血ゲロのひとつも吐かされたことのない野郎がヒーローを名乗ろうなんておこがましいにもほどがある 威血

「――ウンコ喰ってる時にカレーの話をするド低脳に対して、人類はいかなる制裁を加えるべきか。これは古代オリエントにおいて文明が発祥した当時から我々の頭を悩ませてきた普遍的哲学命題であるわけだが、人類の集合知が希求するその究極的な回答が今ここにあると言ったら、この男はいったいどんな反応をするだろうか」

 『亀山前』のポートガーディアンであるところの布藤勤は今、選択の岐路に立たされていた。

 すなわち、肉体的な死か、精神的な死か。

 究極の二択である。

 トイレの便器に座り、下半身丸出しのいささか情けない格好で、全身に脂汗をかく。

 なぜそんなところで座っていたのかというと、別段特筆すべき事情など何もなく、ただ単にウンコするために自宅のトイレに入っただけのことである。

 のだが。

 ――どうしてこんなことになってしまったんだ……!

 勤は思いっきり両目をつむって、耳も塞いだ。とにかくこの現実離れした現実から逃避したかった。

 異変は、ほんの二分ほど前に発生した。

 いきなりトイレの壁をブチ破って、一人の男が姿を現したのだ。

 恐ろしく異様な風体の男だったが、彼が行ったことに比べれば何ほどのこともなかった。

 ……男は銀皿に山と盛られたカレーライスを突き出してきたのである。

 みんな大好きカレーライス。

 香辛料の刺激とまろやかさが同居したその芳醇な香りは、誰しもが食欲をそそられること請け合いである。

 ここがトイレではなく、現在進行形でウンコしているのでなければ、勤としてもツバをごくりと飲み下すにやぶさかではなかった。

「――人間の自由意志は、最大限尊重されなければならない。死刑囚ですら例外ではなく、死に方を選ぶことができる。それゆえディルギスダークはこの男に選択の自由を与えた」

「ぎゃあああ! 与えてない! 全然与えてない!」

「――暴れても無意味であった。叫んでも無意味であった。マジ無意味であった。ディルギスダークは、この男の尻からぶら下がっているウンコが落下しないうちに目的を成就させることにした。カレー最高」

 男はあろうことか、その巨大な手で勤の髪を掴むと、差し出したカレーライスへ勤の顔を突入させようとしたのだ。

 行動の意味がまったくわからない。

 が、勤にはその意味不明さに対して突っ込めるほどの余裕はなかった。

「ちょっ! やめて! それ近づけないで! あっ! ちょっ! アッー!!」


 こうして、布藤勤は死んだ。

 享年二十三歳。

 早過ぎる死だった。


 ●


 ――だれもいないのに、だれかがいる。

 語る、ということについて、ちょっと考えてみてもらえるだろうか。

 言葉を用いて物事を誰かに伝えるということ。最も汎用性に富んだコミュニケーション手段であり、誰しもが何の気なしに行っていることだ。

 『言葉では伝えられない』という言い回しが世に氾濫していること自体、言葉の持つ反則じみた万能性を逆説的に証明してしまっていると言える。なぜなら、当たり前のことをわざわざ言う必要などないからだ。

 何かを語るということは、語るに値するレアリティをもった事柄について語らないと、聴衆を惹きつけることなどできないものなのだ。

 『何を』語るのか。それは非常に重要な問題だ。

 だが、それと同等か、ともすればそれ以上に重要な問題がある。


 それは、『誰が』語っているのか、ということだ。


 ●


「なん……じゃありゃ」

 ハイパー夏休み謳歌中高校生であるところの嶄廷寺攻牙は、今自分がゲームで戦っていることも忘れて、その男を見呆けた。

 奇妙と言うならば、これほど奇妙な人間を攻牙は見たことがなかった。

 なんていうか、一目見たら一生忘れられそうにない外見をしている。

 電動の車椅子に乗る、凄まじいばかりの大男。

 座っている状態なのに、威圧感を覚えるほどの背丈だ。立ち上がれば二メートルは遥かに超えているだろう。真っ黒なロン毛が垂れ下がり、顔面をほとんど覆い隠していた。わずかに覗く目元にはベルトが巻かれて目隠しになっており、口には金属製のギャグがはまっている。

