第4話「空には月が浮かんでいた。」

 腹が痛いのは事実であった。

 自分の情けなさとか、しょうもなさとか、恥ずかしさとか、いろいろな感情が入り混じって泣きたくなっていた。


 俺はベースを担いだまま、繁華街を適当な方向に歩き、適当な雑居ビルの合間にうずくまった。

 ちょうど、室外機とゴミ箱代わりのポリバケツの間に隠れるように座り込み、膝に額をつけて地面を見ていた。

 遠くから声が聞こえる。


「つか、あのベースのメーカー何?って感じじゃない? オモチャかよ」

 女の声がする。

「つか、今時REXってダサくね?」

 名前も知らない、先輩の声。

「そおかぁ? 俺は好きだが」

 剣崎は、悪気はなさそうだ。

「スンマセン、センパイ。俺なんか余計なことしちゃったかもッス」

 ……あいつ。

「ん? いやいや、翔クンは悪くないぞ。まぁ、真剣にやってる感じでもなかったしなぁ。俺らのレベルとは少し違ったのかなぁ」

 声は、遠のいていく。

 自然と、涙が溢れていた。

 膝の上に、小さなシミを作っていく。


 俺は、馬鹿だ。

 自分の身の程も弁えない、愚かなピエロだ。


 後で知ったこと。

 霧島は中学生の時から、あの手のバンドサークルやライブハウスに出入りしていたらしく、この近辺じゃそれなりの有名人だったらしい。

 剣崎の方はプロを目指して活動しているらしく、あの日の集まりは友人と気楽にセッションするためのものだったが、演奏のレベルはアマチュアの中でも高いらしい。


 そもそものステージが、俺と霧島とでは違ったのだ。


 俺は中学生のころ、ただぼんやりと時間を過ごしていた。

 ゲームや漫画を読んで時間をつぶし、平均より少し上ぐらいの成績で満足していた。

 俺に特別な才能なんて、何もないんだ。


 一方の霧島は、中学のころからライブハウスに出入りし、きっと沢山練習してきたのだろう。

 あいつの性格や言動は最低で、今となってはとても良いヤツなんて思えないが、実力だけは本物だった。

 

 『センス無いよ』という霧島の言葉が頭の中で反響する。

 俺みたいな、地味で暗いヤツはステージに上がることすらできないのか。

 そう思うと、背中に担いだベースが身分不相応で、とても恥ずかしいもののように思えてくる。

 街行く人たちが、まるで嘲笑うかのように俺を見ているのではないか。そんな気持ちになる。


 ああ、もうやめよう。こんなもの捨てちまおう。

 河原にでもぶん投げちまおう。

 

 気が付くと俺は足を運び、繁華街の近くの河川敷に来ていた。

 夕暮れ時が過ぎ、辺りはうす暗闇に包まれている。

 日中なら散歩をしているおじさんや、ボール遊びをする学生などがいるが、この時間はもう人の気配はなかった。

 ひんやりとする夜の冷たい風が、俺の体を吹き付けた。


 川の近くの整備された段差に腰かけ、背中の荷物を下ろす。

 ファスナーを開け、中身を見つめる。

 俺が欲しかったベース。

 オモチャと言われた。俺はこいつを活かしてやることはできないんだ。


 ……今までの平凡な生活に戻るだけだ。

 そう思うと、熱が冷めたみたいにすっとした気分になった。


 グッと、ネックを握り、川のほうに振りかぶる。

 もう知るもんか。

 この惨めな気持ちごと、川に捨ててやる。


 その時だった。


「少年、それをどうするんだい?」


 後ろから、女性の声が聞こえた。

 それは女性にしては少し低く、ハスキーだが艶のある不思議な声だった。

 

