第5話 魔神バルバドス

 魔物は俺の姿を見つけると猛スピードで突進してくる。だがしかし地の利はこちらにある。俺は林の中に逃げ込んで悪魔ヤツの到着を待った。


 ガンッ‼ガンッ‼


 案の定、悪魔ヤツは前進に手間取っていた。林の中は木を等間隔に植えているのでいちいち木を倒しながら移動しなければならないのだ。ガキの頃、学校で習った知識が役に立った。


 俺は頭の中で自分の逃走経路を考えて、そこに悪魔を誘導する事を考える。空模様が完全に元通りになるまでどれほどの時間がかかるかはわからないが、三十分も魔力の補充が出来なければ消滅は免れないだろう。この理屈は魔界に生身の人間が入った時も同様の現象に見舞われるらしい。


 つまり今の状況を説明すると…俺がヤツに追いつかれると殺されるッ‼ヤツは時間内に魔界に帰還もしくは魔力を補充しないと消滅するッ‼という死の二択だった。

 え?どこが二択だって?ヤツが今の状態で魔力を手っ取り早く補充する方法ってのが魔力を持った生物を食べる事だからだ。

 俺の魔力は皆無に等しいくらい少ないがそれでもヤツが街に出て大暴れするくらいは保たせる事が出来るだろう‼


 「…れるモンならってみやがれ‼」


 俺はかつてない高揚感の中、悪魔を街から一歩でも遠ざける為に走った。


 疾走はしった。奔走はしったのだ。


 山の裏手に入ったところで俺は気になって空を見た。夜空が見慣れぬ赤と群青の二色に分かれている。そして月は…一つから二つに分かれかけている。


 駄目だ。ギリギリのところで【障壁】が再生していない証拠だった。俺は汗に嫌な冷たさを感じながらさらに山奥に入る。悪魔ヤツが木々を薙ぎ払っている音も同時に近くなっていた。このままでは数十秒で俺たちの【追いかけっこ】は終わってしまうだろう。


 万事休すというヤツだ。


 俺は少しでも体内に活力を取り戻す為、うまい棒を口に入れた。もぐもぐもぐ。


 (メンタイ味か。このジャンクな辛さが良いんだよな…)


 今頃、家では兄貴と義姉さんがミケ(※甥のミケランジェロの事)を寝かしつける為に苦労しているんだろうな…。


 よし、メンタルと体力が四分の一くらいまで回復した。


 俺は目の前の木々をかき分けてさらに森の奥へと進む。途中、動物に遭遇しなかったのは不幸中の幸いというものだろう。もしかするといきなりやってきた悪魔に驚いて姿を隠してしまったのかもしれない。俺は度々空を見て位置確認をしながら移動する。


