エピローグ

エンディング

 火星のオリンポス山からタルシス高地へと下る浮遊船スカイクルーザーが、久悠とマイナを運んでいた。くすんだ赤い色は大地から地平線まで続き、そこで折り返して同じ色の空となり広がっている。

 レクトアにリュウとアオを託してから五年の歳月が経っていた。

「久悠さん、見えてきましたよ! あれがマリネリス渓谷――通称、竜の爪痕マリネリス・コクーンです!」

 マイナによると、火星のマリネリス渓谷の全長は火星全体の五分の一周に匹敵する四〇〇〇キロメートルを超えているらしい。深さはおよそ七キロメートル。幅は、広いところでは二〇〇キロメートルに達するという。その光景はあまりに規模が大きすぎて、渓谷というよりも山脈地帯だった。

「火星地球化計画は、この巨大な渓谷の地形を存分に活用したものなんです。見てください! 渓谷から空気が漏れないように目に見えない静電気帯のようなものが展開されています。それに触れた空気の分子のほとんどは電子的に反発して、上空に逃げず渓谷側に閉じ込められるというわけです。〈電防けん〉と呼ばれています。その密閉度は年々向上していて、今や驚異の七〇パーセントに達しています!」

 自分が開発したわけでもないだろうに自慢げなマイナ。

「楽しそうでよかったよ」と久悠はため息交じりに言った。

 大枚をはたいて火星静止軌道ステーションに到着した時、久悠はそこでレクトアとの再会を期待していた。しかし迎えに来てくれたのはまさかのマイナで、なんであんたがここにいるのかと驚いて聞いていた。

「飛ばされたんです。ACMS火星支所に」と、マイナはピースサインを出してニカッと笑って答えている。「ACMSで久悠さんへの情報漏洩を咎められたあとのことなので、処分のつもりだったんですかね」

 希望勤務地に身を置き、そしてなによりそこにラツェッドのような意地の悪い上司はいない。コクーン内部は空気が行きわたり、白ばむ大気の果てに火星の赤い空と小さな太陽が光る。地上には花が咲いて樹木の赤ちゃんが点々と植えられている。地下からは水が湧いて川となり、谷の果てへと流れ、再び地下に戻っていく。

「ここは私が夢見ていた、理想の世界です」

「そうか。おれもその光景を見るのが楽しみだ」浮遊船はマリネリス渓谷の崖に沿ってゆっくりと降下をはじめた。途中、大気が陽炎のように揺らいでいる場所があり、そこを通り過ぎると、ズンと船が重く上下に揺さぶられた。

「大気の中に入りました」とマイナが言った。「とはいってもここはまだ酸素が薄いですけどね。甲板に出られるのは深度五〇〇〇メートルを超えてからです」

 船は降下を続け、やがて船内から甲板への扉が開放された。久悠はマイナに導かれて船首側の甲板に立ち、深呼吸して身体を伸ばすマイナの横で、眼下に広がる竜の爪痕マリネリス・コクーンを見下ろした。

 赤の世界に苔のような緑が張り付き、それはささやかながらも強固そうな濃い色をもっていた。居住区や研究施設、工業施設の屋根が太陽の光を反射しキラキラと輝いている。眼下の谷のあちこちに風車が建てられ、崖の隙間を太いケーブルが走っている。

「ここには気流があるのか」

「ありますよ」

「人工的に風を作っているのか?」

「いえ、あれは風力発電用です。気流は地下水で冷やされた空気と太陽からの熱で自然に発生しているんですよ。太陽光パネルで発電するよりもこっちの方が効率的なんです」

 人工的な世界でも〝風〟という活動は自然発生するものなのか。久悠は感心していた。どうやら、世界は自分が考えるよりもうまくできているようだった。そしてそれは地球でも火星でもあまり変わらないらしい。

 浮遊船は数ある渓谷のうちの一つを目指して降下していた。縦に長い谷底はそのほとんどが平らなので、谷底というよりも盆地のようだった。左右の崖には数多くの扇状地跡が見てとれ、太古の昔は火星も地球のように潤いに満ちた星だったのだろうと想像させる。

 浮遊船が飛行場のような港に到着し、久悠はマイナの後に続いた。そして待合ゲートに着いたところで彼女が手を振り走り出したのでその先を見ると、懐かしいレクトアの姿があった。皮で作られた頑丈そうな上着ながら肩や胸元やへそを出していて、まるでゲームのコスチュームのようだった。

