巣立ち

 鋼原射美は、決断の岐路に立たされていた。

 ボロ借家への道を、とぼとぼと歩きながら、眉尻は垂れ下がっていた。

 もしもネコ耳が生えていたら、しゅんと力なく伏せられていることだろう。

 ――射美もケモノ耳ほしかったなぁ~……

 なんて。

 思考を関係ない方向に遊ばせてみるけれど。

「ふみ……」

 胸がひくついて、喉が熱くなって。

 やっぱりこらえきれなくなって。

「ふみぃ……っ」

 やっぱりすごくショックで。

 普段あんなに優しかったのにって思うと、ひたすらに悲しくて。

 ――ホントに、怒ってたんだなぁ。

「みいぃぃぃ~っ!」

 涙が止まらない。

 射美は、生まれた時からすでに《ブレーズ・パスカルの使徒》にいた。彼女の両親は組織の構成員だったようだが、一度も会わせてもらったことはない。

 大人ばかりの組織で、最初に優しくしてくれたのがタグトゥマダークで。

 だからこそ、甘えすぎていたのかもしれない。

 無限の好意なんて、あるはずがないのに。

 ――射美はダメな子でごわす……

 あぁ、だけど。

 誰かにこの悲しみを聞いてほしかった。

 無理して藍浬や篤や攻牙の前から逃げ出すべきではなかった。

 自分は誰かに泣きつく資格なんかない、なんて。

 変に格好つけて。

「ひっ……ひぅ……」

 嗚咽をこらえるくらいしか、できないなんて。

「――どうして泣いているんだい? お嬢さん」

 そう、こんな風に。

「君に泣き顔なんて似合わないよ、鋼原さん」

 優しく話を聞いてくれる誰かがいれば。

「君に似合うのは、頬を赤らめながら唇を噛んで未知なる快楽と羞恥に耐え続ける表情だよ!!!!」

「ぎゃああ! ヘンタイさん!」

 黒い風が吹き抜けた。

 射美は恐怖に突き動かされ、全力ダッシュ。十メートルも進んだところで振り返った。

 均整の取れた長身痩躯。わきわきとイヤらしく動く両手の指。ダークグリーンの前髪が、その眼を覆い隠しているが、口の端は吊り上っていた。

 超高機動型変態、闇灯謦司郎。

 いくらなんでも神出鬼没すぎる。

「はっはっは、君みたいなかわいい女の子に変態なんて言われると、僕のパトリシアが神に反逆しちゃうよ!」

 何の隠喩だ。

「どっ、どっ、どどど、どうしてここに!?」

 もう五分も歩けば、射美たちが隠れ住むボロ借家にたどり着いてしまうような場所である。それはつまり、謦司郎には隠れ家の位置がバレているということではないだろうか?

「ノンノン、そんなことはまったく重要じゃないさ」

 背後から優雅なテノール。

「ひぃぃぃぃぃ!」

 いつ移動したのか全然わからない。怖い。単純に怖い。自分が何をしようが彼の行動を止められないという恐怖。

「今重要なのは、鋼原さん、君が悲しんでいるってこと」

「……ひ……!?」

 ふっと風が吹いて、射美の目尻に何かが触れた。

 謦司郎の親指だ。溜まった涙を拭い去り、引っ込んでいく。

「あ……」

「君に言っておきたいことがあるんだ」

 謦司郎は腰に手をあて、あさっての空を見上げた。そんな何気ない所作が、凄まじく絵になる奴だった。

「……ありがとう」

「え……?」

 意味をつかみかねて謦司郎の顔を見やると、彼の頬は緩やかに綻んでいた。

「攻牙を助けてくれて、ね」

 射美は眼を見開いた。

「君がいなかったら、攻牙は間違いなく真っ二つになっていたと思う。だから、ありがとう。本当に」

 そして、決まりが悪そうに頭を掻いた。

「これでも親友って奴だからね。ふひひっ、本人はムキになって否定しそうだけど」

 射美は、言葉が出なかった。

「だからね、お願いだ。自分の行いを、否定しないでほしい。君のしたことに感謝している人間が、ここに間違いなく一人いる。それに、篤やおっぱ……霧沙希さんも同じくらい感謝してると思う」

 今なんて言いそうになった?