 それからどれくらい時間が経過したのかはわからない。突然、俺の体力の底が尽きてしまった。

 視界が霞む。息が続かない。

 俺は這う這うの体で這大きな木の根元まで進むとそこに背中を預けた。


 「やっぱ大した事ねえわ、俺…」


 俺は悔し涙を流しながら空を仰ぎ見る。


 最悪だった。月は白く、空は星一つ無い薄紅色のそれへと変わっている。一時的に【障壁】が無効化してしまったのだ。


 ザンッ‼ザンッ‼ザンッ‼


 ヤツの足音が大きくなっている。どうやら本格的なお食事タイムになってしまったらしい。俺は最後の力を振り絞って立ち上がった。


 ラストチャンスだ。


 ッッ‼‼


 ザンッ‼


 目の前の木の枝を鱗に覆われた巨人の手が掴む。そして布か何かを引き裂くように捻じり、引き千切った。


 木の葉と木っ端をまき散らし悪魔そいつは俺を睨みつける。


 捻じくれた二本の角を生やした山羊の頭の六個の目が殺意を含んだ視線を俺に向けている。餌に逃げられて大層頭に来ているのだろう。


 「きしゅぅあああああああッッ‼」


 歯の代わりに棘のついた触手を広げて威嚇する。


 「ッッッ‼」


 マジでマジいッッ‼この年でパンツとズボンをびしょ濡れにしちまったかもしれんッ‼


 俺は悪魔に背を向けて脱兎の如く、一目散に逃げる。すると悪魔は両腕の爪を伸ばして森の木々を切り開きながら俺を目指して突き進んできた。


 ハッ‼こんな雑魚を相手にご苦労なこった‼今お前が殺そうと雑魚中の雑魚ザコ・オブ・ザコ‼テメエの命を削ってまでつけ狙うほどの相手じゃねえんだよ‼


 俺は消えゆく命の灯を感じながら人生最後の逃走を試みる。憤怒に支配されているとはいえ悪魔ヤツと俺の実力の差は火を見るよりも明らかだ。いずれ追いつかれて俺はヤツのエサになるだろう。だが後悔は無い。俺がここで死んでも爺さんと親父と兄貴と弟がいる。魔界の化け物ども《あいつら》は俺の家族の強さをわかっちゃいない。ここで俺が命を張って時間稼ぎをすれば俺の家族は魔物の侵攻に気がついて必ず街の人間を守ってくれるんだ。


 俺は…駆ける。命の限り駆ける。躓き、転んでもすぐに起き上がって駆け続ける。ここで命が終わっても後悔はない。俺の罪は、勇者の孫として生まれてきたにも関わらず無能クズだった事。


 下級悪魔レッサーデーモンの爪が月の夜光を浴びて閃いた。直後、俺は背中に焼けつくような痛みを覚える。だが走る事だけは止めなかった。俺がここに生まれた意味は無かったのかもしれないけれど生きていた意味だけは決して手放さない。

 

 ドサッ‼

 

 傷口から噴き出した血液が温度を失った瞬間、俺は前のめりに倒れる。


 こうして俺は二十三年の人生は朝陽を浴びる事なく終わった。

 疲れ果てた俺は痛みを感じる暇さえ無く意識を手放す。


 「後は親父たちが上手くやってくれるだろう…」


 俺は至福の笑みを浮かべながら息絶えた。結局、俺の内なる獅子は目覚める事無く終わってしまったのだ。


 闇の中、それは愚者の死を睥睨していた。


 ”つまらぬ。”


 闇は地面に向って唾を吐く。一個の命がどれほど崇高な願いを抱こうとも世界がそれに応える事など無い。世界は気まぐれな淫売に過ぎない。場当たりな感傷で何もかも決めてしまうのだ。


 「ぐるるる…」


 だが悲しい事に腐肉を漁ることしか出来なくなった彼の眷属たちは今さっき死に絶えた取るに足らない命の慣れの果てに迫る。


 ”くだらぬ”とまた闇は苛立つ。

 かつての悪魔たちは己らの邪悪な存在にさえ誇りを持っていた。それが蛆虫のように腐肉を舐め啜るだけの存在に成り下がろうとは許しがたい。


 「こんな事になるならばいっそ魔界を滅ぼしておくべきだったな」


 闇は吼える。そして音も無く下級悪魔レッサーデーモンの背後に立った。下級悪魔レッサーデーモンはそうとも知らずレオナルドの遺体を前に舌を舐めずる。


 「醜悪な…。もはや貴様は悪魔の矜持さえ忘れたか。ここで焼き尽くしてやるのがせめてもの情け」

 

 シュボォッッッ‼‼

 

 闇は自身の人差し指の先に黒い炎を灯し、運命の家畜と化したかつての同胞に向ける。


 ゴオオオオッ‼


 黒い炎は一瞬で下級悪魔だけを消し炭に変えてしまった。


 「貴様も悪魔ならばゆめ忘れてくれるな。悪魔の敗北とは即ち死。強者の誇りを捨て腐肉を漁るだけの蛆虫となった時点で貴様はこの人間に負けていたのだ。…例え神が許そうともこの魔神バルバドスが許さぬ」


 黒い炎が悪魔を焼き尽くし、赤い炎に戻る。

 遺灰の傍らに獅子の頭と蝙蝠の翼を持つ魔神は 真っマッパ だった…。

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