3年

しばの晴月

第1話

 滔々と流れる水道水をきれいだと思ったのは今朝が初めてだ。何かとつけて「美しい」だとか「きれいだ」とか言って、思い出にしたがる近頃の自分に嫌気がさす。

「よく眠れた?」

「眠れたけど、起きる時が変な感じだった」

 拓也は隣の蛇口の前に立って顔を洗っていた。

「俺もなんだかキモチ悪かったなー。誰もいないのに『おはよ』って言っちゃった」

「拓也はいつも『うおうぉ』って言ってるだけだけよ」

「あれは俺なりの『おはよう』なんだよ」

 彼の顔と手にはじき出された水しぶきが舞う世界もまたきれいだった。今朝、自分もベッドで「おはよう」と言ってしまったけど、この話題は言わない方が面白いと思ったから言わなかった。

「今日から三年かあ」

 あと一年だなと笑う拓也は少し嬉しそうだった。拓也の顔を照らす光がしばらくして強くなって、また弱まって、温かみを帯びる季節には自分たちはどうなっているのだろう。たぶん、どうもなっていない。

「俺が上の段で寝てないと、シマは寂しくて泣いちゃうかと思ったけどな」

「朝から馬鹿が馬鹿言ってるよ」

  朝も夜も顔を見ていた存在が突然遠くなったことは、想像していたよりも寂しくなかった。相部屋が個室になることを自分たちは望んでいたし、それが三年の特権だというのは寮生になった瞬間から意識することだった。


 まだどことなく冬の雰囲気を漂わせる春の日の朝を宇田津高校男子寮で迎えるのも三回目になる。一年目の春なんてほとんど覚えていないのだけど。

「っておいおいおい! なんで置いていくんだよ!」

「別に約束とか、してないじゃん」

「してないけどルーティーンだったじゃんか。それを壊すなよ」

 二百メートルほどしかない通学路を一緒に行くだけの、ほんの数分のことなのに大事にしようとする拓也って男は三年目になっても面白い。

「ってことで三年目もよろしく」

 洗面所で会った時よりもしっかりとした目をしていて、あの時はまだ少し寝ぼけていたんだろうなとか考える。本当に、加瀬拓也かぜたくやという男は面白いんだ。


 ◇


 午前中で始業式や学年集会を終え、春休みの課題を提出させられた。やはり三年は受験学年ということもあり、教師の口からは「勉強」の二文字が幾度となく登場した。自分たちも馬鹿じゃない。そんなに言われなくても、わかっている。わかっているけど、きっと現実から目を背けていたいんだ。僕を見透かしたように、

「夏までがチャンスだからな。部活引退組が本腰を入れる夏までが勝負だ。ここで差を作れ」

と担任がHLホームルームを締めくくった。それでもまだ僕たちは遊んでいたかった。

 学食に行くために拓也の教室によった。同じ校舎、同じ学年でもクラスが違うと別世界だ。知らない顔が知らない声でしゃべっている。そして拓也の教室がある方の西校舎は少し寒い。

「拓也、飯行こ。早くいかないと『日替わり』の食券なくなる」

 開いている窓から声をかけた。拓也はクラスメイトと喋っていて、教室の外から声をかけたのでは気が付かないかとも思ったが、直ぐにこちらに顔を向けて「オッケー。今行く」と返事する。教室の奥から走ってくる。時々机にぶつかりながら、接触した級友に「ごめんごめん」と軽く謝りながら、日焼けした顔に笑みを浮かべながら。

「そんなに机にぶつかる必要ある?」

「必要は、ないな」

 そんなに慌てて出てこなくてもいいのに、と僕は笑った。

「今日、金持ってきてる?」「今日――あるよ」「『今日は』、な。この前すっからかんの財布持ってきてたのはどこのどいつだ?」「あの時は助かったよ、ありがとな」「いや、その時の金を返せって話だよ!」

 やや人の少ない廊下で二人で笑い合っていたら、よく響いた。金を貸した、返せ、また今度な、という会話だけで笑い合えるから、同室じゃなくても全然寂しくない。つんつるてんになった制服が、割り当てられた個室が、お互い伸びた身長が、僕をしみじみさせていた。