「あ……う……」

 だけど、突っ込みの言葉は出て来ない。

 胸の中で、熱い何かが詰まっていたから。

 こみ上げてくるものがある。

 それは熱を伴って、圧力を高めてゆく。

 やがて、

「ウぐっ!?」

 OK、久々だ。


「ごふぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 グラシャ! ラボラス!

 深紅の! 奔流!

 びちゃびちゃと道端に叩きつけられ、ホラーな領域を広げてゆく。

「けほっ……けほっ……」

 身を折って咳き込む射美。

「あー……えっと……大丈夫かな……?」

「うぃ~、感極まってやっちゃったでごわすぅ~」

 咳き込みながら、にひひと笑いはじめた。

 なんとなく、この変態紳士をたじろかせたことに、愉快な思いを抱く。

「しまった……頭から浴びれば良かった……! あぁっ! 美少女の体液が! 体液が! 無駄に地面に染み込んでゆく!」

「…………」

 そうでもなかった。

 変態すぎる。

「あー、こほん」

 気を取り直して。

「あの……ありがとうでごわす。ちょっと気が楽になったでごわす」

 ぐしぐしと口をこすりながら、自然に笑みを浮かべることができた。

「おかげで、決心がついたでごわす♪」

 変態紳士が、わずかに眼を見開いたような気がした。

「決心……そうか」

 そう微笑んで、歩き出す。

 すれ違いざま、射美の肩に手が置かれた。

「無理はしないで、命を大事にね」

「はい♪ ヘンタイさんは、実はいいヘンタイさんでごわすね♪」

「はっはっは、君みたいなかわいい女の子にそこまで言われたら、僕のパトリシアのみならずエリザベスまで凄いことになってしまうよ!!」

「えっ……それ何!? どゆことでごわすか!?」

 別個のナニカらしい。


 ●


 地方征圧軍十二傑の序列第三位であるところのヴェステルダークは、ボロ借家の居間で、ひとつの結論に到達していた。

 皇停『禁龍峡』の位置に関する、重大なパラダイムシフト。

「……私は今までとんでもない勘違いをしていたらしいのかもな……」

 眉間を軽く摘みながら、斬れ味鋭い笑みを浮かべるヴェステルダーク。

 ここ朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相が不安定に揺らいでいる理由。

 どれだけ〈BUS〉の流れを辿ろうが、まったく《楔》に辿りつかなかった理由。

 ようやくそれが、判然とした。

 今までは、謎の寄生バス停(うねうねしてる)が、正常な〈BUS〉の流動を阻害しているせいかと考えてきたが――

 どうやらそうではないらしい。

 むしろ、逆――

「……ん」

 どこかで、絶叫が、上がった。

 まるで、獣のような慟哭であった。

 生きながら喰われる猫のような喘鳴であった。

 あるいはそれは、笑い声にも似ていたかもしれない。だが、そう断じるには何かが欠け、何かが余分だった。

 軽く眉をひそめるヴェステルダーク。

 叫びは、すぐにやんだ。

 不気味なまでの、静寂。

 やがて、襖が蹴破られる音が微かにした。

 足音が響いてきた。

 規則的で、異常に緩慢な、人がましさを感じられない足音だった。

 どうやら廊下を歩いているようだ。

 板張りの床が、軋む。

 だんだんと、近づいてくる。

 ゆっくりと、近づいてくる。

 ヴェステルダークは、鋭く目を細め、自らの顎を掴んだ。

 ……ある予感があった。

 確信していたわけではないが、ひょっとしたらこうなるのではないかと。

 無数にある可能性の一つとして、予測はしていた。

 やがて、ヴェステルダークのいる居間へと通じる襖の前で、足音は止まった。

 がたり、と。

 襖が震える。

 がき、がぎっ、と。

 襖が引っ掻かれる音がする。

 乱暴というよりは、襖の開け方がわかっていない獣のような所作だった。

「――入りたまえ」

 ヴェステルダークがそう声をかけると、わずかに開いた隙間から、派手な音をたてて指が突っ込んできた。

 細かく痙攣しながら、指は爪を立てて襖の端を握り締める。

