其之六 窮追


 宮中を恐怖と混乱に陥れた黒気こっきの龍は姿を消した。しかし、騒動はまだ終わってはいなかった。一息つこうとした曹操そうそうの耳に、宮殿の奥から上がった悲鳴が届いたのだ。曹操は倚天いてんの剣を握りしめ、現場へと走った。

 皇帝と曹節そうせつ宦官かんがんたちはすでに温徳殿おんとくでんを抜け出し、さらにその奥へと逃げおおせていた。しかし、この事態にも、その場にとどまって独り柱の影から様子をうかがう者がいた。宦官・王甫おうほ。王甫はあえて残ったのである。

『黒気の龍とは、どういうことか?』

 それが恐怖心に勝る関心事だった。まるで自分が所持する仙珠せんじゅを使ったような術である。百鬼ひゃっきを使い、袁家の邸宅を襲わせて手に入れた仙珠の一つ・黒水珠こくすいじゅ

 しかし、自分は何も術をろうしてはいない。

 黒気の龍本体は消え去ったが、最初に龍の口から吐き出された陰気のかたまりはまだ残っていた。細長く伸びた陰気の帯が宮中をふわふわとまわっていたが、それは何かを感知して、突然方向を変え、王甫に迫った。

「……ひっ!」

 王甫は思わず声を発してしまった。陰気の塊は王甫の目前で黒い大蛇へと形を変え、口からシュルシュルと気味悪い舌を出した。

「仙珠は誰にも渡さんぞ!」

 王甫も蛇に向かって、その背後にいる術者に向かって豪語した。

 そして、王甫の深い野心はふところ青木珠せいほくじゅに触れて、その身から青白い気を立ち昇らせた。術者の思念にコントロールされた気が集まって、青い大蛇を浮かび上がらせる。陰気でできた二匹の大蛇が鎌首かまくびをもたげては互いを牽制けんせいし合った。

 だが、その対峙たいじも長く続かず、二匹の大蛇が斬り裂かれて消えた。曹操が倚天の剣を一閃いっせんしたのだ。

「お、お前は……!」

 百鬼事件を追跡し、自分に冷や汗をかかせた男――――洛陽らくよう北部尉ほくぶい・曹操孟徳。

 一度は洛陽から追い出したものの、再び舞い戻ってきて、議郎の官職に復帰した要注意人物。王甫が危険視するその男が絶妙な芝居を打って、王甫をからかった。

「何と、王甫様が妖術使いであったとは! ……これは捨て置けませんな」

 曹操お得意の人を食ったような挑発である。

「違う、妖術を使っているのは他の連中だ。わたしはあの黒い龍とは関係ない!」

 黒気の龍が自分の仕業しわざでないということは確かであるのに、証明しようがない。

 まさか自分の術が青蛇だと実践して見せるわけにもいかない。王甫は必死に弁明した。

「見たであろう。わたしは今、妖術で襲われておったのだぞ!」

 最初から王甫を黒と断定している曹操にとって、そんな方便はどうでもよかった。

 王甫も曹節そうせつも国家に巣食う獅子身中しししんちゅうの虫、この国が抱える内憂の根源なのである。この奸賊かんぞくたちが行ってきた行為は万死ばんしあたいする。その大罪人が恥知らずにも言い訳を並べ立てる。虫唾むしずが走るようだった。

「下手な芝居はやめろ。お前の悪事の証拠はつかんでいるぞ、逆賊王甫」

 みずからも芝居をやめ、曹操がおどしをかけてすごんだ。気迫みなぎる曹操の態度に、一瞬言葉に詰まってひるんだ王甫ではあったが、ついにはその本性ほんしょうき出しにして、反対に曹操を恫喝どうかつした。