 しかも全身をベルトとハーネスでギチギチに縛り上げていた。映画に出てくる凶悪死刑囚みたいにまったく身動きは取れそうにない感じである。

 車椅子の背もたれには身を預けずに、前のめりのうつむき加減で座っていた。背中で両腕同士が縛り付けられていたのだからそれも当然である。そしてわずかに動く指先でリモコンを弄り、車椅子を操作してるようだった。

 墓地に吹き込む風のような呼吸音が、口枷からひどくゆっくりとしたペースで漏れ出ていた。無数のゲームのサウンドで会話も難しいような中にあって、その男の周囲だけが気味の悪い静寂に包まれているかのようだ。

 駅前のゲームセンター『無敵対空』。

 店長の趣味なのか何なのか、アクション・シューティング・格闘などのラインナップが無闇やたらと充実している昔気質のゲーセンである。男の姿は完全に浮いていた。不審者として通報されても文句の言えない場違いぶりである。

 むしろこいつが無理なく溶け込めるような場所にはかなり関わり合いたくない。

 ガキィーン! という金属質のサウンドエフェクトが、眼の前の筐体から発せられる。同時に、ゲームキャラクターの苦悶の呻きが痛ましく響き渡った。

「いけねっ」

 攻牙は慌ててゲームの画面に眼を戻すと、巨大な半透明のガントレットを身に付けた少年が地面に倒れ臥していた。

 でかい攻撃を食らったようだ。

「ちっ」

 対戦相手のキャラクター(ゆらゆら蠢くビーム触手をたてがみのように生やした騎士甲冑の男だ)が即座に間合いを詰め、こちらの起き上がりを待っている。

 なぜかダウン中のキャラクターには一切攻撃できない。ゲームバランス上の配慮だろうとは思われるが、卑怯外道な性格付けのキャラクターですら相手が起き上がるのを律儀に待っている光景はちょっとシュールだ。

 いや、そんなことはともかく。

 ダウンしている側が、起き上がりざまに取れる行動はだいたい決まっているが、このうち攻牙が好むのは最もハイリスクハイリターンな選択肢だ。

 ――喰らえオラァッ!

 起き上がる瞬間にレバーをZの形に素早く動かし、弱パンチボタンを叩く。いわゆる昇龍拳コマンド。

 画面の中で、少年は光のガントレットを高速で回転させながら思い切り突き出した。

 無数の水晶が砕け散るようなヒットエフェクトが炸裂し、相手キャラクターが大きく吹き飛ぶ。

 触手鎧男も何か攻撃をしようとしていたようだが、それを読んでいた攻牙はモーション中に無敵時間が存在する必殺技で相手の攻めをかわしつつ反撃したのだ。

 今度は相手がダウンする。

 攻牙のキャラクターは、ダッシュで間合いを詰めた。ガントレットが後ろになびく。それは、自らの腕に装着しているというよりは、体の両側に巨大な腕が浮遊しているといったほうが正確だ。光の巨腕は、キャラクター本来の腕とまったく同じ動きをする。

 ――起き攻めってのはこうすんだよ!

 攻牙のキャラクターは、地面を見据えながら腕を大きく振りかぶった。ガントレットに光の粒子が集まってゆき、眩く輝き始める。

 瞬間、相手が勢いをつけて跳ね起きた。

 間髪入れず、攻牙はガントレットで地面を殴りつける。画面の振動。鎧男の足元から光の柱が吹き上がった。

 敵はすでにガードを固めており、波紋のようなガードエフェクトが連続して発生するのみ。

 しかし、攻牙はその時すでに跳躍している。孤を描く軌道。そして防御している甲冑男の頭上を跳び越すと同時に蹴りを放つ。

 ヒット。

 相手を飛び越した瞬間に攻撃したため、システム内では「逆方向からの攻撃」として処理されたのだ。

 鎧男の食らいモーションが終わらないうちに小足から始動する連続技を叩き込み、ラウンド開始時に置いておいた設置技〈バーティカルヴォイド〉で真上にふっ飛ばし、空中浮遊するカーソルの中に放り込んだ。

