第一章 竜撃ち

第1話

 森の中は、緑色のセロハンをまき散らしたかのような世界だった。

 木々が頭上で枝葉を広げ、穏やかに陽の光を遮っている。木漏れ日が描く光の珠が揺れ、気温、湿度とも気持ちの良い風が流れていく。鳥たちの幸せそうな声が鳴りやまない。地上にはササ薮が広がり、虫がひっきりなしに鳴き続けていた。

 いつもと変わらない――しかし全く同じ日はない、大自然の日常。

 久悠クユウは倒れた木の幹に腰を下ろし、その演奏会の中、目を閉じて耳を澄ませていた。バックパックを背負い、身体の前にライフル銃を下げている。呼吸を自然の中に溶け込ませ、あらゆる音に集中する。

 ガサ。ガサガサ……

 平穏な音色とわずかに調和しない音が聞こえ、久悠は目を開いた。身に着けていたライフル銃のスリングストラップを首から外す。ボルトアクション式、メイドインフィンランドのフィンベア338口径マグナム。数世紀以上前に作られた古い銃だが、丁寧に手入れされ歴戦の光沢を放っている。久悠は全長一一四〇ミリのそのライフル銃を手に、近くの木に身を寄せ、そっと音の正体を探る。

 鹿がいた。立派な角を持つオスの鹿が一匹。彼もこの演奏会の観客なのだろう――ササ藪を抜け日陰が濃い開けた草地まで移動した雄鹿はそこに横たわると、音符のさざ波を味わうかのように目を閉じた。食後の休憩中のようだ。鹿にはそういった習性がある。慣れた様子なので、もしかしたらここは彼のお気に入りの場所なのかもしれない。

 邪魔したら悪いな。

 久悠がライフルのスリングを首に戻し、その場を去ろうとした時だった。雄鹿が急に顔を上げ、耳をピンと立てて静止した。見つかってしまったかと思ったが、彼が見つめる一点は別の方向に向けられている。

 気付けば森の演奏会が中断されていた。不気味なほどに音がしない。鳥は沈黙し、虫は息を潜めている。

 異様な緊張感だった。

 木も風も凍り付いたかのようだ。

 久悠も自然界の空気に合わせて息を殺し、雄鹿の視線の先を探る。


 ……竜だ。


 鱗の色は黄色。胴長は一メートルあるかないかだろう。竜の中では小型竜に分類されるが、体重は五〇キロを超え、サイズとしては大型犬より大きい。竜はササ藪の中に不器用に隠れ、先の雄鹿に忍び寄っているようだった。

 しかし――

 やめておけ、と久悠は心の中で思っていた。

 それが狩りなら、すでにお前は失敗している。

 自然の森の中で狩りを行うのであれば、まずは自然を味方につけなければいけない。自分が存在しているだけで鳥や虫が鳴きやむような気配の出し方はやめるべきだ。その上、獲物まで五〇メートルはあろうかという地点ですでに雄鹿は自身の命を狙っているだろう生き物の存在に気付いている。野生の動物にはそれぞれ警戒範囲があり、無関心な距離感と今のように警戒する距離感、そして逃走をはじめる距離感がある。忍び寄る竜はササ藪を揺らしゆっくりと雄鹿に近づいていくが、地面に落ちた枯れ枝を彼が踏みパキッと音が鳴ったことで、ついに雄鹿は背を向けて逃げ出した。竜は慌ててササ藪から飛び出し追いかけようとしたが、その時すでに雄鹿は森のどこかへと消えてしまっていた。

 カチッと、久悠が音を立てる。

 それは久悠が愛銃に二五〇グレインのライフル弾を装填しボルトをセットした音だった。

 距離にしておよそ二〇メートル。

 竜のお粗末な狩りに紛れ、久悠はここまで接近していた。

 音に反応した竜が久悠の存在に気付き、向けられた四倍スコープの中で目が合った。十字の照準線レティクルが、竜の鼻下を正面から捉えている。そしてなんの躊躇の間もなく、ダンと発砲音が響いた。それはこれまでの演奏会に比べるとあまりに暴力的で、あまりに短く、あまりに無機質な音だった。銃声は久悠の耳の中で何度も反響し、次いで身震いするほどの静寂が訪れた。

 スコープの中から竜が消えていた。一撃で仕留めた感触はあった。しかし、油断はできなかった。立った姿勢でライフルを構え、銃身を木にそっと当てて安定させていた久悠は、その状態のまましばらく動かなかった。太陽はまだ高い。数時間に加速されたかのような数分の間。森が徐々に音を取り戻していく。ようやく久悠は、スコープから目を外した。

 ライフル銃のスリングを首にかけ、ササ藪を両手で漕ぎ、獲物の元へと向かう。鳥のさえずりはすでに元の調子を取り戻しつつある。虫の音は久悠が近づくと鳴きやみ、通り過ぎるとまたなにごともなかったように鳴きはじめる。

 ササ藪を抜け、背の低いボサが広がった場所で、獲物だった竜が血を流して斃れていた。久悠が放った弾丸は竜の喉元に直撃しており、もがいた様子もないことから、ほぼ即死だろうと思われた。

 少しは救われただろうか。

 自己満足でしかないのだろうが、久悠はそう思わずにいわれなかった。

 斃れた竜の様子を確認する。尻尾を含めた体長は一メートル五〇センチほどで、イエロースパイニードラゴンという種の一歳を超えた成竜だった。鱗は色褪せた黄色で、身体は全体的に痩せており、飾り翼はボロボロだ。この森に入って一ヶ月は過ごしただろうか。その間、この竜は水以外なにも口にできていないハズだ。もともと竜の胃は弱く、ペット用フード以外を口にすると嘔吐や下痢を起こしてしまう。ここにくるまでにも、その形跡が無数にあった。酷く苦しみ、それでも生きようともがいていたのだ。

 森の中は孤独だ。特に、自然界の美しい音色に気付くまでは。そして陽が傾きはじめると、その世界は鬱蒼と陰りはじめる。その闇衣はおもむろに死を彷彿とさせるほどの恐怖を伴っており、得体のしれない不気味な音が周囲から響き、いつその暗闇から魔物が襲ってくるかわからない。孤独と恐怖に震える夜を、この竜は幾度となく過ごしたことだろう。

 久悠は、竜の横に腰を下ろして耳を澄ませてみた。

 いつもと変わらない森の大演奏会が繰り広げられている。

 人によって生み出された命が、人によって捨てられ、今、人によって駆除された。そうであればせめて命が還る場所は、この自然の中にしてやりたい。

 お前は人間に縛られない尊厳を得られた。もう自由だ。

「今度はこの森でうまくやれるといいな」

 久悠はそう呟き、これまでこの竜が生きた日のことを想像し、思い馳せながら、埋葬のための穴を掘りはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る