「……わたしを敵に回して勝てるとでも思っているのか。わたしにかかれば、過去の党人とうじん同様、お前の一族諸共もろともこの世から消すことは容易たやすいのだぞ」

「ようやく馬脚ばきゃくあらわにしたな。……ふん、できるものならやってみろ」

 曹操は王甫の恫喝にも屈しない。逆にさらに相手を恫喝した。

「言っておくが、オレの祖父は大宦官だった。お前もよく知っているはずだ。祖父に恩恵を受けた者は五万といる。我等をほうむれば、その者たちが死をしてお前を八つ裂きにするだろう」

 それは道理だった。大宦官・曹騰そうとうのこした遺産は計り知れない。聞くところによれば、この曹操は政界に絶大な影響力を持つ袁一族とも独自に交流を深めているという。王甫は再び言葉に詰まった挙句、決心したようだった。

「どのみちお前はいつか消さねば、と思っていた。ならば……」

 王甫が黒い策謀を口にする。

「ならば、今ここで死んでもらう。あの黒い龍の化け物にやられたことにしてな……!」

 王甫が気を放つ。再び青い大蛇が姿を現し、それは一匹ではなく、十数匹もの群れとなって曹操に襲いかかった。しかし、曹操は咄嗟とっさに部屋の隅に背を預けて、正面から迫りくる大蛇を一匹一匹斬り捨てていった。妖術を恐れぬ胆力と抜群の武芸。蛇の妖術が曹操に破られるのも時間の問題だった。

 王甫にとって誤算だったのは、曹操が持つ白気の剣の存在だった。

「何だ、あの剣は?」

 我が術が通用しないことに、自分の妖術を容易く切り裂く曹操に、王甫はたじろぎ、うろたえた。その間にも曹操の剣さばきは王甫が残した青い大蛇を次々と葬っていった。黒気の龍の時と同じで、白く発光したやいばが蛇の胴体を切り裂く度に青い気が拡散するようにして消える。

 そのようにして曹操が全ての蛇を消し去った時、王甫の姿はどこにもなかった。

「くそ、千載一遇せんざいいちぐうの機会を!」

 曹操は王甫を取り逃がしたことを激しく悔しがった。辺りを探してはみたが、広い宮中ではその行方を追うのは難しかった。衛兵たちが回廊を走っていくのが見えて、曹操は舌打ちすると、それ以上の追跡をあきらめた。たとえ今ここで王甫を捕えられても、事前に曹操が考えたプラン通りにはいかない。まだ証拠がそろわないうちは裁判にかけたとしても、王甫を殺すことは不可能に近い。

 舌打ちの本当の理由――――それは目撃者がいなかったそのうちに、黒気の龍のせいにして一気に王甫にとどめを刺してしまえばよかったのに、そのチャンスをいっしてしまったことにある。

 一方、逃げおおせた王甫の方は激しい動揺に駆られていた。

「くそ、こんなはずでは……!」

 口を塞ぐこともできず、自ら秘密を暴露し、あろうことか目の前で妖術まで披露してしまった。墓穴ぼけつを掘ったに等しい。王甫は曹操の計り知れない能力に恐怖した。

 早足で宮中の廊下を駆けながら、何度も後ろを振り向いて、自分を追い詰める男が迫っていないかを確かめた。その心は乱れ切っていた。


 その夜、目覚めた皇帝に呼ばれ、王甫が皇帝の寝室に入った。

 記憶がよみがった皇帝はおびえきって、きらびやかな龍の刺繍ししゅうほどこされた赤絹あかぎぬ布団ふとんかぶって、顔を隠したままだった。

「陛下、王甫でございます」

 王甫は何事もなかったかのように、穏やかな声で尋ねた。皇帝は怯えた様子で聞き返す。

「おお、王甫か。あの龍はどうなったのじゃ……?」

「ご安心ください。もう消えてしまいました」

「……そうか。……あの黒い龍はちんとがめに現れたのか?」

「そうではございません。龍とは皇帝のうつ、陛下ご自身のことでございます。決して悪いしるしではございません」

 余りにも王甫が穏やかに言うので、根拠もなく皇帝はそれを信じてしまった。

「……おお、そうか」

 皇帝が布団から顔をのぞかせて安堵あんどの息をらす。が、王甫はこの愚かな皇帝に思わせぶりな言葉を臭わせ、事態をあらぬ方へと導く。

「……しかしながら、色が不吉でございました。これは天が示した吉兆きっちょうというより、左道さどうの術とみた方がよいでしょう」

「左道じゃと?」

「はい。黒が示すところは夜の刻にてねたみのしるし。龍が現れたのは、ちょうど後宮の方角でございました。これはまさに陛下と床を共にすることができる立場にあり、かつ陛下に恨みを募らせる宮女の誰かが左道を行ったものに相違ございません」