 すると背景が闇に閉ざされ、甲冑男はビームの楔を無数に打ち込まれて空中に縫い止められた。直後に巨大な光の刃が三つ出現し、次々と振り下ろされる。巨大なヒットエフェクトが三重に咲き誇る。哀れな咎人に審判を下す。

 超必殺設置技〈セイクリッドギロチン〉。

『閃滅完了-K.O.-』

 システムヴォイスが、無機質な女性の声でそう告げた。

「『あんたの光は、濁っている』」

 攻牙はガッツポーズしながらセリフを自キャラとハモらせる。なかなかに快調な滑り出しだ。

 『装光兵飢フェイタルウィザード』。

 それが、攻牙のプレイしている2D格闘ゲームのタイトルだった。

 アニメ映画のようにヌルヌル動くスプライトと、緻密にモデリングされた3Dの背景、独創的なキャラクターデザインなど、主にビジュアル面で注目されていたタイトルだ。

 しかし実際に稼働してみると、全キャラクターが複数の設置技を持っており、浮遊静止する攻撃を連鎖的に当てて行くという特異なゲームコンセプトから「ピタゴラ格闘スイッチ」などと呼ばれてコアな人気を博している。

 相手のキャラクターはコンピュータが操作していたため、動きのパターンはもう読めている。正直、めくり攻撃(飛び越しつつ攻撃してガード方向を混乱させるテクニック)など使うまでもない相手なのだが、技術の反復練習はとても重要だ。

 画面が切り替わった。緑色のワイヤーフレームでゲーム内世界の地図が表示され、十数箇所に光点が打たれている。戦いの舞台となる場所を示しているのだ。その中の一つがピックアップされ、次に相手となるキャラクターのビジュアルが表示される。

 攻牙にとっては相性のいい楽な相手だった。

「対戦……してえなぁ」

 小声でぼやきながらレバーを握る。時刻は昼過ぎあたり。歯ごたえのあるゲーマーは大抵社会人なので、まだ出没しない。早く来すぎたか、と思う。

 背景やキャラクターを表示するため、一瞬だけ画面が真っ黒になり、BGMも止んだ。

 こひゅう、という吐息が攻牙の耳朶を舐めていったのは、その瞬間のことだった。

「え……っ?」

 咄嗟に振り返る。

 すぐ眼の前に、彫りの深い男の顔があった。

「ぎょああああ!」

 思わずイスから転げ落ちた。

 さっきゲームセンターに入ってきた車椅子の変態緊縛大男だ。背後から忍び寄り、攻牙の画面を覗き込んでいたのだ。しかし目隠しをしているのに「覗き込んでいた」というのも異様な話だ。

 そして、妙な感覚が頭の中に発生した。脳みその普段使われていない部分に、一斉に火が灯ったような、異様な感覚だった。

 ――なんだこれ!?

