第17話 したっけ欣怡が嘘ついてたって事だよな

 十時過ぎ。スクーター二人乗りで『大阪の小陽』に戻って来た。

「你好! 雨やんデよかッタね!」

 ようやくジョジョが出勤する。タイムカードを押すのは出勤時間ギリギリ。テーブルに着いて三明治サンドイッチとパックの豆漿とうにゅうを鞄から出す。タイムカードを押してから朝食を摂るのも台湾の常識らしい。

「何だよ、また来たべか!」

 陽が厨房から顔を出して迷惑そうに叫ぶ。陽は「まだ準備中なんだけどー」と日本語で文句を漏らした。この時間、この陽の反応。また陳刑事か。

 店先を振り向いた僕は息を飲んだ。欣怡シンイーだ――。

「ったくよぉ。是來再提詞句的嗎」

 陽は面倒くさそうに不満を垂らす。

 欣怡は陽を見上げて大きく二度頷いた。きっとまた調査の進捗を聞き、急かしに来たのだろう。荒っぽい台湾華語で捲し立てる陽に対し、欣怡は憮然とした様子で頷くだけ。

「わーったべ。したっけ先に店の準備するから、ちょっと待ってな」

 陽は忙しそうに厨房へ戻る。他の客もぞろぞろ入ってくる。注文票を書き終えた中年男が厨房に何かを叫ぶと、陽が「うっせえ! ちょっと待て!」と返す。

 僕は「にーはお……」と呟き、そっと欣怡に手を振った。

「……盟兄先生。再見了吧」

 儚いくらい細い声。テレビの音と陽の声に掻き消されそうだ。

「少し、日本語で話すよ」

 欣怡は「啊?」と発した。その目は大きく見開かれている。

「もしかしてさ、分かるんじゃないのかな。僕の言葉」

 欣怡は難しそうに顔をしかめる。首を傾げて手のひらを見せ、ワカラナイという身振りをする。

 嘘だ。そう思った。

「說著什麼? 不明白」

 困った顔をする欣怡。だんだん僕も苛立ってきた。

「もう嘘はやめなよ。昨日の夜市で、君は陽にお酒を飲まされて居眠りした。その時、君は言ったんだ」

 僕は欣怡の目を真っ直ぐ見据える。怯えたように肩を竦める欣怡。僕は一呼吸置いてから続けた。

「行かないでリザ――、って。日本語で」

 その瞬間、床に丸椅子が倒れた。耳障りな金属音が響く。

 欣怡が勢いよく立ち上がり、椅子が倒れていた。僕は息を飲んで見上げる。欣怡はこめかみから一筋の汗を垂らしていた。

「ご、ごめん。君を責めようとは、思ってなくてね」

 欣怡は首を横に振る。彼女の髪がばらけるように舞った。

「待って!」

 僕が呼び止めるが、欣怡は店から飛び出していった。

「騒がしいなぁ。何やってんだよ」

 ポケットに手を突っ込んだ陽が厨房から出てくる。彼女は店を見渡して「あれ、妹ちゃんは?」とぼやく。

 僕は今あった経緯を説明した。

「はあ。したら妹も喋れたんか、日本語」

「どれくらい喋れるか分からないけどさ、少なくとも言ったんだよ。『行かないで』って」

 陽は顎に指を乗せて丸椅子にどっかり座る。スマホを手に取り、欣怡の番号を探す。

「ダメだ。ブロックされちまってるべ」

 僕の番号からも同様だった。欣怡は僕らを拒絶した。

「したっけ欣怡が嘘ついてたって事だよな」

 僕は頷き「そういう事だね」と同調した。

「なーんか、何から何まで胡散臭くなってきたべ。劉欣怡」


 昼過ぎ。

「したら行ってくるべさ」 

 店先からスクーターのエンジン音が聞こえた。ガソリンの饐えたにおいが鼻を衝く。陽は夜営業のための買い出しに出て行った。

 僕はジョジョに店番を頼み、一人で街へ繰り出す。陽気な老人たちがたむろする龍山寺駅からMRTに乗る。三十分ほどで目的の駅へ着いた。泰山タイシャン。凜風のアパートがある所だ。

 僕がここへ来た目的。ある事を確かめたかった。

 凜風のアパートに着いた。一階のロビーにある事務机に男がいる。アロハシャツにハーフパンツ姿だが、管理人らしい。小太りの管理人はビーチサンダルを脱ぎ、傍らのテレビに夢中になっている。

