三 友

 降りしきっていた雨は夜の間にやみ、山の木々からのぞく空は、星の光に満たされた後、今や白み始めていました。

 村の外れの小さな家の、戸のない戸口から、蓑と笠を身に着けた一人の少女が、うつむきながら出てきました。モモです。彼女は暗い顔をして、村の中心の方へと、とぼとぼ歩いていきます。


 昨晩、泣き疲れたモモは、そのまま居間の端で、いつしか眠りに落ちてしまいました。

 気づかぬうちに母の着物を羽織っていたものの、やがて彼女は寒さで目を覚ましました。そうして他にだれもいない家の中で、モモは母親が亡くなったことを改めて悲しむとともに、彼女の話をふり返って考えたのです。

 村を出て、生きろ、そう母は言いました。ほんの子供にすぎないモモにとって、あまりに過酷な指示です。山を出たことさえないのです。けれどもモモは、そうしなければならないということが、しだいに分かりかけていました。

(……わたしがこの村にいて……、わたしの不思議な力を、だれかが恐れることになったら……、鬼が現れて、人をおそうことになる……。お母さんの言い方だと、昨日の男の子たちには、お母さんがごまかして言い聞かせたんだと思う。けど、また何かわたしが、ふつうじゃないところを、見せちゃうかもしれない……。それに……、お母さんだけがこんな風に急にいなくなって、わたしだけがこの家にいたら、それこそ不気味に思われる……。わたしはここを、はなれなくちゃいけないんだ)

 モモはこのように考えて、暗いうちから動き始めることにしたのです。

 彼女は鬼がめちゃくちゃにした家の中をきれいに片付け、必要な物をまとめました。山のふもとまで下りれば、他の村や、少なくとも民家はあるでしょうけれど、いったいどのような旅になるのか見当も付きません。替えの着物や、なべやおわん、火打ち石、昨日の短刀に筆やすずりなど、荷物はやたらと多くなりました。

 筆とすずりをしまう前に、モモは村で一番仲の良かった女の子のハルに、次のような手紙を書きました。

『ハルちゃんへ。わたしはお母さんと、急に親戚の所へ行くことになってしまいました。直接お別れを言えなくてごめんなさい。くわしくは、お母さんが村長さんに手紙を書いたので、村長さんに教えてもらったら分かると思います。今まで、いっしょに遊んでくれてありがとう。さようなら。元気でね。モモより』

 モモは友達と別れるのをとても辛く思うのとともに、彼女や村の人たちに嘘をつかなければならないことを、心苦しく思いました。

 母が村長に手紙を書いたというのは、もちろん嘘です。モモが母のふりをして書いたということさえありません。手紙はハルあての、この一通だけです。モモは悩んだ末、こうしておけば村のみんなは、

「母親が書いたという手紙は、風に飛ばされるかして、なくなったんだろう。くわしくは分からずじまいだが、急に村を出るような、そういうこともあるのかもしれない……」

という風に思って、あまり恐れをいだかず、ほどほどになっとくしてくれるだろうと考えたのです。

 さて、手紙を書き終えたモモは、残りごはんで団子をこしらえ、笹の葉で包むと、それを他の荷物といっしょに、大きなふくろに入れました。そうしてそのふくろを背負い、蓑と笠を身に着けたところで、モモは住み慣れた小さな家の中を、さびしげに見わたしました。そして間もなく、彼女は意を決して戸口へと向かったのです。

 鬼が壊したせいで戸口にとびらがありませんが、これはどうしようもありません。けれども木切れはすっかり片付けたので、案外しばらくは妙だと思われないかもしれません。そう願う他ありませんでした。

「あ……」

と、敷居をまたごうとして、モモはつぶやきました。戸口のそばの床に、一つの丸い、植物の種が落ちていたのです。昨夜モモが鬼に投げつけた、あの種でした。

(……そう言えば、夢中で気にしてなかったけど……。昨日はこんなに小さくて軽い物をぶつけただけなのに、あの鬼は消えちゃった……。刀のさやを当てた時は、びくともしなかったのに……。この種に、何か不思議な力があるのかも……)

 モモはかがんで種を拾い、にぎりしめました。

(持っていこ……。せめて、お守りになってくれるといいんだけど……)

 こうしてモモは、日の出前のあけぼののころ、母と住んだ家を出ました。それから友達のハルの家の戸に手紙をはさみ、村を出て、たった一人、山を下りていったのです。


 さて、だれにも気づかれることなく村を出たモモでしたが、その足取りは重く、ほとんど顔を真下に向けながら、ふもとへの小道を歩いていました。山みねの向こうの東の空は少しずつ明るくなり、紫がかった雲が細くたなびいていますが、モモの心は暗いままです。