「もう受験勉強してんの」

 おどけた口調で拓也が言った。

「したほうがいいことはわかっているけど、やる気が、な――」

「部活引退してからでも遅くないよなあ」

 担任の言葉をふと思い出した。

「遅いけど、大丈夫だろ。知らんけど」

「出た、シマの『知らんけど』」

「知らないものは知らない」

 拓也まで受験のことに言及はしてほしくはなかったが、気持ちは理解できた。受験を考えないようにしたとしても、どうやってもこの単語は何かと顔を出す。

「猛烈に今、蝉の声をききたい」

「夏好きだけど、今年の俺は夏は来てほしくないと思っているかも。部活――引退だから」

 既にうっすらと茶色をした頬にそばかすが見えた。歯並びが良くて、髪の毛が異様にサラサラしている。僕と同じで寮の共同シャンプーを使っているはずなのに、拓也の髪は常にさわやかだ。

 「部活かあ」という言葉が、実際口から出たかどうかはわからなかった。始まりと終わりが同時に見えている状況がヒリッとした。


 ◇


 拓也は最後のインターハイ予選を順当に勝ち上がっていて、遅くまで練習する姿は去年と変わらなかった。蝉が鳴きやむくらいの時間になったら、薄闇の中からチームメイトと帰寮する。

 僕は個人戦も団体戦も早々に敗退してしまった。部活を引退してからは、むさ苦しさから少しだけ離れた夕方四時の寮で、拓也を待っていた。待っているとはいえ、実際は勉強の息抜きで自室から出たら偶然会うくらいのものだけど。個々の部屋が寄せ集まってできた、今の「自宅」で拓也を待っている。

 世間はキャッシュレスの時代だというが、寮生には全く関係ない。僕は自販機に硬貨を入れる時の音が好きだ。目の届かないところに百円玉が転がっていって、ピという音で鳴く。ボタンを押すと、重たい飲み物を勢いよく吐き出す。寮の自販機のことを密かに気に入っていた。

 寮の玄関が開く。見慣れない顔がぞろぞろと入ってきた。部活を終えても、十九時前になっても、元気なのは若さだ。部活に一区切りつけて受験に向き合っているというだけなのに、随分と自分が老けて思えた。その群れの中には拓也もいた。

「お疲れ、受験生殿

「お前もな」と返して、さっき買ったスポーツドリンクを渡した。自分の手の熱で温まっていないだろうかと思ったが、渡す時に少し触れた拓也の手の方がよっぽど熱かった。

「最後の試合は今週末。それまで受験生免除」

「執行猶予だな、知らんけど」

 ペットボトルキャップが乾いた音で開いて、拓也のやる気のない笑い声もする。

「次で俺は引退だよ。絶対負けるから。次の試合相手、去年のインハイベストフォーなんだよ」

 自分もサイダーを買って飲んだ。炭酸が喉を押し開けて胃まで落ちた。

「さっさと負けて一緒に受験勉強しよう」

「そういわれるとムカつくな」

 笑っていたし口調は軽かった。拓也は買ってやったスポーツドリンクを一気に飲み干していたが、僕は二口目をなかなか飲めないでいた。

「負けが確定してるなら、試合行くのやめたら?」

 ペットボトルを親指の腹で押したが、びくともしなかった。ボトルごしに冷たいサイダーが押し寄せる。気が付けば自販機の前には僕と拓也だけになっていた。蛾が玄関にぶつかっては離れてを繰り返している。

「冗談きついな。最後なんだから、負け試合でも行くに決まってるだろ」

 受験のための三者面談で「受験勉強は家ですればいい」と親に言われたことや、「うちにはお金がないからね」と遠回しに「私立大学は諦めろ」と言われたことや、そういう泥のような部分をせき止めていたものが壊れた。僕だって、受験、嫌なのに――