「女の仕業しわざか……?」

 暗愚な皇帝は思考をいとも容易く操られて、顔を険しくした。

〝左道〟とは呪術の一種である。皇帝は今年で二十二歳、女色にょしょくおぼれる年齢ではある。しかし、後宮の宮女が多過ぎた。それが起こす弊害はいくつかある。彼女たちの豪奢ごうしゃな生活が財政を圧迫する一因となったし、女たちが栄達を求めて皇帝の寵愛ちょうあいを争う陰湿な闘いが激化した。その争いに一家の男たちが加わったりして、政争に発展することもしばしばだった。

「……そう言えば、先にも大蛇が現れて驚いたことがあった」

「そ、そうでございましたね」

 五年前、渤海王ぼっかいおう事件が起きた年。皇帝の御座ござに青い大蛇が現れるという超常現象があった。これは渤海王事件で青木珠を手に入れたばかりの王甫がその力をコントロールできずに起こした偶発的な事件だった。王甫はこの話が出る度にびくついてしまうが、皇帝は王甫がその根源だと知るよしはなく、この妖異よういの解釈を博学多識の楊賜ようし下問かもんした。

「――――『詩経しきょう』によりますと、蛇は陰のたぐい、女子のしるしであります。これは宦官の権限を抑え、宮女の請託せいたくを受けず、妻妾さいしょうへの寵愛を割くべし、という啓示でございます」

 楊賜が率直に答えたが、当然、自分たちの権力をごうと目論もくろむこの清流的回答は宦官たちに反発されて、この意見は取り入れられなかった。

「やはり、楊国老ようこくろう(楊賜)が言ったことは一理あったのかもしれぬな」

「……と、申しますと?」

 王甫は皇帝が余計なことを言いださねばよいが……と顔を曇らせた。

「思うに、あの時から女たちに気をつけよという兆候があったのじゃ。此度こたびのことが女の仕業であるなら、手を打たねばならんな」

 皇帝はもっともらしく推理を働かせてみたが、どうにもまと外れであった。

「ほほほ、左様でございますね……」

 杞憂きゆうだったようだ。王甫はしたりとばかりにほくそ笑んだ。

「密かに御調べになってはいかがでしょうか?」

 皇帝が頷いた。王甫の言葉を疑うことは全く知らなかった。


 それから一カ月。まだ黒気の龍の話題が冷めやらぬうちにまたもや奇妙な出来事が起こった。明暗二色に分かれた青白い虹が出て、南宮の嘉徳殿かとくでんに降るという妖異があったのだ。

 度重なる妖異に不安に駆られた皇帝は楊賜、蔡邕さいよう馬日磾ばじつてい単颺ぜんちょうらに解説を記して、速やかに上奏するように求めた。

 二つ並び出で、色鮮やかにして明るき方を雄となし、〝こう〟といい、暗き方を雌として〝げい〟という。これは妖邪の生ずるところ、不正のしるし――――まず楊賜が上奏して、その怪奇現象をそう説明した。つまり、男女おとこおんな(宦官)が不正を働いていることを示す凶瑞きょうずいだというのだ。

 盧植ろしょくの高弟に鄭康成ていこうせいという儒学者がいた。

 その鄭康成も、蜺は邪気なり。陰にして徳なく、妻党に惑うのしるしなり――――と盧植に知らせてきた。帝が宮女の一党を偏重へんちょうし過ぎていることがその凶瑞の原因だという。

