第10話

 手に持っていたカップを落として、レクトアが駆けだす。久悠はすでにすべてを察していたが、ドッドッドと心臓の動悸は強めだった。あの音はおそらくスラッグ弾。この森の中で散弾銃を使うシチュエーションは限られる。彼女のあとを追うと、セレストウィングドラゴンがいる廃屋の中から酷い叫び声と泣き声が聞こえた。

「ハロウ、久悠」

 建物の横から、腐ったような声の男が姿を現す。タールスタングだ。MSS-20ミロク、ボルトアクション式スムースボア散弾銃を手に、奴は不敵な笑みを浮かべていた。

「この勝負、おれの勝ちだな」

「なんの話だ」

 久悠はタールスタングのことが嫌いだ。声やひげ面や狩猟方法やなにやらすべてが気にくわず、目の前に奴が現れるだけで不快な気持ちになる。そのため、タールスタングが目の前に居てもできるだけ無関心でいることが自身の心の安定を保つ秘訣だった。バーで絡まれても、できるだけ目線を合わさず、会話は端的に切り上げて、さっさと立ち去る。

 しかし今、久悠の感情は怒りで煮えたぎっていた。一七〇センチ弱の男が一九〇センチの男を見上げて睨みつけている。一方のタールスタングは、久悠の表情を見て、よりご機嫌な調子だった。

「どちらが先にセレストウィングドラゴンを狩るかって話さ。覚えているはずだ」

「そんな勝負はしていない」

「ま、負け犬はそう言うしかないだろうな」

 レクトアが泣き叫び続けている。久悠はギリリと拳を握り、タールスタングに背を向けた。

「認めたな? 負け犬め」

 背中に放たれたタールスタングの声だったが、久悠にはすでに聞こえていなかった。廃屋の中を覗くと、陽に照らされた美しい鱗の胴体の先が赤い血に染まり、レクトアは、まだ息のある竜の頭部を抱いていた。

 スラッグ弾はタールスタングが窓の隙間から放ったようだった。一撃の急所は捉えていないが、致命傷は与えられている。血の量がおびただしい。

「レクトア」

 この竜はもうだめだ。それなら、早めに止めを――

 そう言いかけて、久悠は言葉に詰まった。

 普通この状況であれば、竜は暴れるはずだ。痛み、恐怖、自分に仇なした者を許さない怒り。急所を外した竜は、たとえ手負いでも強い。手近な人間に爪と牙を振るい、相手が銃を持っていようと怯まない。命の灯が尽きるまで、竜は敵を殺そうとする。

 けれどこの竜は最初から様子がおかしかった。銃声が鳴ってすぐにレクトアが駆け付けた時、彼女は竜に殺されるかもしれないという危険があった。しかし久悠はそれを止めることも警告することもせず、ただあとを追っている。悠長にタールスタングと会話までしている。久悠には最初からわかっていたのだ。この竜は、どんなことがあっても彼女を襲うことはしないだろうということが。それはあまりに危険な憶測、あまりに危険な賭けだったはずだが、久悠は自然にその不確かな確信に身を委ねていた。そして今、怒りと苦しみと憎しみに塗れるはずであろう最期の瞬間、竜はそんな感情など一切抱いていないような目の色と表情で、静かにレクトアに抱かれていた。

 レクトアは、この竜に生きていてほしいと思っていた。ACMSはもとよりそのつもりだったし、人間も彼が人間社会のルールに則って生きるのであればまた同じだ。この竜の命を狙っていたのは久悠とタールスタングくらいなものだろう。その久悠すら、自身の信念よりもこの竜の命を優先させようとしていた。淡々と冷酷に仕事に徹していたはずの久悠に、不意に温かな光柱が差し込んだかのようだった。

 だから久悠にはわかっていた。タールスタングは責められない。竜討伐管理簿に掲載された竜は討伐することが決まりだ。それを捻じ曲げようとしていたのがレクトアでありACMSであり久悠であった。タールスタングは賞金稼ぎとして仕事を全うしたにすぎない。それはなにもおかしいことではないし、責められることでもない。しかしなにより久悠は、そのタールスタングのことが許せない気持ちだった。

「なんだ、まだ生きてやがったか。おれが止めをさしてやろう」

 汚い笑顔を浮かべて銃に弾を詰めようとするタールスタング。その彼の胸倉を、久悠は掴み上げた。

「余計なことはするな。お前はもう消えろ」

「消えろだと? ハッ」タールスタングは久悠の腕を振り払おうともしないまま両手を上げて降参する振りをした。「なるほど、お前の狙いがわかったぜ久悠。さてはおれが仕留めた竜の賞金を横取りする気だな。こうやっておれを追い払ってカメラを構え、奴の写真を撮り、ボードに今日の日付と今の時間を書き込もうって腹だろう。そうすりゃ手柄は全部お前のものだ。全く、なんてずる賢い奴なんだ」

 自分の頭に血が昇っていく様子を、久悠は感じ取っていた。背筋から熱く激しい衝動が脳を突き抜けるほどの勢いで立ち昇っていく。

「おれはお前の専売特許だろ。獲物の横取りをしている最低最悪な賞金稼ぎだ」

「弟子入りでもしたいってことか?」

「さっさと写真を撮って消えろと言ってるんだ」

「じゃあこの手を離せ久悠。獲物を先に撃たれたっていう悔しさには同情するぜ。だが、勝負はおれの勝ちだ」

「勝負なんかしていない」

「そう言えてよかったな」

 クソのような皮肉野郎の顔を一発殴りたい気持ちだったが、久悠はなんとかそれを押し堪えた。タールスタングの身体を突き放す。

「おれたちは竜を看取ってから、その亡骸を埋葬する」

「そりゃ助かるぜ。そうそう、これも回収しておかないとな。全く、お前には感謝しっぱなしだぜ、久悠」

 タールスタングはそう言うと、久悠が背負っていたバッグパックに手を伸ばし、びりっとシールを引き剥がした。それはシール状の追跡装置トラッカーだった。先日、この男とすれ違った時につけられたのだ。

「森を素早く移動していたお前がまだ明るいうちから動きを止めたからな。おかげでピンときたぜ。お前が竜を見つけたんだとすぐに理解できた。そんで一目散にここに駆け付けたってわけさ」

 つくづく勘に障る男だ。タールスタングは安物のホワイトボードに竜管理簿の台帳番号と日時を記載して竜の身体に立てかけ、泣きじゃくるレクトアが映り込むことも気にせずに視界をスクリーンショットし画像データをACMSへと転送した。厳密にいえばACMSに送る写真は竜の死体でなければならないが、今回のように明らかに致命傷の場合はまだ息がある状態でも撮影することがある。申請はすぐに承認されたようだった。

「じゃあな、久悠。また頼むぜ」

 手を上げてご機嫌で立ち去るタールスタング。

 久悠は朽ちたブドウ棚の脇に座り、手に届くブドウを一房手に取った。熟れていて、味が濃く、美味い。森のあちこちから大きめの蜂が飛んできて、蜜か何かを集めている。ブンブンと太い羽の音が森の音を誘う。陽がゆっくりと傾きはじめ、木々の表情が陰りはじめる。

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