(……これからわたしはどうなるんだろう……。どうすればいいんだろう……。わたしを住まわせて、働かせてくれる所があるかな……? ひょっとして、お寺とか……? でも、わたしみたいな女の子って、お寺にも入れないんじゃない……? わたしは、どうすれば……)

 そんな風にくり返し考えながら歩き続けていると、間もなく東のみねから朝日が上り始めました。その黄金色の光と空気に気がついたモモは、ここでようやく顔を上げると、目を細めて朝日を見ながら、こんな風に思いました。

(……お母さんは最後に、言ってた……。おじいさんが桃に言ってたおまじない……、神様が桃に言った言葉、って……。自信ないけど、お母さんがわたしに言いたかったことは多分……、そう。人を助けて生きなさい、ってこと……。桃の実みたいに……。この、お日様みたいに……。わたし……、できるかなぁ……)

 モモは目になみだを浮かべました。やがて彼女がふもとへの道に視線をもどした、ちょうどその時です。山の雀や鳩の鳴き声に混じって、下の方から人の話し声が聞こえてきたのです。

(だれか来る……。きっと村の人か、村に用事のある人だ……。会わない方がいいよね……)

 モモはこのように考えて、小道を外れてわきのしげみに入り、そのまま木々の中へと分け入っていきました。


 モモが林の中を進んでいくと、やがて少しずつ、周りの木の種類が変わっていきました。村の周りに多かった、杉の木や、冬の間に葉を落とす、ブナや桜の木々が減って、反対にシイやクスノキなどの、濃い緑の葉を付けたままの木が増えているようです。しだいに上っているはずの日の光は、それらの木々の分厚く広がった葉にさえぎられて、辺りはむしろ、先ほどまでより暗くなっていきました。

(……これは……、失敗だったかも……。闇雲に行くんじゃなかった……。道も、方向も、これじゃあ分からない……!)

 モモがあせり、うろたえ始めた時でした。向こうの方から、獣のようなものが姿を現したのです。

(狼っ……? ううん、白っぽいから、多分、犬……。野犬だ……! どっちにしろ危ない……!)

 野犬の方でもモモの存在に気づいているようで、こちらをじっと見すえながら、ゆっくりと近づいてきます。モモは犬の考えを読み取ろうとしましたが、どういうわけか、いつものような獣の声が聞こえてきません。

 うかつなことに、母の短刀は背中のふくろの中です。出しているひまはありませんし、どのみち野犬相手にあつかえる自信もありません。モモは少しずつ後ずさりしながら、木に登ってやりすごすしかないと考えました。

 その時です。彼女は近づいてくる犬の姿を改めて見て、息をのみました。

 その犬には、足がなかったのです。前足、後ろ足、それらがないばかりではありません。信じられないことに、胴体がないのです。白い大きな犬の頭の後ろに、白い尾だけがくっついています。そうして地面から少し浮いて、ふわふわとただようように進んでくるのです。

(あれは何っ……! 妖怪っ?)

 そう思った時でした。犬の頭が、口を大きく開き、おそろしい牙をむき出しにして、モモに向かって飛びかかってきたのです。

「キャアアッ!」

 モモは悲鳴を上げましたが、身動き一つできませんでした。犬の頭はすぐそこまで飛んできています。一瞬後には、自分の顔面は食いちぎられているだろう、と、彼女がそう思った直後でした。

 グシャァッ!

 犬の頭は目の前からそれて通りすぎ、気持ちの悪い大きな音が、モモのすぐ後ろから聞こえたのです。

 モモにはけがも痛みもありません。彼女はおそるおそる後ろをふり返りました。すると、そこには先ほどの犬の頭が宙に浮いていて、そしてそのそばの地面に、のたうち回る、二本の太いひものようなものがあったのです。

 それは蛇でした。信じられないほど巨大な蛇が、二つにちぎれて、それにもかかわらず、ぐねぐねと暴れているのです。これも妖怪の一種にちがいありません。

 モモがふたたび犬の頭の方を見ると、犬はベッと音を立てて、口から地面に何かはき出しました。彼女はようやく理解します。

(……この、犬の頭が……、わたしのすぐ後ろまでせまってた大蛇を、かみ殺したんだ……! そうしてくれてなかったら……、今ごろわたしは、蛇に飲みこまれてた……!)

 大蛇の体は間もなく動きがにぶくなり、それからみるみる縮んで細くなっていきました。やがてほとんど糸のような細さになったところで、それは風に吹かれて消えてしまいました。

 あっけに取られていたモモに対して、ここで例の犬がその頭を上げ、彼女をまじろぎもせず見すえました。モモはふたたび身をすくませます。

(ヒッ……! 蛇にやられなかったのはいいけどっ……、この犬の化け物は、わたしをどうするつもりっ……?)