 鄭玄ていげんあざなは康成。北海国高密こうみつ県の出身で「八俊はっしゅん」の清流派・杜密とみつに見出されて太学たいがくに学び、続いて盧植の紹介で大学者・馬融ばゆうのもとに入門した。馬融がしゅっした後、盧植について学んだが、その後、党錮にして故郷に隠棲し、ひたすら学問の研鑽けんさんに励んでいた。

 都での出来事はすぐに全国に伝わる。鄭玄も都で起こったその怪奇現象を伝え聞いて、急ぎ盧植に書簡を送って知らせてきたのだ。同門の馬日磾がその鄭玄の説を上奏した。

 近年頻発する妖異は全て亡国の凶兆、妖異の生じたところは全て宮城内であり、これは天のいましめが極めて切迫したことを示すもの――――蔡邕もまた密書を上奏して答えた。そして、政治に干渉している霍玉かくぎょく程璜ていこうといった宦官の排除、宦官の推薦で太尉の位に昇った張顥ちょうぎ、汚職官僚の姓璋せいしょう趙玹ちょうげん蓋升がいしょうなどの免官を実名を出して訴えた。

 ところが、この密書は宦官に盗み見されて知れ渡ってしまう。名指しされた者は恨みを含み、どうにかして蔡邕を陥れようと陰謀を巡らせた。

 ここで利用されたのが尚書令の役職にあった陽球ようきゅうという男であった。

 陽球はあざな方正ほうせいという。漁陽ぎょよう泉陵せんりょう県の出身で、幽州人らしく弓馬武芸に達し、また法にも通じていた。ただこの男は法律に明るい反面、厳し過ぎるくらい法を適用する酷吏こくりとしても有名で、奸賊を捕えては容赦なく殺すということを平気でやる残忍性と少しでも自分を貶議へんぎする者あれば、直ちに敵と見なす短絡性をあわせ持つ人物だった。

 陽球はもともと蔡質さいしつと仲が悪かった上、大鴻驢だいこうろ(外務大臣)の劉郃りゅうごうと蔡邕の間にも以前から確執があった。

 劉郃はあざな季承きしょう河間かかん国出身の皇族で、第二次党錮で死んだ劉脩りゅうしゅうの弟である。

 かつて蔡質の外家(姻戚の一族)に羊陟ようちょくという者がいて、河南尹かなんいんの職に就いていた。

 羊陟はあざな嗣祖しそといい、泰山郡梁父りょうほの人である。清流派の「八顧はっこ」の一人に数えられ、〝天下清苦せいく羊嗣祖〟という七言評しちげんひょうで称えられた名士だ。〝尹〟とは、いわば首都圏の太守のことで、河南尹とは国都洛陽がある地域(河南)の長官をいう。

 また、同じ泰山の人に胡母班こぼはんあざな季皮きひという者がいた。こちらは清流派「八厨はっちゅう」の一人で、〝海内かいだい珍奇ちんき胡母季皮〟の評があり、官僚の非法を察挙する侍御史じぎょしの官職にあった。

 二人は第一次党錮の際に罷免ひめんされ、蔡邕と蔡質が劉郃に無実を訴えたことがあった。劉郃がそれを取り上げなかったので、邕と質が劉郃を恨んでいる――――程璜がそんな虚実の上奏を行った。

 劉郃が蔡邕らをうとましく思う。陽球には蔡邕の密書の内容が伝わった。

 実は陽球は蔡邕が書状の中で弾劾した程璜の娘を妻にしていた。ありもしないことを蔡邕が言い立て、我等を陥れようとしていると程璜が陽球に訴える。陽球が蔡邕を劾奏する。清流派党人と繋がりがある蔡氏を、濁流派宦官たちが一斉に悪いのは蔡邕だと援護射撃する。暗愚な皇帝はそれを真に受ける――――。

 組織的な蔡邕外しである。結局、真実を訴えたはずの蔡邕が有罪となって、叔父の蔡質ともども投獄されてしまった。それから間もなくして、老齢だった蔡質が獄中で亡くなった。