「あの、エクスキューズミー。キャンユートーク?」

 カタコトの英語で話しかける僕。管理人は怪訝な顔を向けた。

「プリーズ、ルックアットイット」

 僕はスマホの画面を差し向ける。管理人は中国語で何かをブツブツ言いながら眉を寄せて覗き込んだ。

 表示しているのは陽の写真。

「ドゥーユーノウ?」

 僕が尋ねると、管理人は「ハァアハァ」とどちらとも取れない反応を見せる。彼は僕のスマホを手に取り、陽の画像を凝視して何度か頷いた。すると管理人は何やら一気に話し出す。

「ちょ、ま、ウェイトアミニット!」

 僕は翻訳アプリを立ち上げ、管理人にボタンをタップしながら話すように促す。すると画面上で日本語に翻訳された。

【彼女を見た事があります】

 マジでっ、と僕は思わず声を上げる。

【三日前、あなたと一緒でした】

 ああ。三日前なら、僕と陽で聞き込みをしていた時だ。

「その時だけですか、この日本人を見たのは」

【彼女は何度も見た事があります。人と一緒です】

「人? どんな人とですか?」

 翻訳を見て、管理人は顔をしかめた。苦い表情をして手を振る。言いたくないらしい。管理人は誤魔化すように笑って机に戻った。

 僕は通りに出た。近所の飲食店でも、陽の写真を見せて聞いてゆく。すると人々の反応は意外なものだった。

 陽の写真を見ると、みな不自然な笑顔になる。ほとんどの人が【見た事があります】とは言うが、口調は尻すぼみだ。

 僕は駅前の小吃シャオチー屋台で胡椒餅フージャオビンを買い、遅めの昼食を摂る。餅と書いているが、肉まんの具をパイ生地で包んだパンだ。一口食べると、スパイスの香りが鼻を抜ける。肉汁が伝って指がぬめった。

 街の人たちの態度が三日前と違う。前はもっと愛想が良かったように思うのだが。陽の写真を見せた途端に遮られてしまう。

 その時だった。横断歩道の向こうに見覚えのある姿が見えた。

 タンクトップの上から羽織った花柄シャツ。捲った袖から伸びる龍の刺青。そしてオールバックに人相の悪い目つき。

 龍山寺の路地で陽と会っていた男だ。

 刺青男は足早に歩いている。僕は胡椒餅を一気に平らげた。歩行者信号のカウンターは残り七秒。僕は小走りに横断歩道を渡った。

 あの男が陽と関わりがあるのは間違いない。何者だ。

 直接話しかけてみるか。いや、あの風貌だ。ヤクザ、いわば幫会の構成員かもしれない。いきなり話しかけるのは恐い。

 刺青男は通りを曲がって細い道に入る。僕も男を追って角を曲がる。ぎりぎり車がすれ違える程の狭い道に出た。雑貨屋や香草屋が軒を連ねている。

 すると男はまた道を曲がった。僕もついて行く。

「あれ……」

 いない。どこへ行った。

 車も通れないほど狭い薄暗い路地。道の両脇に埃を被ったスクーターがずらりと並んでいる。人通りもない。見失ったか……。

 狭い空は電線で縛られ、脇に檳榔びんろう屋の黄色い看板がぶら下がっている。檳榔屋の中から露出度の高い格好をした女が手招きしていた。

「……你是誰」

 背後から声がした。振り向くと、あの刺青男が立っていた。

 刺青男は鋭い目で僕を睨み、じりじりと詰め寄ってくる。背中に冷や汗が滲んだ。気付かれていたのか。

「いや、その。僕は別に」

「啊ッ!」

 男の恫喝に肩が竦む。思わず両手を挙げて降伏の姿勢を取った。背中に壁がぶつかる。雨樋から垂れた水滴が僕の頭上に落ちた。

 その瞬間、刺青男が僕の喉に腕を押しつけた。

「オマエ、日本人か」

 え、日本語だ。

「誰ダ。なぜ俺を追ッテた」

「が、あ……違う、僕は」

 男の筋肉質な腕が気管を圧迫する。目の前がかすんできた。

「下手くそな尾行ダ、素人か。誰に頼まれタ」

 頭に血が上ってくる。目玉がとれそうだ。手に力が入らない。指先がしびれて力が抜けてゆく。

 その時――。

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