第10話 ベランジェール・ジオネ

 アンリはケージの隅で必死に考えあぐねた。大声で助けを呼ぶべきか、変に刺激しないために大人しく従うか、手を出される前に反撃するか――。

 その女性は見たところ特に武術に長けているようには思えず、反撃することは比較的簡単に出来そうだった。だが、そもそも彼女が何のためにここを訪れたのかが分からないため、アンリは咄嗟に動くことが出来なかった。


「誰? 何のためにここに来たの?」

 アンリは兵士の誰かが気付いてくれることを期待して、少し大きめの声を出した。

 その女性は荷馬車の台に上がり込むと、幌をしっかりと閉じて外から分からないようにした。そして、興味深そうにアンリをじろじろと見つめ始めた。

「あなたが私の質問に答えたら教えてあげるわ。だからもう少し静かにして」

「こっちの質問に答えないと、大声を出すけどいいのか?」

 アンリは強気に出た。彼女の雰囲気から察するに、何か危害を加えるつもりは無さそうだったからだ。

「ありゃ、一本取られた」

 その女性は感心したそぶりを見せた。


「私はベル、編書士よ。あなたと会話をしに来たの」

 その落ち着いた知的な声は、ヘルガが昨日話していた人物に間違いない。肩までかかる黒髪がサラサラとなびき、細くすらりとした手には分厚い書物が握られている。薄手の布で出来た衣装は彼女の細身の身体をよく強調した。


「意外と小さいのね、私と同じくらいかしら。もっとゴツイと思っていたわ」

 ベルは手にした書物を開くと、白紙のページに何やら文字を書き出した。

「編書士ってなに? 何を書いているの?」

 アンリは少し声を落として言った。

「編書士を知らないの? 簡単に言えば本を書く研究者よ。この世のありとあらゆることを書物に残し、人類の英智を記録し守る人々。今書いているのはあなたの第一印象。研究者があなたのことに興味を持たないわけが無いでしょう?」

 ベルはスラスラと喋りながら、素早くペンを走らせ続けた。

「少し油の乗った黒髪、肌は白くてシミ肌荒れほくろなし。かなり痩せ型。筋肉はあまりない――。それで、次はあなたの番よ。何者なの? 記憶が全くないって本当?」

「待って、どうやってここに来たの? 兵士の許可は得てるの?」

 アンリは走らせるペンを目で追いながら言った。

「そんなのどうだっていいでしょ。捕虜の身なのに兵士の許可がどうだなんて考えるの? 変なやつね」

 ベルはペンを止めずに喋った。

「さてはエミリオって人を相当信用しているようね。たしかにあの人は若くしてできる奴だって有名だけど、本当にそんなに信頼できる人なのかしら」

 ベルはそう言うと、一瞬だけペンを止めてアンリの目を見つめた。言われてみれば、捕らえられている身なのにその人達の側に立つのはおかしな事だとアンリは思った。

「名前はアンリ。オーレンでは龍の遣い魔だと言われたけど、自分では何も分かってない。記憶が……ほんとうに何も無くて、あるのはオーレンで目覚めてから今日までの記憶だけだよ」