 モモはふつうの犬の考えていることなら分かりますが、犬の妖怪の心は、声として聞こえないようでした。が、ここで彼女は、あることに気づきました。

(……あれっ……。この犬……、しっぽふってる?)

 犬はふわふわ浮きながらモモの周りをゆっくり回り、クンクンと一所懸命に彼女のにおいをかいでいます。そしてその頭の後ろから直接生えている白い尾は、せわしなく左右にゆれていました。

(……これって……。敵意があるんじゃなくて……、好奇心……?)

 モモがそう思った時です。犬の妖怪が、口を開きました。

「きみ、なんだかいいにおいがするね」

「いっ……!」

 犬の頭がすらすらと言葉を発したのに対し、モモはおどろきのあまり言葉をつまらせました。犬はふたたびクンクン鼻を鳴らすと、モモの胸の高さくらいまで浮き上がって言いました。

「うん、やっぱりいいにおいがする。おいしそうなにおいだ」

 モモはうろたえながら犬に言います。

「やだっ……! あなたっ、わたしを食べるのっ?」

 すると犬の妖怪は、ふつうの犬よりもずっと分かりやすく笑顔になって、こんな風に言いました。

「あははっ! いやだな! 今、きみのこと助けたばっかりじゃないか。ぼくは人間は食べないよ。けど、人間の食べ物はけっこう好きなんだ。きみ、何か持ってるだろう」

 モモはようやく落ち着きを取りもどして言います。

「……あなた……、やっぱりさっきの大蛇から、わたしを助けてくれたんだね……」

「まあね。きみ、ぜんぜん気づいてないんだもんな。危ないとこだったぞ?」

 犬の頭は顔をしかめて言いました。モモは息をつくと、申しわけなさそうにして言いました。

「ありがとう……。命の恩人だね……。ええっと……」

 彼女はここで背中の荷物を下ろすと、地面にひざを突いて、ふくろの中を探りながら言いました。

「……食べ物なら、たしかに持ってる……。こんなものじゃ、お礼にはぜんぜん足りないけど……」

 モモは今朝用意した、笹の包みを開いて犬に見せました。

「これかな? 良かったら、どうぞ。……残りごはん、それもキビのごはんを、ただこねただけだけど……」

 要するに、キビ団子です。すると犬は、目をかがやかせて言いました。

「へえ~! おいしそうじゃないか! じゃあ、お言葉に甘えて、いただきます!」

 モモは犬に向かって、おっかなびっくり団子を差し出しました。犬は飛びついて二、三個口に入れると、ちょっとかんですぐに飲みこんでしまいました。

「おいしいっ! ごちそうさま! きみ、料理の才能あるじゃないか!」

 モモは苦笑いをしながら言います。

「料理、かなあ、これ……。フフッ。まだあるけど、もういいの?」

「ああ。こう見えて、ぼくは小食なんだ」

 モモは頭と尾だけの犬を見て返事に困りましたが、代わりに彼に、こうたずねました。

「……あなた、妖怪なんだよね……? あなたは……、その、いい妖怪、なの……?」

 すると犬は少しきょとんとした後、何気なく言いました。

「いいとか悪いとかはよく分からないけど、さっきの大蛇みたいに、人をおそうやつとはちがうのはたしかだな。ぼくみたいなの、犬神明神いぬがみみょうじん、って言うらしい。ぼくとしては犬のころから、やってることは大して変わってないつもりだけどね」

「……いぬがみ、みょうじん。……犬だったの? その、昔は……」

「っと……。ああ……、何十年前か前はね……」

 モモの質問に、犬神明神はばつが悪そうに答えました。

「どうしたの? 大丈夫……?」

 モモはそう言いつつ、団子を下ろして犬の顔をのぞきこみました。彼はしばらくだまったまま視線をそらしていましたが、やがて声を落として、モモにこう言いました。

「……聞いてもらっても、いいかい……?」

 モモはとまどいながらも、こくりとうなづきました。するとさらに間を置いてから、犬はさびしげに話し始めたのです。

「……ぼくは……、北のムツの国の、猟師の犬だったんだ……。ある時、飼い主とぼくが山に入ると、まさにさっきみたいに、飼い主の背後から、大蛇がおそいかかろうとしててね……。ぼくは飼い主に向かって、必死でほえたんだ。『後ろ後ろ!』ってさ。……けど、その人には伝わらなかった。……それどころか……」