「へらへら冗談みたいなこと言ってるのはお前だ。なんだよ、負け試合って。受験勉強が免除されるのも今のうちだからな――」

「免除されてるだなんて思ったことが一度もない」

 拓也の空のペットボトルが床に落ちた。僕を正気にさせるには十分な大きさの音だった。

「シマが知らないだけで、俺は部活の後勉強してるよ。この後も部屋に帰って課題する。自分だけが大変だなんて思うなよ。シマは勉強が嫌いだからそういうこというんだろうな。部活で早々に負けたことの八つ当たりするな」

「違う」

「俺だって焦ってるのに。部活ずっと続けたいけど、無理じゃんか。このあと絶対部活を引退するってことがわかっているのに、中途半端に勝ち上がって、受験に本腰入れるのが遅くなって差をつけられて? 後輩が俺たち三年のために頑張ってくれてるのに絶対そんなことは言えないし、俺自身も部活ずっとやってたいよ。でも、無理じゃんかよ」

「ごめん。でも違う」

 拓也ってこんな顔して怒る奴だっけ、とどこか冷静な自分がいた。自分が平謝りしているのも、拓也が言葉をとめどなく吐く様子を見ているのも悔しかった。

「うまく言えないけど、嫌なんだ。この生活が終わっていくのが」

 幼稚なことを言っている自覚はある。もっと就職とか受験とか、大学とか、学びたいこととか、お金のこととかを話すべきだし考えるべきだと。

「勉強ももちろん嫌だ。だって、ここを卒業する準備を喜んでしてるみたいだから。僕は全然嬉しくない。一つも嬉しくない。嬉しいと思った瞬間がない。あんなに待ち望んでいた寮の個室も、受験勉強のためのものなんだと思ったら二年間かけて騙された気分になって、おちおち勉強もしていられねえ。知らんよ、何にもわかんねえよ」

 ペットボトルのキャップをひねると、暴発したように炭酸が抜けた。口に流れ込んだサイダーが凶暴だったがまとめて胃の中に流し込んでやった。喉と腹に違和感を覚える。

「拓也が思っている以上に、僕は宇田津うだつを卒業したくない。どこも行きたくない。一生高校生でいたいと思ってんだよ。ずっと男子寮が『家』でいい」

 自室に戻るまでに「拓也の馬鹿野郎」と何度もつぶやいたが、具体的に拓也のどこに対してイラついているのかはわからなかった。でも、部活を引退した時よりも今の方が泣きたいと強く思ったのは確かだった。部屋のスタンドライトを消し忘れていたようで、それは机の上の参考書とシャーペンを白々しく照らす。シャーペンの軸はすっかり冷えていた。


 少し目を瞑って休むという目的でベッドに寝転がり、そのまま眠っていたと目を開けてから気が付いた。相変わらずスタンドライトは灯っていた。机を中心にして部屋は明るくて、僕を呼んでいるようだった。扉の向こうが少し賑やかだったから、丁度食堂が閉店した頃だと想像した。晩御飯を食べそこねたが、全く空腹感を感じていなかった。拓也に似た声が聞こえて、反射的に寝返りを打つ。ドアに背を向ける。

 拓也のような声は誰かと喋りながら俺の部屋の方に近づいている。「今日という日が高校生活を構成するひとピースで間違っていない」とでも言うように、腹の底から笑っている。

 どんなにうるさいショッピングモールにいても、体育館にいても、この声を聴きとれる自信があった。一番先に拓也の声を見つけるという自信が、僕にはある。

「シマ、もう飯の時間終わったよ」

 突然音が明瞭になったと思ったら、すぐそこで声がしている。後方から声をかけられた。

「鍵くらいかけろよな。もう一人部屋なんだから、同室のやつのために開けておく必要もないんだし」

 返事もしていないのに拓也は僕の後頭部に話しかける。さっき拓也と話していた友達はまだ近くにいるんだろうか。

 少し遠くで男の笑い声がしたのと同時に扉が閉まる。誰かの声が途中で途絶えた。背中に目でも生えてくるんじゃなかろうか。壁に映った拓也の影がぬるりと動いたのに合わせて、無意識に身体を縮めてしまう。