 アンリはベルをまだ信用できないと思い、クラムがドラゴンを倒す時の様子をぼんやり思い出したことについては一切語らないと心に決めた。


「ふぅん……。名前だけはすぐに思い出したの?」

「思い出したというか、目覚めて直ぐに色々と問い詰められて、とっさに出てきたのがその名前だっただけ。たぶん僕の名前だけど、確証はない」

 アンリがそう言うと、ベルはまたペンを止めて考え込んだ。ベルの視線はあちこちを飛び回り、ペンを持つ手は小刻みに揺すられている。

「あなたが捕えられた場所がオーレンだと分かったのはいつ?」

 ベルはペン先をアンリの方に向けた。口調は少しきつく、早口で無駄ない喋り方がアンリは少し苦手に感じた。

「兵士に問い詰められる中で、『オーレンに何の用だ』って言われて――」

「あなたはオーレンのことを知っていた? 採掘後の坑道を利用した街だとか、鉄鋼業が盛んだってこととか」

「いや、名前は聞いたことあったけど、どんな街かは知らなかった」

 ベルの質問の意図が分からなかったが、アンリは取り敢えず答えた。ベルはアンリが何か言う度、手元の書物に素早く文字を書き込んでいた。


「王都ビットリアは知ってる?」

「うん、これから行く都市だろ?」

「そうだった。知ってて当然か。じゃあエルド・アストガイルは?」

 その言葉を聞いたことがあるような気がするが、どうもそれが何なのか結びつかない。

「聞いたことがあるけど、分からない」

「ここ、今私たちがいる王国の名前よ」

 何故そんなことも知らないのかと、ベルは訝しげに眉をひそめた。

 それからベルは、地名やら何やらを沢山アンリに尋ねた。ジェロマッカはもちろん知っていた。ミーシェン、ドラクボレー、アテルマーレは聞き覚えがあったがどんな場所かはっきり分からなかった。他にも沢山の地名を言われたが、それらはどれもすぐ忘れるくらいにはさっぱりだった。

 暫く質問攻めにあった後、ベルは困ったように黙り込んでしまった。この時、アンリはベルの思惑に薄々気がついていた。アンリの記憶の中にある地名を探ることで、記憶を無くす前に暮らしていた場所を特定するつもりなのだろう。


「おかしいわ」

 ベルは匙を投げたのか、手にした書物をぱたんと閉じた。アンリは質問責めに疲れていたので、特に反応せずぼんやりと座ったままベルを見つめていた。

「規模の大きな都市や街の名前は知っているけど、その他の名前は一切分からないなんて、普通そんなわけないわ」

「僕は普通じゃないもの」

「そうね。でも自分の生まれ育った街とその近辺の名前くらいは知っている筈でしょ」

 アンリは必死にあれこれ考えるベルの様子を見守った。彼女はわざわざエミリオの目をかいくぐってここまで来て、一体何をしたいのだろうか。


 ふと、ベルが手にする書物の表紙に目が留まった。そこには、金色に輝く大樹の絵が描かれている。大樹の周りには空を飛ぶドラゴンが、そして大樹の根元にはなにやら巨大な結晶のような物が描かれていた。そしてそれは何だか、見覚えのある風景だった――。


 アンリの視線に気がついたのか、ベルは手にした書物をじっと見つめた。

「これを知ってるの?」

 ベルは興味深そうに尋ねた。

「分からない。確証は無いけど、見たことがあるような」

「これを見て思いだしたこととか感じたこととか、どんな事でもいいから教えて頂戴」

 アンリはうんと頭を悩ませた。そうは言われても、確かな記憶は何も出てこないのだ。

「それがとても大きい木ってことしか分からないよ。見上げても先端が見えないくらい高くて――そうだ、幹の一部が半透明の結晶になっているから、太陽の光を乱反射してとってもキラキラ輝いている。あとは――」

 アンリが必死に言葉を探しているその時だった。


「お喋りはそこまでだ。ここで何をしている?」

 現れたのは、王都の兵士だった。荷馬車の幌が勢いよく捲られたかと思うと、銀色の剣がベルの首筋に当てられる。ベルは剣と荷台の支柱に挟まれ身動きが取れなくなってしまった。

「何もしていない。お喋りをしていただけよ」

 ベルは引き攣った表情で即座に答えた。兵士は幌の中を覗き込むと、アンリとベルをじっと睨んだ。

「今すぐそこから降りろ。余計な動きをすれば怪我をすることになるぞ」

 兵士は大人しく、そして冷静だった。

 ベルは兵士の剣が喉元から離れると、急いで荷台から飛び降りた。ベルが降りるとすぐ、幌はアンリの視界を遮り、また何も見えなくなってしまった。


「見張りの兵士を眠らせたのはお前か」

 兵士がベルを厳しく問い詰める声が聴こえた。

「見張り? 私は知らないわ」

「そんなはずは無い。この部屋の入口は一つだけ、見張りと必ずそこで出会ったはずだ。使ったのはリュウカソウもしくはハナモドキの成分だろう?」

「知らない。私が来た時にはもう眠っていたんじゃない?」

「薬瓶か何かをまだ持ってるんじゃないか? アレは強い催眠成分を維持するにはそれなりの容量の溶液で保管する必要があるだろう?」

「何でそんなに詳しいのよ。悪気は無いの、彼はあと一時間もすれば目が覚めるはずよ」

 おそらく、薬瓶かなにかをベルが差し出したのだろう。ガラス瓶がカチカチと何かに触れ合う音が聞こえた。

 それからベルが兵士にあれこれと弁明を続けていると、別の人物が何人か駆けつけたようだった。


「あぁ、エミリオ。こいつだよ、奴の荷馬車の中に居た。詳しい話はまだこれから問い詰めるところだ」

「ありがとうトラヴィス。昏睡した兵士もこの子が?」

「表の兵士はハナモドキ由来の薬液で眠らされただけみたいだ。放っておいていい。こいつは、縛るか?」

 トラヴィスと呼ばれたその兵士は、エミリオに対して敬語を使っていなかった。不審者を捕らえたというのにあまり緊迫していないその様子から、彼らが気心の知れた仲だというのは容易に想像できた。