 母とともに主のいなくなった屋敷に残され、悲嘆に暮れる蔡蓮さいれん劉備りゅうびしきりになぐさめていた。今も劉備は蔡蓮に優しい言葉を投げかける。

智侯ちこう先生をお慕いする人は多い。今も盧先生たちが智侯先生の無罪を強く訴えているそうですから、間もなく解放されるはずです。吉報を待ちましょう」

「そうだと良いのですが……叔父上のようなことになったら、私……」

「そんなことにはなりません。さぁ、涙をいて……」

 そのやり取りを横目に見ながら、盧植が呟く。

「口惜しいの。数多あまたの賢人たちが同じ見解を述べておるのに……」

 昔から何度もこのような理不尽が繰り返されている。蔡邕にも忠告して注意を促していたつもりだったが、結局こんな展開になってしまった。

 清流派官僚である蔡邕が送られたのは、宦官が支配するあの陰謀の牢獄、黄門こうもん北寺獄ほくじごくであった。もちろん、そこには宦官たちの恣意しい的な根回しと悪謀がある。

 この日の蔡邕邸には曹操もやってきていて、盧植と会話を交わしていた。

 起こってしまったものは仕方がない。曹操は盧植の言葉を半分聞き流して、清流派官僚たちが行っている蔡智侯放免運動の経緯を聞いた。

「本日判決が下されるのでしたね。何か進展はありましたか?」

 さすがに朱震しゅしんを助け出したのと同じ策は使えない。曹操は王甫との対決が過熱する中、その対策と情報収集に神経を集中させていて、蔡邕救出の方策は他の清流派官僚に任せていたのである。

「陛下が一番耳を貸すのは宦者かんじゃじゃからの。今は漢盛かんせいが頑張ってくれておる」

 正義派宦官の呂強りょきょうが蔡邕の弁護に尽くしていたが、なかなか皇帝の怒りは冷めない。蓋升という人物は皇帝のお気に入りで、それが非難されたのが逆鱗げきりんに触れたのである。

 曹操を認めたあの橋玄も、かつて蓋升の収賄しゅうわいの事実を調べ上げて劾奏したことがあったが、その時も皇帝は蓋升をかばい、罪を問わなかった。

「妖異が女関係のものとするのはよいですが、それに付け込み蓋升らを糾弾するのは陛下の寵愛する者をそしって、暗に陛下を中傷する気持ちがあるのですよ。蔡邕は先の鮮卑せんぴ討伐には反対しておりました。聞くところによると、陛下が自分の言う通りにされなかったから、敗北を招いたのだと尊大に振る舞っておるようです」

 王甫の言葉巧みなささやきが大きな成果を挙げていた。呂強がしつこく弁護し、

「言葉が過ぎた面はあるかもしれませんが、蔡邕は石経せきけい建立こんりゅうの事業にも貢献しております。これを頓挫とんざさせぬためにも、何卒なにとぞ寛大なご処置を……」

「いえ、陛下を中傷するなど不遜極まりない。万死ばんしに値します」

「しかし、あのような稀代きだいの名書家を殺すのは惜しいではありませんか」

 書芸を愛好する皇帝の心に訴えて、それで何とか死刑はまぬがれたものの、蔡邕は家族もろとも朔方さくほう郡へ流されることが決まった。朔方郡とは広大な幷州へいしゅうの北の果て、北方の僻地へきち、人もまばらな幽寂ゆうじゃくの地である。