 しかし、今はそれよりも早急に行わなければならないことがある。

 すなわち、突然現れた不審者への誰何。

「なななななななんだよおっさん! ちちちちちちちちち近ぇよこの野郎!」

 男は、何も言わない。ただ、鋼鉄の口枷を噛み締めながら、にたあ、と笑った。

 めちゃくちゃ怖い。

 緊縛男は身を引くと、電動車椅子を操作して移動し始めた。ゆっくりと。ゆっくりと。

 攻牙は緊張しながらその様子を見ていたが、やがて台の影に隠れて見えなくなってしまった。

「ったく何なんだよ」

 息を吐く。

 ゲーセンにはたまに変な奴が来るが、群を抜いて変な奴である。

 そしてガキィーン! と効果音。

「あぁっ! やべ!」

 あわてて立ち上がり、画面を見ると、案の定攻牙のキャラクターはダウンしていた。相当ボコられたようで、体力ゲージが半分ほどに減っている。

「ええい上等だコラァーッ!」

 勇んで筐体にかじりつく。

 攻牙にとってはコンピュータ操作のキャラクターなど相手にならないので、その後はほとんどダメージを食らうことなく順当に圧倒していった。

 が、その時、筐体の反対側からゴガッとかいう音が響いてきた。

 直後、いきなりBGMが変わり、画面に『軍籍不明熱源体アンノウン接近中-A new wizard showed up-』という文字がデカデカと表示された。

 いわゆる乱入。他のプレイヤーに挑戦されたのだ。

 虚を突かれた。いや対戦自体は大歓迎なのだが、こんな時間帯から乱入を受けるとは思わなかったのだ。

 ――よーしやってやろうじゃねえか。

 肩を回しながら、相手プレイヤーがキャラを選ぶのを待つ。

「んん?」

 妙な――ことが起こった。

 見覚えのないキャラクターが、画面に登場している。

「なんだ……こいつ……?」

 黒い。

 ひたすらに黒い。

 全体的なフォルムは痩身の男のものだ。しかしその体は黒い結晶のようなもので形作られているらしく、立ちモーションの微妙な角度の変化で光沢が移ろってゆく。元祖3D格闘ゲームのラスボスを思わせる姿だが、体の内部では血管のような樹状構造が赤々と蠢いていた。

 これを一からドット打ちしたのならば、かなりの職人芸と言える。

 しかし、見覚えがない。キャラクターセレクト画面にはこんな奴はいなかった。

 ならばボスキャラか隠しキャラということになるのだが……

 ――ボスはこんな不気味な野郎じゃなかったぜ。

 それにSNSでもこんな隠しキャラの情報など見たこともない。

 いや、それ以前に。

 ――こいつ……なんか違う……

 その違和感の正体を強いて言うなら、「デザインコンセプトの違い」である。

 もともと『装光兵飢フェイタルウィザード』は、光の力を操る生体兵器たちの闘いを描いたものではあるが、そのキャラクターたちは全員がパーソナリティを色濃く強調されたデザインだ。簡単に言うと物凄くマンガ的・アニメ的な容姿なのである。こんな無機質で人格の感じ取れない、いかにも兵器じみた輩は、どう見てもコンセプトエラーだ。

 頭身からして違う。他の人型キャラは表情を見やすくするために六頭身なのだが、乱入してきたキャラクターは明らかに八頭身である。

 アニメの世界に実写の人間が紛れ込んだような、違和感。

『第一燐界形成-Round 1-』

 システムヴォイスが告げた。ラウンドコールだ。

 攻牙は違和感を振り払い、レバーとボタンに手をやった。

 このゲームでは、直接攻撃を除くすべての行動をラウンドコールの間にとることができる。攻牙は画面内を飛び回ってベストと思える位置に次々と設置技を仕込んでいった。

 対照的に、相手はその場からじっと動かない。微動だにしない。

『閃滅開始-Destroy it-』

 そして。

 奴が、吠えた。


 ●


 七月二十一日

  午後一時三十二分五十五秒

   諏訪原家にて

    「俺」のターン


 追試、ということになった。

「よし、死のう」

 ひとつうなずく。

 俺はいつものように切腹を敢行し、いつものように霧華に殴り飛ばされた。

 取り上げられたドスを哀切に満ちた眼差しで見つめる。

「そんな眼をしてもダメ! これはもう没収!」

「くっ……なんと言うことだ……」

 タグトゥマダークとの闘いは、予期せぬ後遺症を引き起こした。期末試験の開始時刻と同時に襲来してきおったので、俺たちは一日分試験をサボることになってしまったのだ。まさかこれが狙いだったのだろうか。

 恐ろしい男である。

 その時、いきなり喧しい電子音が鳴り響いた。

「むむ?」

 懐でけたたましく鳴り始めた物体を手にとる。思わず首をかしげた。

「これは何だ?」

「スマホでしょうが!」

「……あぁ、なるほど、電話がかかってきたのだな」

 納得顔で頷き、不敵な笑みを見せる。

 このたび、俺と霧華はスマンホホを持つことになった。このような奇怪極まるからくりには苦手な印象しかないのだが、父上と母上に「頼むから持ってくれ」と懇願された故、致し方あるまい。