「久しぶり。久悠くん」

「あぁ。すごい格好だな」

「うわ、ひど。一言目にそれ? もっとなにかないの?」

「久しぶり」

「会いたかった?」

「あぁ」

「なら自分でそう言ってみて」

「意味がわからない」

 それよりも竜たちは――と口に出す前にマイナに小突かれて、久悠は咳き込んだ。

「……会いたかった」と渋々言う羽目になった。

「うれし。私もだよ」

 レクトアはそう言って久悠を抱きしめ、久悠も硬い服を着たレクトアの身体を抱きしめ返した。

 五年ぶりの再会をひとしきり堪能したあと、三人は港から出て外を歩いた。

「ようこそ、ニューマツモトシティへ!」

 マイナが元気よく手を広げて言う。名前の由来は、一人の開拓者の故郷がこの地の風景とよく似ていたためらしい。道路は石畳による舗装路もあれば赤い砂利道もあり、そのちぐはぐさも地球の地方都市を連想させる。建物は全体的に背が低く、火星の土を利用した赤いレンガ造りで、街路樹は広葉樹に統一されている。人通りはまばらだが、閑散しているというわけではない。車はなく、コクーンの内外を行き来する浮遊船が時々飛んでいる。

「ところで、竜たちはどこに?」

 街を見渡しても竜はどこにもいない。ましてや散歩のために連れ歩いている人もいなかった。

「そうだよね。会いたいよね。みんな元気だよ」

 レクトアがピィと指を鳴らす。するとどこかの建物から黄色い羽竜が飛び立ち、レクトアの正面にぶわっと風を立てて着地した。体長は三メートルあるかないかに加えて長い尻尾を持っている。ワイバーンとも呼ばれる前足が翼になっているタイプの竜で、セレストウィングドラゴンやバハムートといった翼竜よりも飛翔能力が高く人を乗せる力もある。

「あ! 竜使いのお姉さんだ!」

 羽竜の飛来に、この開拓地に暮らす子どもが一斉に駆け寄ってきた。

「竜使い?」

「うん、ここではなんかそんな呼ばれ方しててさ」とレクトアは恥ずかしそうだ。まずはその格好を恥ずかしがった方がいいと久悠は思っていたが黙っていた。「まぁ、まずは乗って。竜の生息地まで案内するよ」

 竜使い。竜の生息地。

 これらのワードを聞いて、久悠はどことなくむずがゆく、しかしどこかわくわくしていた。まるで異世界に迷い込んだかのようだ。

 羽竜の背に乗り、三人はコクーン上空を移動した。羽竜に気付いた開拓民は、特に子どもが喜んで手を振っていた。手を振り返すレクトアは、この世界の勇者のようだった。

「あ。そうそう。この格好にはね、ちゃんと理由があるの」

 レクトア曰く、コクーン内部は湿気が高く蒸し暑い日が多い。そしてレクトアはそんなコクーン内で人工生態系保守保全業務を担っていた。人工生態系を作る生物はほとんどが人工生物であり、人工生物のほとんどが地球と同様に竜だった。レクトアは生態系の一部として生きる野生化した竜の健康チェック等のためにその身体を抱えたりすることが多いが、竜の鱗や爪、牙、角などで、普通の服ではすぐにボロボロになってしまう。そのため保護が必要な部分は革製で頑丈に作っているが、不要な部分は通気性確保のため肌を露出させているのだという。

「あ。見て。ニホンカナリヤリュウの群れだ」

 レクトアが遠くを指さすと、久悠のかつての苦い思い出を彷彿とさせる黄色い小型竜が、街の外を二本足で走り回っていた。

「群れ、か。今まで見たことがなかったな」

「でしょ」

「食べ物はどうしてるんだ?」

「竜のお腹に合うような植物や木を選んでるよ。でも基本的になんでも食べてるね。マリネリス渓谷の土には塩分も含まれてることがわかったんだけど、それを知った竜たちもバクバク食べてる」

「遺伝子を編集したのか」

「なんでも食べられる遺伝子が起動エピジェネティクスしたみたい」

「みたいって。まるで」

「そう。これは人為的じゃなくて、竜たちがなんらかの方法で自力で遺伝子のオンとオフを切り替えている」

 瞳を光らせながら、レクトアはニホンカナリヤリュウの群れを見つめている。

「すごいですよね」マイナも活き活きとした表情で頷いた。「生きるために遺伝子がガンガン働いてます。やっぱり繁殖って神秘ですね」

「繁殖って神秘! 本当にそうだね! すごくいい言葉!」

 レクトアとマイナは、どうやら仲良くやっているようだった。

「ウェルメさんとそのクローンの子も、まだ火星に居るのか」

 久悠が聞くと、レクトアとマイナは少しだけ暗い表情になった。

「二人はコクーンに居ません」とマイナが言う。「火星のもう一つの低地。ヘラス盆地の開拓団に加わって、出て行ってしまったんです」

「そうか。会えたらよかったのにな」と久悠は残念がった。

「この星だと、あの人たちがやりたい研究はできないしね」レクトアが肩を竦める。「地球のバイオテク関連研究はいろんな基礎研究結果をもとに応用研究を閃いて実践していかなきゃいけないんだけど。火星だと基礎研究の成果をリアルタイムで共有できないし、必要な試薬も簡単には取り寄せられない。だからあの二人、研究は諦めて、人間の遺伝子暗号化研究はその内容を全部地球に送っちゃったらしいよ」