 それを知らせに来たのが、同僚の馬日磾だった。

「良い知らせと言うべきか、悪い知らせと言うべきか……」

 馬日磾は少し口籠くちごもりながら、蔡邕流刑の判決を知らせた。それを聞いた盧植が眉間みけんしわを寄せてうなった。

「何と言う因縁じゃ。我が師・馬融も濁流にそしられ、朔方に流されたことがあった。我が朋友とももか……」

「その時は恩赦で許された。此度もそうなろう」

 馬融の甥にあたる馬日磾が言った。今の皇帝は恩赦令を頻発する。

「楽観的になるのはまだ早い。濁流派はその前に刺客を送るかもしれません」

 曹操が冷静に忠告した。

「……あり得るな。いや、確かに危険じゃ」

「私の家は外戚の宋氏と姻戚です。幸い今の幷州刺史しし宋仲乙そうちゅういつといって、義に厚く、郭林宗かくりんそう薫陶くんとうを受けた宋氏の者ですから、事情を話せば、護衛の兵をよこしてくれるかもしれません」

「おお、それはよい」

 曹操の提案に馬日磾も盧植も喜んだ。

 宋果そうかあざなを仲乙といった。もともと命知らずの荒くれ者で、人のためにあだ討ちをするなどして義侠ぎきょうを売っていたが、期するところあって心を入れ替え、官吏としての評判はよかった。その宋果に物事の正しい道理を教え、その人となりを評価したのが郭林宗である。

 郭泰かくたいあざな林宗は幷州の太原たいげん界休かいきゅう県の人で、身長は八尺(約一八四センチ)、顔容かんばせうるわしく、声も美しかった。古典に通じ、弁論によく、孝行を尽くし、特に人物鑑定の卓越した才能を有していて、人倫鑑定の慧眼けいがんで郭林宗に及ぶ者は天下に無し、と絶賛された。

 郭泰は太学で学び、三万余りの学生の中でも最良と称えられ、清流派「八俊」の李膺りよう友誼ゆうぎを結んだ。そして、郭泰は清流派「八顧」の一人に数えられるようになる。その七言評は〝天下和雍わよう郭林宗〟。〝和〟も〝雍〟もなごやかという意味がある。

 ルックスが良く、頭脳明晰めいせき、性格は穏やかで、人望もある。こうなると、ちょっとしたアイドルだ。彼の下に人が集まる。その声望は絶大となって、ある雨の日、郭泰がかぶっていた頭巾が雨に打たれてくぼんでしまったことがあった。それを見た人がその様子を真似まねて、わざと帽子の一角を折り曲げ、〝林宗巾りんそうきん〟と言って歩いたところ、それが民衆の間で一大ブームになった。この故事が「折角せっかく」という言葉の所以ゆえんである。

 同じ八顧の一人である范滂はんぼうは、ある者に郭泰がどんな人物かと尋ねられ、

「――――隠るるも親をさらず、ただしきも俗を絶たず。天子も臣とすることを得ず、諸侯も友とすることを得ず」

 そう答えたという。隠者だが親との縁を絶たず、貞潔ていけつな生活を守っているが、世間との交わりは絶たない。かの者は皇帝であろうと諸侯であろうと、決して自分のものにはできない――――。

 ずっと在野にあって、千人もの弟子を教え、危うい議論をしなかったので、党錮が起こって多くの清流人が罪に問われる中、郭泰と袁閎えんこうだけが難を逃れることができた。

 郭泰は孤高なる清流の士として在野にありながら、天下が正されるのを強く願っていた。ゆえ竇武とうぶ陳蕃ちんばんが死ぬと、慟哭どうこくして言った。

「――――あのような立派な方々が亡くなられてしまっては、この国は終わりである」

 翌年、郭泰も死んだ。竇武・陳蕃にじゅんじて自殺したのだとも、濁流派に毒殺されたのだとも、多くの噂が飛び交った。葬儀には全国から千人以上が集まり、蔡邕が顕彰碑けんしょうひ誄文るいぶんを作った。誄は生前の功績を称え、その死をいたむ文章をいう。