「フッ……問題ない。すでに説明書は読んだ。操縦の理論は頭に叩き込まれている」

 霧華は少し目を見開く。

「えっ、そうなんだ。兄貴がこんなに早く文明機器になじむなんて珍しいね」

「大丈夫……俺ならできる……問題ない……平常心平常心……訓練通りにやれば必ず生きて帰ってこれる……」

「いいから早く出ろ! ……って、アレ? 兄貴の携帯ってそんな形だっけ?」

 かくして、画面に表示される通話ボタンを左から右に引っ張るという艱難辛苦に満ち満ちた冒険行ののち、俺は満を持してスマンホーンを耳に押し当てた。

 あとは普通の電話と同じである。いささか以上にホッとしながら声を発した。

「もしもし、諏訪原篤である」

『――ウンコ喰ってる時にカレーの話をするド低脳に対して、人類はいかなる制裁を加えるべきか。これは古代オリエントにおいて文明が発祥した当時から我々の頭を悩ませてきた普遍的哲学命題であるわけだが、人類の集合知が希求するその究極的な回答が今ここにあると言ったら、この男はいったいどんな反応をするだろうか』

「誰だ貴様」

 そして何を言っている。

『――諏訪原篤はそう言い捨てると、不審の念を込めた沈黙で相手を威圧した。それだけで空気が重みを増す、存在感のある沈黙だった。ディルギスダークは頬を歪め、用件を伝えにかかる』

 電話の相手は低く笑った。

『――降伏せよ。もはやこの地域はディルギスダークが制圧した。諏訪原篤に味方は居ない。バーカバーカ。ハーゲ。うんこー』

 小学生かよ。

 俺は口を噤んだ。意図せずして目元が険しくなってゆく。

「……それは、どういう意味だ」

『――ディルギスダークは極めて特殊な操停術を編み出した。その神髄は、洗脳。すなわち敵対者の頭脳中枢に内力操作で働きかけ、己の傀儡と化さしめる技法である』

 バス停の力で、洗脳する……

「……そんなことが、可能なのか……?」

『――無論、信じる義務など諏訪原篤にはなかった。だがすぐにわかることだ。朱鷺沢町近郊を守る四人のポートガーディアン。彼らをもはや味方とは思わないほうが良い』

 俺は眉間に皺を寄せる。

「貴様……勤さんたちを洗脳したというのか?」

『――いずれもなかなかの猛者ぞろい。彼ら全員が諏訪原篤の敵となる。抵抗は無意味だった。降伏こそが最良の選択肢である』

「断固として断る」

『――ではもうひとつ、諏訪原篤が降伏したくなる計を案じることにした』

「どのような策を弄そうと、折れる心など持ってはいない」

 忍び笑いが、受話器から漂ってきた。

 一瞬、異様な気配がした。


『――ディルギスダークはたった今、諏訪原篤の妹、諏訪原霧華を拉致することに成功した』


「なん……だと……?」

 ぞわり、と。

 冷たい汗が噴き出した。

「霧……華……?」

 ゆっくりと、振り返った。

 自室があった。いつもと変わらなかった。

 霧華は――いた。安堵したのもつかの間、彼女が床に倒れ臥していることに気付く

 眼が見開かれ、瞳孔が収縮した。携帯が手から落ちる。心臓を締め付けられる感覚。

「霧華! どうした」

 抱き起こし、揺さぶる。しかし力なく首を振るばかりで、一向に反応を見せない。

 俺は携帯を拾い上げた。

「貴様……霧華に何をした!」

 さっきまで霧華はすぐそばで喋っていたというのに、なぜいきなりこんなことになったのか不可解だった。

『――精神的誘拐である。諏訪原霧華は、その意識だけが肉体を離れ、ディルギスダークの手中におさまったのだ』

 ありえない。ディルギスダークとは今スッマーホッホーンで話している所だ。ここにいた霧華を昏倒させることなど不可能なはず……

 ……いや。

 恐るべき可能性に行き当たった。

 すぐに携帯に噛みつく。

「貴様……まさか……!? この家の中で息をひそめ、この機を窺っていたというのか!?」

 喉を痙攣させたような笑いが電話の向こうから聞こえてくる。

『――今回諏訪原篤が得るべき教訓は、『戸締りには気をつけましょう』ということであった。いくら暑いからと言って網戸のまま長時間放置するなど、知らないおっさんに侵入してくれと言っているようなものであった』

