「あぁ」

「お母さんってすごいんだなぁって」

「すごい?」

「うん。あのね、綾さんは今日一度も弱音を吐かなかったんだ」

「あぁ」

「ものすごく痛くて辛かったはずなのに……・」

「あぁ」

「私が『大丈夫ですか?』って聞いても『全然大丈夫よ』って……」

「あぁ」

「どうしてあんな状況で笑ってられるんだろ?って不思議で仕方がなかったんだ」

「あぁ」

「だから聞いたの」

「ん?」

「『どうしてそんなに笑っていられるんですか?』って……」

「あぁ」

「そうしたら綾さんが言ったの」

「なんて?」

「『この痛みは辛い痛みじゃないの』って……」

「……?」

「『新しい命をこの世に生み出すための痛みだから嬉しい痛みなのよ』って……」

「……」

「『もうすぐ逢えると思うと全然辛くなんてない』って……」

「……」

「それを聞いて、お母さんってすごいなぁって思ったの」

「……なるほどな」

「うん」

「なぁ、陣痛ってかなり痛いんだよな?」

「う~ん、私もどんな痛みかは分からないんだけど、女だから耐えられる痛みなんだって……」

「ん?」

「身体の構造的に男の人が陣痛を体感すると心臓が耐え切れずに死んじゃうらしい」

「は?死ぬ?」

「うん、さっき綾さんに教えてもらったの」

「そ……そうか。死ぬのか……」

「だから陣痛に絶えられるのは女だけに与えられた特権であって本能なんだって」

「本能?」

「うん、赤ちゃんを産めるのも、赤ちゃんを育てていく為に必要なことも本能で分かるらしいよ」

「そうか」

「うん」

頷いて、ニッコリと笑みを浮べた美桜は何かを吹っ切ったようにすっきりとした表情だった。

「じゃあ、お前にもその本能があるんだな」

「え?」

「赤ん坊を上手に抱いてたじゃねぇか」

「……あれは、看護師さんに教えてもらったんだけどね……」

「そうか」

どことなく気まずそうな美桜に俺は吹き出しそうになった。

「……でもね……」

「うん?」

「今日、ちょっと思ったんだけど……」

「あぁ」

「……いつか、自分の赤ちゃんを抱っこしたいなぁって……」

そう言った美桜の声はとても小さかった。

小さかったけど俺の耳には確かに届いた。

その言葉に思わず俺は美桜に視線を向けた。

美桜はまっすぐに前を見つめていた。

「れ……蓮さん!!運転中なんだから前を見て!!」

「お……おう」

再び前に視線を向けると

「いつか……」

美桜はゆっくりと言葉を紡いだ。

「いつか、私も綾さんみたいに赤ちゃんを産んでお母さんになってみたいな……なんて……」

「そうか、いいんじゃね?」

「えっ?」

「今日の体験でお前がそう思えたなら、綾さんだって喜ぶだろ」

「……そうかな?」

「あぁ」

前に顔を向けたままチラッと隣を見ると、満足そうな嬉しそうな表情の美桜。

その表情を見て、俺は綾さんの企みに感謝した。

「……あっ!!」

「……?」

「……でも、私が赤ちゃんを産むのはまだまだ先の事だからね!!」

「あぁ」

「私がちゃんと大人になってからだから!!」

「あぁ」

「……だから、待っててね」

「うん?」

「いつか……蓮さんの子供を産むから」

「……あぁ」

その日、美桜と交わした小さな約束。

その約束に俺は、ガラにもなく胸を弾ませた。



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