「さて、どうしようか。君はベルといったかな? 何をしにここに来た」

 声を聞く限り、エミリオはあまり怒っている様子は無かった。

「編書士のベランジェール・ジオネです。王都シエル・アバート学院の登録研究員でもあります。知的好奇心から、あの……、アレに接触してみたくて……。色々と、お話をしていました」

 ベルの言葉は尻すぼみに小さくなっていった。

「我々の隊列に参加していたから君のプロフィールは把握しているよ。確か王都への帰路の安全確保のため、隊列に加わっていたんだっけかな?」

 エミリオは、妙に淡々と喋った。

「はい、あの、オーレンで調査活動をしていまして、王都に帰るタイミングが皆様と一緒だったので、安全に帰りたくて……」

 ベルは何やらとても不安そうだった。

 話を聞く限り、どうやらベルは兵士の関係者じゃないらしい。民間人だが、安全に王都へ行きたくてエミリオ達に混ぜてもらったのだろう。

「君がやったことは重大だ。王都で行えば不法行為で逮捕は免れない。我々の任務の阻害は議会や王への反発とも等しい行為だ。残念だが、君を我らの隊に帯同するのはここまでとしようか」

 なるほど、ベルはこれを恐れていたのかとアンリは納得した。兵士たちと共に動けなければ、彼女は残りの危険な道程を一人で行かねばならないのだろう。


「彼の情報ならあります。だからお願い! もうしませんので!」

 エミリオが喋り終えたとほぼ同時に、ベルは叫んでいた。アンリはその言葉の意味が分からなかったが、すぐに『彼』が自分のことを指していることに気がついた。


「彼にこの国のありとあらゆる地名を言って聞かせました。彼が記憶に僅かでも残っていた地名は、どれも有名な大型都市のみでした。アテルマーレ、ドラクボレー、ミーシェン、これが何を意味するか、分かりますか?」

 ベルは早口でまくし立てるように言った。エミリオは少し困った様子で、言葉を返した。

「記憶障害が重いか、嘘をついているか、もしくは彼がこの国では無い他の場所から来た存在だということか? だがそれがどうした」

「彼はこの絵を見て、『見上げると先が見えないほど高く、木の枝が太陽の光を反射させる』と言ったんです。これは、彼があの世界樹の近くに暮らしていた、もしくは行ったことがある証拠です。普通の人間は、あんなドラゴンの巣窟に近付けないもの、見上げた姿を語るはずがありません。それに、長らく噂されてきた龍の遣い魔の住処が世界樹の近くにあるかもしれないという説の信憑性を高めるものです。私はオーレンや北部の街で龍の遣い魔に関する伝承や記録を調査してました。調査結果を兵士さんたちにお渡しすることもできます。だからお願い――」

 ベルのあまりにも必死な弁明に、兵士たちは気圧されているようだった。

「分かった分かった。話を聞いてやるからとりあえずここを離れよう。トラヴィス、ベルを上へ連れて行って話をたっぷり聞いておいてくれ。シリルとハーヴィは交代でここの見張りをするんだ。もう眠らされるんじゃないぞ」

 エミリオがそう言うと、半泣きになったベルの声が徐々に遠ざかっていった。


「ハーヴィ、彼女がここに来たのは?」

 ベルの喚き声が聴こえなくなると、エミリオは別の兵士にそう尋ねた。

「今の見張りが三十分前に交代したばかりですので、おそらく二十分かそこらでしょうか」

「二十分であれだけじゃあ、取引するには物足りないな。だが、龍の遣い魔がいると信じている研究者がいるのは心強い――」


 その後、エミリオがぼそりと呟いた言葉をアンリは理解出来なかった。


「彼女も、俺の地獄に付き合って貰おうかねぇ」

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