「貴様……どこだ! どこにいる……!」

 スマッホを握り締めたまま、俺は周りを見渡した。

 しかし、動く者など何もない。当然だ。ディルギスダークの声が電話口からしか聞こえないということは、すでにそれだけ離れた場所にいるということだ。

『――無意味であった。無駄であった。諏訪原篤は大切なものを何一つ守ることなく、失意のうちに打倒されることだろう。味方はいない。ただの一人も』

 電話が、切れた。

 静寂が襲い掛かってきた。

「くっ……」

 家中を探し回ったが、敵の姿は影も形も見当たらなかった。

 意識を奪われた妹の前に再びやってきた俺は、力なくそのそばに膝を突く。

 呼吸と脈拍を確認。……正常。

 ただ意識だけがない。

「すまぬ……俺が至らぬばかりに……」

 おもむろに天を見上げる。

「……思考せよ」

 険しく目を細めながら、そうつぶやく。

「ことここに至り、ディルギスダークが打つ次なる一手は何か?」

 ――味方はいない。ただの一人も。

 ディルギスダークの言葉を反芻する。この言説が意味するところは何か?

 俺は携帯を拾い上げると、たどたどしく操作しはじめた。

 確か……攻牙からこう言う時のための緊急連絡手段を教わっていたはずだ。

 あの、なんか、ラ、ライン? とかいう? なんかすごいなんかを用いることで、一発で複数の人間に情報を伝える手法。

 かなり手間取りながらも、どうにか文面を送ることに成功した。

「これでよい……のだろうか?」

 いまひとつ、自信がない。しかし吹き出しが連なっている画面には自分の入力内容がちゃんと表示されている。これを信用するほかないだろう。

 瞬間。

「む、殺気!」

 ……強大な殺意が、俺の体を貫いていった。

 顔を上げ、素早く周囲を見渡す。

 ――どちらだ!? 殺意の源は!

 しかし、感知できない。どこかすぐ近くのようにも思えるのだが……!?

 直後、巨大な怪鳥の叫びにも似た不協和音が、大気を引き裂いた。


 ●


 何かが閃光とともに奔り抜け、諏訪原家を真っ二つに両断したのち、勢い余って田園地帯を一直線に通過。深さ三十メートルに達する亀裂を大地に刻み込んだ。この時恐るべき怪音波が周囲の住民たちに向けて放射され、脱サラファーマー山本功治の愛犬ケンシロウをおびえさせ、山本功治の一人娘久美(一歳)を泣かし、山元功治が飲んでたお茶を吹き出させ、山本功治がひそやかな趣味として楽しんでいたガンプラの塗装作業を台無しにさせる等の深刻な騒音被害を発生させた。夏休み限定の新聞配達少年・那桐なぎり龍醒りゅうざは驚きのあまり自転車から派手に転倒して路傍の岩と激突。その衝撃で人類の起源に関わる重大な記憶を思い出してしまい、世界の存亡をかけた戦いに巻き込まれてゆくことになるわけだが本編とは何の関係もないのでカット。

 とにかくまぁ、それほど凄まじい音だったのである。

 ――それは、鴉の絶叫に似ていた。


 ●


 七月二十一日

  午後一時三十五分二十秒

   霧沙希家にて

    「射美」のターン


 ホントはこんなつもりじゃなかったんだけど。

 何かすべすべとしてやわらかい感触が、射美の全身を包んでいるでごわす。

 ――えっと……なんでこんな状況になっちゃったんでごわしたっけ……?

 射美はソファに寝そべっていて、さっきまで眠ってたみたい。頭の中がじんじんするでごわす。

 ――えーと……たしか藍浬さんと……なにしてたんだっけ……?