「シマのこと大事な仲間だと思っているんだよ」

 とても爽爽とした声が背中を、腰を、首を、頭を撫でた。開いた窓から夜風が飛び込んできた。

「友達であり、仲間でもあって、家族だとも」

 こんな声を出す拓也の顔を僕は想像できなかった。

「今日は言いすぎてごめん」

と言いながら僕の背中を撫でた。時間にすると2秒ほどの出来事だし、手のひらを添えただけでほとんど動かしていなかったとは思うが、ひどく緊張した。体の中で何かが圧縮されて弾けたので、へその辺りがえぐられたように痛い。

 拓也がスタンドライトを切って部屋を出ていくまで、何も言えなかったし動くことができなかった。拓也の幽かな足音が消えていくのを見送って、そのままもう一度眠ってしまった。今までは自分に向かって近づいていた足音が、遠ざかっていく。それをきれいだと思い込んだ自分が情けなくて、炭酸とは違うものが自分の中から出てきそうだった。


 空腹で目が覚めた。壁の灰色からまだ定められた起床時間ではないことを知る。

 ドアを開けた先の廊下も常夜灯がともるだけだった。スリッパのぱすぱすという音が建物に響くのが綺麗だと思った。これは、無理矢理思ったのではなくて本当に美しいと思った。一枚の扉の前まで来て、鈍い温度のドアノブを触る。どこかともなく聞こえる秒針の音が空間を支配する。一思いにドアノブを下げるとそのまま扉は開いた。想像以上にドアは素直で、ひどい騒音を立てることなく空間を切り開く。時計の音が大きくなって、人の寝息が聞こえる。灰色の壁をもう一度見た。

「拓也、ただいま」

 右足だけ部屋の内側に置いて、口が動いた。寝息が行ったり来たりして僕の耳鳴りを静める。同室だった頃には毎晩聞いた寝息を、今薄闇の中で聞いた事実を美しいまま保存しておきたい。将来歌手にでもなったら歌詞にしたい。将来小説家になったら小説のネタにしたい。画家になったら絵に描きたい。信頼できる大切な存在ができたら、その人に話したい。加瀬拓也かぜたくやという男のことを。


 ◇


 外があまりにも寒かったからか、無意識に肩に力が入っていた。建物の中に入ったら眼鏡が曇るほど暖かい。オレンジ色の照明が一層僕のことを温めた。

 久しぶりに帰郷したら、駅前の光景がすっかり変わっていて道に迷ってしまった。母に連れられて通園した幼稚園とか、部活帰りに寄り道したコンビニとか。そういう思い出の場所が尽くなくなったり、寂れたりしていた。印象に関しては、幾分今の季節も影響しているかもしれないが。

 急ぎ足で受付を済ませていると「変わったね」と声をかけられる。「眼鏡かけたからだろ」と軽く返し、当時の面影の薄いクラスメイトのもとを去る。

 会場の騒めきの波に正面から突っ込んだ。新幹線を降りてそのままの勢いで、僕は無敵状態といっても過言ではなかった。既に当時の友人とグループを作っているようだった。自分の知った顔を探そうとしたが、みんな良い大人になっていて誰が誰だかわからない。さっき受付で「変わった」と言われたのは案外本当に「変わった」のかもしれない。意識していないと人の声が会話ではなくて騒音に化けて、僕のことを襲いそうだった。眼鏡のモヤがうざったい。

 あ――この声だ。そうそう、少し語尾が上がっていて、笑い声が腹の底から湧き出てくるような。広い会場の向こうの壁際の小グループからする。足取りが突然軽くなって、その声以外はBGMみたいになった。不快ではないけど、人の声として認識していない、そんな感覚に陥る。一つの声が、遭難していた時見つけた光のようにありがたく、まさしく喉から手が出るほど求めているものだった。四、五人の男で構成されたその楕円の一点が手を挙げる。

「遅いぞ」

 皮肉かよ、と笑ってしまった。薬指にあるであろう指輪はまだ見える距離ではなかったが、どうせホテルのシャンデリアで光っていやがる。

「おかえり、シマ」

加瀬拓也かぜたくや、28歳、既婚、ただいま」

 なんじゃそりゃ、と笑った時が最高で美しい。会場が町一番の高級ホテルだったからかもしれないが。

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3年 しばの晴月 @_shibadukki

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