 それでか、と久悠は思っていた。

 久悠が地球から旅立つ頃、地球では人間のクローン抑制技術が臨床試験に入ったと広く報道されていた。これで人間の遺伝子は守られ、第三者が勝手にコピーを生み出すことができなくなる他、遺伝子解析によってその人の能力が遺伝子的に評価されてしまうプライバシー侵害も防げると謳われていた。もしかしたら、彼女たちが地球にその研究成果を送りつけたからなのかもしれない。

「着いたよ」

 太陽が傾き、火星の空が青い夕焼けとなって偏移しはじめた頃、羽竜が崖の合間に着地した。そこは深い峡谷の先にある、青い水が溜まった池が静寂を生み出す幻想的な場所だった。青い太陽の光を受けてたゆたう水の網模様が赤い崖の壁に反射している。周囲には花や緑がお生い茂り、豊かな自然を育んでいた。

「わあ! すごい場所ですね!」

「そうでしょ」とレクトアが自慢げに言う。「野生竜が放たれてからは、もうほとんど人が来ることのない秘境だよ」

「ここにリュウとアオがいるのか」

「はいはい。それが一番大事だったね」

 景色は二の次だと言わんばかりに、かつての相棒とその兄弟を探す久悠。

 レクトアは「久悠くんらしいね」と笑う。久悠はもう待ちきれない様子だった。

 五年ぶりなのだ。それもそうかと、またレクトアは笑った。

「リュウ! アオ! おいで!」

 レクトアは、今度は指笛ではなくそう彼らの名前を呼んだ。峡谷に彼女の声が響き、こだまして、池に吸い込まれるように音が消えていく。しばらくなにも起こらなかったが、やがて、バサ、バサと、竜の羽ばたく音が聞こえはじめた。音は二つあった。しかし崖に反射しているのか、その音がどこから響いているのかわからない。久悠が音の主を探そうとあちこち目を向けるが、死角も多く、うまく見つけ出すことができない。それでも音は確実に近づいてきていた。

 そして、ズンと久悠の背後に二つの影が降り立った。

 ……ズン?

 中型竜セレストウィングドラゴンにしては、まるで大型竜バハムートのような重量の音だ。もしかしてリュウとアオではなく、あの時の竜王が来たのだろうか。そう思いながら振り向いた久悠だったが、その訝しみは一瞬で吹き飛んだ。

 黒い鱗に青い瞳。

 青い鱗に黄色い瞳。

 その二匹の竜が、久悠のことをジッと見つめていた。

 リュウとアオだった。間違いない。五年前は二匹まとめて久悠の腕の中に収まるほど小さかったのに、今ではこんなに、こんなに……

「少し、大きすぎないか」

 リュウとアオは、久悠が見上げるほど大きくなっていた。その体長、目算で五メートルは超えている。大型竜バハムートよりも遥かに巨大だ。

「でかいよね」あははとレクトアが頬を掻きながら笑う。「ウェルメさんが言ってたよ。もしかしたらこの巨大化が、遺伝子暗号化による副作用かもしれないって」

 それか火星の低重力の影響もあるかもしれないというが、だとすると竜種が全体として大きくなっているはずだ。

「まぁ、それで健康なら」

「うん、体調は健康そのもの! 変な遺伝子疾患もなさそうだし、そこは保全係の私が保証するよ」

「よかった」

 本当に良かったな。お前は自由になれたんだ。久悠は、甘えるように首を伸ばし寄せてきたリュウとアオの頭を昔のように撫でてやった。アオは自分の飼い主であるレクトアにも甘え、それによって久悠を独り占めにできると思ったのか、リュウがその巨体全体を久悠に寄せてくる。

「よかったですね、久悠さん」

 マイナが泣いていた。なんで泣いているのだと聞いたら、もらい泣きだと言われた。だれからもらったんだと言ったところで、久悠は自分が泣いていることに気付いた。

「久しぶりだな。リュウ」

 本来、竜は言葉を話さない。表情も作らない。

 しかしその漆黒の翼竜は、青い瞳の中に久悠の姿を映し出し、泣いている情けない男を見て悪戯っぽく笑ったかのようだった。巨大な翼竜は巨大な翼を広げ、穏やかな仕草で空に首を伸ばす。そして再び久悠をその瞳に移し、リュウはまた、その頭部を久悠の胸に飛び込ませるのだった。

〝久悠みつけた〟

 まるでリュウは、そう言ってはしゃいでいるかのようだった。



 END

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竜の世界 丸山弌 @hasyme

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