 寝ぼけて考えがまとまらない~……

「ん……」

 伸びをしようと体をいったん曲げた。

 ふにゅん。

 と、顔に何かが当たった。なんだか、温かい海に顔を浸したようなカンジがした。

 〝神話の海〟。そんな神秘テキな単語が頭をよぎった。きっと諏訪原センパイの影響でごわす。胸の奥でチリチリと欲望がうずくでごわす~。

「んん~」

 もっと深く潜ろうと首をよじらせ、顔を押しつける。

 海は、むにょむにょぷよんと、どこまでも柔らかく射美を受け入れてくれた。

 そのあたりで、意識がハッキリとしてくる。

 ――あ、そーだ……たしか追試くらっちゃったから……藍浬さんに勉強教えてもらってて……

 で、そのまま寝た、と。

 ぼんやりと思考しながら、はむはむと海を唇ではさむ。

 こうしていると、物凄く落ち着くでごわす。他のことがどうでもよくなってゆくぅ~。

「ぁ……ん……」

 ふいに、神話テキ海面がかすかに震え、かぼそい声が聞こえた。

「んにゅ……?」

「ふぁぁ……あら、射美……ちゃん……?」

 呼ばれて、すこしだけ顔を上げた。

 眠りの気配と涼しげな微笑みが溶け合って、優しく細められた眼。

 藍浬さんが、射美を穏やかに見下ろしていた。

「んもう……甘えんぼさん」

 ぎゅっと抱きしめられた。

 ――あぁ~、胸の中が、ふくふくするぅ……

 藍浬さんにひっついていると、とっても気持ち良くてシアワセでごわす♪

 眠気が晴れていって、周りの情景がちょっとずつに頭に入ってくる。

 広い居間。二人が寝ている白いソファ。教科書とノートが広げられた白いテーブル。白い壁。木目のフローリング。角に置かれたシマトネリコの鉢。

 ガラス張りの壁から降り注ぐ陽光は、昼下がりの時刻を表していた。

 そして、何かが聞こえる。スマホの振動音。

 さっきから鳴っていたはずだけど、寝ぼけ頭のせいで耳に入ってこなかったのかな。

「あ……「朱鷺沢町防衛同盟」……でごわす……ね」

「うーん、そうねえ……」

 のんびりとした声で、ささやき交わす。

 なんとなく、離れがたい。藍浬さんの二の腕にほっぺスリスリ。

 目覚まし鳴ってるけどまだ寝ていたい心境を、もうすこし甘やかにしたカンカク。

 ――んにゅ……カラダが勝手に甘えるでごわす~……

「起きないと、いけないわよねえ……」

「あうぅ、そーごわすね……」

「よーし、いっせーのーでっ」

「よいしょっ!」

 精神的に勢いを付け、射美と藍浬さんは起きあがった。

「うー…んっ! よくねたでごわす~♪」

「あふ……ちょっと頭痛い……かも」

 藍浬さんとそろって伸びをし、テーブルに置いてあったそれぞれの携帯を取った。


 朱鷺沢町防衛同盟(1)

 諏訪原センパイ 13:37

 きけんあぶないすぐにげろせんのうされるでいるぎすだあくがきた


「……」

「……」

 二人して黙る。

「漢字変換おぼえろでごわすーっ!」

「うふふ、ラインはじめてだもんね、諏訪原くん」

 でも、文の内容はのほほんとしていられないカンジでごわす。

「うぬぬ、これはマズいでごわすよーっ!」

 射美は携帯を掲げて叫んだ。

「うーん、わたしにはどういう意味なのかよくわからないけど……」

「ディルさんが動きだしたでごわす! 洗脳はディルさんのオハコでごわすよーっ!」

 ディルギスダーク。

 内力操作をなんか変な方向に極めて、自分の肉体だけじゃなく、他の物体にもみょうちきりんな影響をあたえるおっちゃん。十二傑の序列第六位。ゾンちゃんと並ぶ超イロモノ。

 得意技は洗脳だった気がするでごわす。

「まあ大変……諏訪原くん、大丈夫かしら」

 眉をひそめ、頬に手を当てる藍浬さん。

 射美は立ち上がった。

「射美、いくでごわすー!」

 両のにぎりこぶしを持ち上げ、鼻息も荒く宣言した。

「ゼッタイ諏訪原センパイをたすけて帰ってくるでごわすっ! だから三時のおやつの準備をして待ってるでごわすよ~♪」

 藍浬さんは目尻を下げながらも微笑んだ。

 腕がのびて、射美を抱き寄せてくれた。

「わかったわ。絶対に帰ってきてね、射美ちゃん」

「んにゅ、モチロン♪」

 あぅ~、シアワセ~♪

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