 瞬間――

「……ァ……」

 襖を力任せに引き毟って、ひとつの影が姿を現した。

 ソレは、人間に似た姿をしていた。

 ヴェステルダークがよく知る部下のような顔をしていたが、まるで死人のように表情がなかった。

 大量に流れ出た血が、その整った顔を禍々しく染めていた。

 ソレは、手に残った襖の残骸を無造作に投げ捨てると、異様に緩慢な動作で歩み寄ってきた。

 そして、ちゃぶ台の上に広げられていた朱鷺沢町の地図に、血まみれの何かを叩きつけた。

 ――縞の獣毛が生えた、二つの肉片だった。

 見ようによっては、耳のようにも見えた。

 くす、と、ヴェステルダークはかすかな失笑を漏らした。

 それはまぎれもなく嘲笑ではあったが、出来の悪い生徒がようやく及第点を出してきた時の教師の笑みにも似ていた。

 ソレは、無言であった。

 ただ、ブラウンの前髪の狭間から、底光りする眼でヴェステルダークを見下していた。

 ヴェステルダークは、亀裂のような笑みを頬に刻む。

「私が、憎いのかもな?」

 ソレは、何も言わず、何もせず、ただ見下してくる。

 ただの人間であれば、それだけで絶息しかねないほどの視線だった。

「――知って、いたのか」

 ようやく、ソレは口を開いた。

 鈍い光沢を持った声だった。低く、動かず、ただ黒々と蟠る声だった。

「ああ。一部始終、知っていたのかもな」

 重圧を伴った沈黙が、二人の間を覆った。

 何ら友好的な空気などなかったが、不可思議な調和が保たれていた。

「あんたは」

 ソレは、やや躊躇うような仕草を見せてから、

、が、飛びかかってきて首を絞めてくるような展開を期待しているんだろうが――」

 禍々しくも剄烈な力を込めた眼で、ヴェステルダークを睨む。

 その瞳は、ひとかけらの温かみもなかったが、どこまでもまっすぐで、澄み渡っていた。

「《王》たるあんたの力を俺は見誤らない。俺が一生涯をかけようが、到達できない高みに、あんたはいる」

 ヴェステルダークは、その言葉を卑屈とは受け取らなかった。

 眼が、力を失っていない。

 状況を正しく理解し、絶望的な力の差を知り、それでもなお成すべきことを見据え続ける。冷たく研ぎ澄まされた覚悟に燃える眼だった。

 ――いい貌を、するようになった。

 ヴェステルダークは笑みを深くした。

 この、欠落を抱えた青年は、今ようやく、生き始めたのだ。

「それに、あんたたちのことを、そこまで怨んではいない」

「……ほう、意外かもな」

 ソレは、血にまみれた自らの手を凝視した。

 細かく、震えていた。

 だか病的な震えではなく、内部より溢れ出る力の扱い方に、まだ慣れていないだけという印象を受けた。

「こんな、強さなど、欲しくはなかった。ずっと、たったひとりの妹を守っていたかった。たとえそれが幻覚であっても、俺はそれでも良かった」

 言いながら、眼を閉じた。眉間に、苦悩の皺が寄った。

「欲しくは……なかったんだ……現実を見据える強さなど……」

 それは、己の身にかつてあった弱さへの郷愁だった。

 すでに失われてしまった、弱さへの。

 その弱さは、致命的な隙となって、とある特殊操作系バス停使いの精神介入を許した。

 序列第五位、エイリオハート。

 ある意味、目の前の青年にとっては恩人であり、憎むべき詐欺師でもあったが――

 この様子では、彼の眼はすでに別の方を向いていそうだった。

「貴様が諏訪原篤と停を交えた時、恐らくはバス停同士での感応が発生したのだろう。そして、彼と貴様の間で精神的な共震現象が発生した」

 共に強烈な感情をぶつけ合いながら死闘を演じたバス停使いの間には、稀にそういった現象が発生することがあった。

「すなわち、貴様のその強さは、すべて諏訪原篤に起因するということだ」

「あぁ……わかっている……わかっているさ……」

 震える五指を握りしめ、ソレは――かつてタグトゥマダークという名で呼ばれていた怪物は、呻いた。

 ふいにこちらへと視線を戻し、鋼のような声で言った。

「今日は、決別を伝えに来た」

「ふむ」