「――――これまでたくさんの碑文を作ってきたが、皆何かしら徳に恥じるところがあったものだ。ただ唯一、郭林宗には恥じるべきところが全くない」

 蔡邕がそう盧植に呟いた。それを聞いて、盧植も涙を浮かべて天を仰いだものだった。

「この難時に幷州の刺史が林宗公に認められた者とは……。この幸運は林宗公からの贈り物じゃの」

 盧植がまた天を仰いだ。郭泰が評価した者は全て心根こころねが清く有能な者ばかりだった。

「それでも万全とは言えません。時期を待ち、宋幷州とはかって、智侯の身柄を奪い隠すのが最良だと思います」

「それを主導するのに、誰かよい者はおるか?」

 曹操が夏侯惇かこうとんの名を挙げる前に、謀議の場に戻ってきていた劉備が立ち上がった。


 十月。宋皇后が廃され、外戚の宋一族が誅殺ちゅうさつされた。

 宋皇后が皇帝を呪い殺そうと左道をろうした証拠が見つかったという。数々の妖異が示す女難じょなんきざしを勘違いした皇帝はその報告を受けて、寵愛をかけていなかった皇后が自分に恨みを抱き、犯行に及んだのだと信じ込んだ。

 皇帝への反逆は一族誅滅ちゅうめつの大罪である。宋酆そうほう宋奇そうき・宋果はとらわれて殺され、宋皇后は幽閉されて、憂悶ゆうもんのうちに死んだ。悲痛のあまり、食を断って自ら命を絶ったという。

 世間の人々は真の理由を知るはずもなく、陰謀に散った宋一族を誹謗ひぼうした。

 バリッ!

 目の前に飛び出ている邪魔な枝木を倚天いてんの剣で斬り落とす。

「王甫め……!」

 曹操は王甫の陰謀だと確信して、静かな怒りに震えた。

 全て嘘っぱちだ。王甫が全てをでっち上げたのだ。宦官以外後宮のことに手出しできないのをいいことに、左道(呪術)の証拠を捏造ねつぞうしたのだ。

 王甫の狙いは宋皇后にあった。かつて王甫が葬った渤海王・劉悝りゅうかい。そのきさきが宋氏だった。宋皇后の叔母にあたる。

 王甫は渤海王を殺すにあたって、事前に手を打った。罪名は皇帝に対する謀反であるから、当然一族誅滅である。渤海王には子がいたので、その子も、その母である宋妃も殺さなければならない。現皇帝が元服する時、皇后に宋酆の娘である宋貴人が立てられたが、これには王甫の口添えがあった。

 王妃よりは皇后の方がランクが高い。外戚となって更なる栄達も可能だ。

 事を起こす前に宋氏に恩を売ったわけだ。渤海王誅殺事件の一年前のことである。

 敵への罠を仕掛け、自身への防衛策を講じ、万全を期して渤海王を誅殺したのである。宋妃も一緒に殺されたが、事前に恩を売ったお陰で、仕方がない仕置きだったと宋氏に納得させることができた。宋皇后が立っている間は宋氏からの恨みを消すことができる。

 一件落着して一安心した王甫であったが、その前に突然、曹操という新しい敵が現れた。曹氏と宋氏は姻戚関係にある。渤海王事件のことまでぎつけた。

 曹操の口から事件の黒幕が王甫だと伝えられたら、宋皇后という盾が失われ、宋一族の恨みの剣が一斉に自分に向けられることになる。この由々ゆゆしき事態に、ついに王甫は皇后の廃立を画策する。

 渤海王の時と同じように、巧妙に罠を仕掛け、皇帝を味方につける自衛策を講じた上で大鉈おおなたを振るう。不安の種である宋氏一党を誅殺できるし、その姻戚である曹氏一族も排斥できる……。

 宋氏と姻戚関係にある曹操は議郎の官職を罷免された。

「だが、オレは生きているぞ……!」

 都を離れ、馬上の人となった曹操は天に叫んだ。心の中に抑え込んでいたいきどおりを一瞬のうちに暴発させ、復讐ふくしゅうの炎を点火させた。

『このオレを自由にさせたのはお前の失策だ。命取りになる大失策だ……!』

 悪賊王甫、許すまじ――――荒々しく馬を疾駆しっくさせながら、心の中でもう一度叫んだ。

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三国夢幻演義 清濁抗争篇 第四章 内憂外患 光月ユリシ @ulysse

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