 振り向くと、ギターケースを背負った長い黒髪の女性が俺を見ていた。

 まさしく、新聞配達のアルバイトをしていた時に見かけたあの女性だった。


「あ……」

 俺は、再会した驚きと自分が今からやろうとしている行為を見られたことから、何も言えなくなる。

 だらりと、振り上げていた腕を下ろした。

 自分の足の甲の上に、ベースを乗せる。


「それを投げてしまうのかい?」

 女性は、問いかけながら歩み寄り俺に近づく。

「はい。……そうだ、あげます、これ。俺にはもう、いらないんで」

 不法投棄をするよりマシだ。

 何より、この人ならこいつを俺よりも上手に鳴らすことができそうだ。


「いいのかい? ちょっと貸してみせてくれ」

 女性は、俺からベースを受け取ると、抱きかかえるように構えて俺の隣に腰かけた。

 立ち呆けたまま、俺はその仕草を眺めていた。


 女性は弦を数回爪弾くと「ちょっとチューニングがずれているな。……これでよし」と慣れた手つきで調律を行った。

 そのまま、ポーン、ポーンと音を鳴らした。


 やがて、少しずつリズムに乗り始め、曲を奏でる。

 ベースは、正式にはベースギターというギターの親戚のような楽器だ。

 和音を鳴らすのはあまり得意ではなく、簡単に言うと『ド』とか『レ』とか一つの音階を鳴らすのが一般的な演奏法になる。


 女性はリズムよく弦を弾くと、鼻歌を歌った。

 ベース一本の弾き語り。

 それは、シンプルで素朴な音楽であったが、俺は魅了されていた。


 少し前に聞いた霧島たちの演奏がガチャガチャした騒音に思えるぐらい、この女性の演奏はしとやかで、それでいてパワフルだった。

 そして何より、優しかった。


「いいベースだ。これを手放すのは勿体ないと思わないかい?」

「いや……いいベースだなんて、そんなことはないです。楽器屋で安売りされてたヤツですよ。オモチャみたいなもんです。どうせクソみたいな音なんでしょ」

「そんなことはないさ。確かに、もっとお金をかければ上等なものが手に入るだろう。それでも、その楽器達が『いい音』を出せるとは限らないよ」

 女性は、楽し気に微笑むと、俺に座るように促した。

 そこで、俺はこの人を見下ろすように立ち尽くしていることにようやく気が付き、腰を下ろした。


 女性はベースを爪弾きながら、俺に向かって語る。

「楽器はただ、音を出すことしかできない。そして楽器だけじゃ音は出ない。そこには必ず、演奏する人が居る」

 俺はその言葉に、静かにうなずくのみであった。


「人が演奏するのには、理由があるんだ。だって、演奏しただけじゃお腹は膨れないし、体力も回復しないし、欲望も満たされない。生きていくために絶対必要なことじゃないんだ。それでも、遥か昔の古代世界から、人は演奏をしてきたんだ。そこには明確が理由がなくちゃ、おかしいだろう?」

 心地よいリズムと、語り口は俺の心にすっと入ってくる。


「理由は人それぞれ……。でも、共通していることがある」

「なんなんですか、それは」

 俺は思わず質問した。


「誰かに、何かを伝えたいんだ。別に愛の告白だけじゃないぞ? 俺は今サイコーに楽しい!とか、悲しいことがあったから聞いてくれ! とか。春が来てうれしいとか、御飯がおいしいとか。なんでもいいけれど、とにかく何かを伝えるために音を奏でるのさ」

 俺は、笑うべきなのか、真剣にうなずくべきなのか、よくわからないまま女性の顔を見つめる。


「歌詞がなくたっていい。上手な曲じゃなくてもいい。音に思いを込めて、願いを込めて。体の内側からあふれる熱い鼓動を、指先や喉の奥から振動として楽器に伝える。楽器たちは、持ち主の鼓動に共鳴して振動を信号に変えていく。信号は電気の力で増幅され、空気を揺れ動かし、やがて大勢の人達へ伝わっていく」