「もはや《絶楔計画》などどうでもいい。あんたたちで勝手にやってくれ。俺は、俺の生を闘う。生きた証を、自分の手でつかみ取る」

 ヴェステルダークは、目を細めた。

「つまり……裏切ると?」

「そう取ってもらって構わない」

 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。

 その身に横溢する、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。

「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」

「くどい」

 ヴェステルダークは、呆れたように息を吐いた。

「……思い人は、あの少年かもな」

 彼は、答えない。

 それが何よりも雄弁な答えだった。

「諏訪原篤は、ディルギスダークが――あの『狂鴉』が、一片の間違いもなくすっきり爽やかに抹殺することだろう」

 酷薄な嘲笑を、口の端に乗せる。

「貴様の出番は、恐らくないのかもな」

「かまわない。俺は――」

 一瞬、青年の顔が嫌悪に歪んだ。

「――奴を、信じている」

 まるで、昨日喰い残した残飯の話でもするかのように、そう吐き捨てた。

 ……腹の底から、笑いの衝動が込み上げてきた。

 くつくつと、低い忍び笑いを漏らしながら、ヴェステルダークは言った。

「よかろう。悔いのないよう、独りで生き、独りで死ね」

「……ありがとう」

 青年は、踵を返すと、振り返りもせずに居間を出ていった。

 後には、血にまみれた獣の耳だけが残された。


 ●


 しばらくしてから、居間にもうひとりの人物が入ってきた。

 大きな瞳を不安そうに揺らしながら、おどおどと。

「あ、あの、今、家の前で、タグっちが……」

 セラキトハート。

 ――いや、もはや鋼原射美と呼ぶべきか。

 彼女のおかげで、この家は明るさを失わなかったものだが。

 そう懐かしむ自分の気の早さに、ヴェステルダークは肩をすくめた。

「ほう、会ったのか。それで、襲われれもしたのかもな?」

 ぶんぶんと、射美は大げさに首を振り、困惑まじりの笑みを浮かべた。

「な、なんか、落ち着いてたっていうか……ブッキラボーだけど、優しかったでごわす」

 ――そうか、そういう見方もあるのか。

 少女の牧歌的な感性に、多少の驚きを覚えた。

「『ひどいことを言った』って。それから、『すまなかった』って……」

 思い出して照れたのか、両頬を手で押さえてくねくねした。

「ひさびさにナデナデされたでごわす~♪」

 頭が血に濡れているのはそのせいか。

 思わず、苦笑が漏れた。

 青年を相手にしていた時とは対照的に、どうにも毒気を抜かれる。

「それに、なんかネコ耳がなくなってたでごわす」

「……あぁ、耳ならそこにあるのかもな」

 ヴェステルダークがちゃぶ台の上を指し示すと、「ぎにゃあああ!」射美はそこから後じさって尻餅をついた。

「ち、ち、ちぎ、ちぎった……!?」

「そのようなのかもな」

 ヴェステルダークは、血まみれのネコ耳を見つめた。

「……不意に、干し肉が食いたくなる時がある。ちょうど今のように」

「いやいやいやいやいや! イキナリ何を言っちゃってるでごわすか! せめてぼかして! 『かもな』を付けて!」

 ヴェステルダークは低く笑った。

 そして眼を細める。

「それで……貴様も私に用があるのではないのかもな?」

 答えの分かっている問いを、発した。

「あ……ぅ」

 一瞬、射美は息をのみ、やがて観念したように息を吐いた。

 ちゃぶ台ごしに、射美は座り込んだ。

「その……」

 何かを言いかけて、射美は口をつぐむ。その眼は下を向き、怯え、揺れていた。

 ヴェステルダークは、声をかけて続きを促すようなことはしなかった。

「大事な人たちが……この町にいるでごわす」

 相槌すら打たず、ヴェステルダークは目を細めてじっと射美を見る。

「射美は……その人たちが、大好きでごわす」

 彼女は下を向いたまま、肩を細かく震わせた。

「だから……その、射美は……だから……」

 さっ、と顔を上げ、正面からヴェステルダークの視線を押し返しにかかる。