 犬は地面を見つめました。

「……あの人はぼくのことを、うるさいって思ったのか……、それとも、頭がおかしくなったと思ったのか……。刀を抜いて……、ぼくの首を、はねたんだ」

 モモは青ざめ、息をのみました。犬はうなだれたまま、さらに言います。

「……だけどどういうわけか、ぼくはそれでも、死ななかった。……あ、いや、そんな風に言って良ければだけどね……。頭だけになったぼくは、そのまますぐに、飼い主におそいかかろうとしている大蛇に、飛びかかって食いついたんだ。ご主人……、飼い主は、危ないところで助かった。ぼくは大蛇と山を転げながら格闘して、間もなくそいつをたおした。それで、元いた、飼い主の所までもどったんだ。……けど……。その人はすでに、そこにいなかった。……においで分かった。その人は山を下りたんだ。……首だけになったぼくは、住んでいた猟師小屋にもどって、長いこと待った。何日も、何日も……。けど、彼は帰らなかった。……ご主人様は……、ぼくに会いにもどることは、なかったんだ……」

 なみだを流して聞いていたモモは、ここでたまらず犬の頭をだき寄せました。

「なっ……!」

 犬はとまどいますが、モモは泣きながら彼をだきしめて言います。

「恐かっただけ……。あなたの飼い主さんは、ただ恐くなってしまっただけなの……。山を下りた時も……、あなたを、はねてしまった時も……。ただただ、おくびょうで……、恐れに、飲みこまれてしまったんだと思う……」

 犬も、なみだを流したようでした。そうしてしばらく後、彼は声をふるわせて、モモにこう言いました。

「……どうしてかな……。こんな姿じゃ、人間に見られたとたんに恐がられるだけなのに……。気がつくと、ぼくは人里に近づいてる。人間をおそうやつがいないか、気にして辺りを、かぎ回ってるんだ……」

 モモは胸がしめつけられる思いがしました。この犬はおそらくずっと、ほとんど人に知られることなく、人を外敵から守ってきたのでしょう。

 と、その時。モモの頭に、ある考えが浮かびました。初めはぼんやりとしていたその考えは、間もなく彼女の中で、小さな決意になりました。

 モモはなみだをさっとぬぐうと、犬に向かって、こんな風に言いました。

「わたし……。あなたを、助けたい……。あなたはずっと、人を助けてくれてたんでしょう? ……そんなあなたの、手助けをしたいの、わたしは……」

 犬はモモの腕の中で頭をよじると、彼女の顔を見て、まゆをひそめながら言いました。

「……そういえば、聞きそびれてたね……。きみみたいな女の子が、いったいどうして、一人でこんな所に……」

 そこでモモは、自分のことや昨日起こったこと、母親の遺言などについて、一つ一つ、犬に語って聞かせたのでした。


 モモの話を、犬は目を丸くして聞いていました。やがてモモが語り終えると、犬は深く息をついて言いました。

「そうか……。いろいろと、気の毒だったね……。すごいな、きみも……、きみのお母さんも……。ただ者じゃないよ」

 モモは切なそうにほほえんで、犬に言います。

「……それで、ね。わたし、思ったの。あなたみたいに、かげながら人の周りの鬼とか妖怪とかを退治できれば、わたしはお母さんとの約束を、果たせるんじゃないか、って……。もちろんまずは、わたし自身が生きていく見通しが立たないと、だめだけど……」

 犬は考えながら言います。

「そうだな……。まだ冬が終わったばっかりで、周りに食べ物も少ないし……」

「……それで……、どう、かな……? わたしに、手助けをさせてくれる? 犬神明神さん……」

 モモがおそるおそるたずねると、犬神明神はきっぱりと言いました。

「いや、それはできない」

「えっ……」

 モモはがっくりと肩を落としました。が、すぐに犬は笑って言います。

「あはっ、待ちなよ! ぼくは犬だ。人間が犬の手助けをするっていうんじゃ、あべこべだ。モモ……。ぼくがきみを助ける。ぼくにきみの、お供をさせてほしい」

 それでもモモはとまどいます。

「そんなっ……。お供なんて、わたしなんかが、えらそうな……」

 と、ここで彼女は何か思いついて、気はずかしそうにしながら言いました。

「……じゃあ……。トモはトモでも……、友達の友、は……?」

 犬は笑いました。

「あははっ! いいよ! じゃあそうしよう! ……っと、そういえばもう一つ。ぼくのことさ、犬神なんとかって呼ばないでよ」

「えっ?」

「名前があるんだ。『小白丸こじろまる』。そう呼んでほしい」

「フフッ! 分かった。じゃあよろしくね、小白丸」

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