 女性は、川を眺めて語り続ける。


「楽器を手にする資格の無い人なんて、この世には居ないよ」

 女性は微笑み、俺を流し見た。


 俺は、涙が頬を伝うのに気が付いた。

 いつの間にか、また泣いていた。


「でも俺、センスが無いんです」

 霧島の声が頭の中に響く。

「センスがあるとか無いとか、君が決めることじゃない。君の音楽を聴いた人が決めることだ。確かに、君の音楽を聴いてそういう評価を下す人は居るかも知れない。そういう言葉で、君を傷つけるかも知れない」

 そこで、いったん言葉を切った。


「でも、君は自分の音楽を世界中のすべての人に聞かせてやったわけじゃないだろう? 君の音を好きだって言う人はどこかに必ず、絶対にいるのさ。君に『伝えたいこと』が、あるならね」

「伝えたい、こと……」

「そう。君の心臓が鼓動している限り、君の音楽は鳴りやまない。あとは君が『誰に何を伝えたいか』だよ」

「そんなこと、わからないですよ」

 不貞腐れたように俺が言うと、女性は笑みをこぼした。


「じゃあさ。いつか、誰かに何かを伝えたい時が来た時のために、技術を身に着けよう。そのために練習をしようよ」

「えっ……」

「返事は?」

「……はい」

「声が小さいなぁ」

「はいッ!」

「フフッ、いい声だね、君」

 女性は、楽しそうに笑った。


 俺は心の中で、突き刺さっていた棘が抜け落ちたかのような気持ちだった。

 純粋に音楽を楽しみたい、ベースを手にしたときはそんな気持ちだったはずだ。


「だったら、このベースは君にとって必要なものなんじゃないかな」

「そうですね、すみませんでした」

 女性はベースを俺に向かって差し出した。

 それを、受け取る。


 俺のベース。改めて見つめると、まだ買ったばかりの小ぎれいな姿をしていた。

 俺は、果たして真剣に練習をしていたのだろうか。

 手に入れて、それで満足していたんじゃないだろうか。

 まして、演奏もせずに悦に浸っていたんじゃないだろうか。


 俺は音楽と向き合って楽しむのではなく、ただ格好をつけて楽器を持った自分に酔っていた。

 そんなやつは楽器にも音楽にも失礼なクソ野郎だ。 

 そして、たった一回の失敗で、ベースや周りの人のせいにして諦めようとまでしていた。


 結局俺は、まだ音楽に真剣に向き合ってなかったんだ。

 そんなんじゃ、霧島にバカにされて当然だ。


「あの、すみません。お願いを一つだけ、いいですか?」

 俺は、女性に問いかける。

 彼女は首をかしげて、俺を見た。

 改めて見ると、歳は俺よりも少し上だろうが、可愛らしい顔をしている人だった。


「一曲、聞かせてくれますか?」

 俺は、あの新聞配達の時に聞いた曲を思い出す。

 この人の歌は、俺に何を伝えてくれるのだろうか。


「しょうがないなぁ、少年。ベースを貸してもらったお礼に、一曲披露してあげよう」

 そして、女性はアコースティックギターを取り出し、演奏を始める。

 今度は、日本語の歌詞の歌で、鼻歌ではなくしっかりとしたボーカルだった。


 川の音。少し冷える四月の夜の風。

 自然の音に混ざり合うように、女性は歌う。

 彼女の心臓の鼓動が、歌とギターを介して俺に伝わる。


 見上げると、空には月が浮かんでいた。

 今日が俺のロック史における偉大な一日となることに、間違いはなかった。


 一曲、歌い終えると、「さすがにもう冷えるな。少年、風邪をひく前に帰った方がいいぞ」と女性は立ち去ろうとする。

 そこで、俺は名前を聞き忘れていたことを思い出した。

「あの、名前を教えてください」

 女性は振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


「お願い、一つだけだろ?」


 女性は手を振り、快活に笑いながら、歩いて行った。

 その場に取り残された俺は、けれど吹き出して笑っていた。


 その日から、俺はベースを真剣に練習し始めた。

 いつの日か、あの人と一緒にステージに立ちたい、そんな思いを胸に秘めて。

 いつか伝えられるように、少しでも技術を身に着けよう。

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