「こ、この町を、ま、ま、ま守るつもりでごわす!!」

 額に汗を浮かべ、どもりながら、ヴェステルダークの眼光に抵抗する。

「……つまり、《絶楔計画》を阻止するつもりである、と?」

「は、はい!」

「要するに、裏切る、と?」

「は、はぃぃ……」

 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。

 その身に横溢する、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。

「ひっ……ぐ……っ!」

 反応は劇的だった。射美は全身を硬直させ、呼吸困難に陥ったかのように口をパクパクと開閉させ、眼にはありありと恐怖の色を宿した。

「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」

 青年にかけたのとまったく同じ言葉をかける。

 射美はカチカチと歯を鳴らし、眼尻に涙をためていた。

 しかし――視線が、ヴェステルダークから逸らされることはなかった。

「な、な、ないでごわすぅ~!」

 涙は決壊し、滂沱と流れ落ちる。彼女はわかっているのだ。自分が死地にあるということを。どうやっても逃れることはできないのだと。

 だが――視線は。

 涙に曇っているはずの、その視線は。

「――逸らさないな。一瞬たりとも」

 ヴェステルダークは微笑を浮かべ、根負けしたようにあさっての方向に眼をやった。

「あ……」

 唐突に解けた呪縛に、射美は放心したような声を上げる。

「行け。行きて愛せ。貴様が守りたいと思うすべてのものを」

 視線を戻さぬまま、投げ付けるように、ヴェステルダークは言った。

「う……あ……はいっ!」

 その声は、恐怖によるものとはまったく別種の涙で揺らいでいた。

 彼女が立ち上がる音がする。

「あのっ! ありがとうごわしますっ! それから、今までありがとうごわした! 次会うとき、射美は敵でごわすっ!」

 ヴェステルダークは答えない。射美の方を向きもしない。

「その、ま、まっ、負けません!」

 脱兎のごとく、走り去る足音。

 遠ざかってゆく、足音。

 ヴェステルダークは、穏やかに目を細めた。


 ●


「――かくして、二人の裏切り者が、《王》のもとを去っていった」

「ディルギスダーク……いたのかもな」

「――ヴェステルダークはそう虚空に向けて呟くと、なにやら似合いもしない温かな笑みをあわてて消した」

「余計なお世話なのかもな」

「――だが、ヴェステルダークのこの寛恕は、彼ら二人の若者に、不幸な未来しかもたらさないであろうことは確実だった」

「……ふん」

「――タグトゥマダークは、怪物となった。もはや彼は腹の底で燃え盛る絶望を糧に、温もりも救いもない修羅道を歩むことだろう」

「だろうな」

「――セラキトハートは、明確に《王》の敵対者となった。この時点で彼女の死は決定づけられたのだ。もはや早いか遅いかの違いを除いて、彼女の余生に意味はないだろう」

「それでもな、ディルギスダーク。彼らが自らの意志を貫いて、自らの立場に否やを唱えたことが、私はなぜか、嬉しいのかもな……」

「――ヴェステルダークはそう言うと、遠くを見るような眼差しで、二人が去っていった方向を眺めた」

「本当に……どの子も知らぬ間に大きくなる」

「――彼はおもむろに立ち上がった。その眼には、もはや冷徹な《王》としての威厳以外、何も見出すことはできなくなっていた」

「そして、古い目的にしがみつく古い人間ばかりが、この借家に残ったというわけなのかもな」

「――酷薄に、鋭利な笑みを刻む」

「《楔》の位置については、見当がついたのかもな。《絶楔計画》を第四段階にシフトする――『俺たちの戦いはこれからだ! 第三部・完!』というやつかもな!」

「――そうして、《王》は歩み出した。巨大な時計のごとき歩みだった」


「彼らのゆく手に、断想パンセの導きがあらんことを」

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