翌日の朝。塩野彰がいるのはいつもの控え室ではなく、地下のゴミ収集所であった。ゴミ問題が厳しい現代では、回収車にゴミを渡す前に、しっかりと分別をする必要があり……ホテル内の収集所は、その分別を行う場所であった。燃やせるゴミと燃やせないゴミ、それに各種資源ゴミ。ホテル内のゴミ箱はきちんと分別できるよう分けられているが、我が儘な客がそれを守ることはほとんどなく……結局ホテルの清掃員が、この収集所で区分けしなければいけないのだった。

「……ったく、まさか三ヶ野が、ほんとに社長に我が儘を通せるような立場だとはな」

 燃やせるゴミの中に放り込まれていた空き缶を取り出すと、残っていた中身が足下に滴り落ちた。広がる甘ったるい臭いに彰はため息をつく。昨日、虎夫にさぼり扱いをされた彰は、清掃第一班の班長職を解かれ、代わりに地下のゴミ収集所勤務となったのだ。もちろん、いくらなんでも昨日の一件だけで降格処分にはならないだろう。恐らく初日からずっと、虎夫は社長にあることないこと吹き込んでいたのだ。いや、ひょっとしたら入社したときからそうだったのかもしれない。それなら、彰がずっと出世とは無縁だったのも説明がつく。

(ま、別にいいけどよ)

 手にした空き缶を回収箱に投げ入れ、他に余計なものが入っていないことを確認してから袋の口を縛る。最低限生活に必要な給料をもらえるのなら、彰はどこで働こうが構わなかった。楽ならそれに越したことはないが、進んで楽しようとも思わない。一生懸命とはほど遠いが、後ろ指をさされない程度には手を抜かず働く。それが彰の仕事に対するスタンスだった。そんな彰にとってみれば、部下への指示を考えないで済む分、むしろゴミ収集所の方が働きやすいとすら思えた。自分がプールで女を口説こうとしていたことを棚に上げて、彰をサボり扱いした虎夫に思うところがないわけではないが、

(それも怒るほどのことじゃないさ)

 肩をすくめ、そう思う。

「あっ……えっと、その……し、塩野さん、お疲れ様です……」

 と、ゴミを積んだ台車を運んできた男が、気まずそうに彰に向かって頭を下げた。顔を見て、名前を思い出す。清掃第一班の雨宮暦だ。三十路手前の男で、アルバイトの中ではかなり真面目な性格をしていた。突然の彰の降格に、どうやら戸惑っているようだ。

「ああ、お疲れさん」

 彰は気楽そうに笑ってみせ、片手を軽く振った。それでも暦の表情は複雑なままだ。

(そういや……残った島崎たちの方は、少し心配ではあるな……)

 彰が抜ければ、清掃第一班は五人だけになる。班長は島崎大介に任せれば問題ないだろうと思うが……たった五人で仕事を回すのはいくら何でも無理だ。清掃班全体の構成を見直すなり、または外部に委託することを考えるなり、何かしらの対策が必要な事態であるが……「ひっ!」……今のこの会社が、そこまできちんと考えてくれるものだろうか?

「あとで島崎にメールでも送るか」

 何ができるわけでもないが、状況ぐらいは聞いてやれるだろう。そう思いながら、近づいてきた台車を受け止めて、

「……っ……雨宮?」

 いつの間にか暦の姿が消えていることに気づき、彰はその名前を呼んでいた。もう収集所から出て行ったのだろうかと思い……それはおかしいと考え直す。真面目な性格の暦が、台車を押しやるような真似をして、それで挨拶もせずに出て行くとは思えなかった。

 彰は唾を飲み込み、周囲に視線を彷徨わせる。山のように積まれた分別前のゴミ袋と、整理して箱に収められた分別後のゴミ袋。壁際には運搬用の台車が見える。右手の方向には、地下の車道へと出られる両開きの扉があり、左手の方向にはホテル内へと続くドアがあった。その両方が閉じられている。暦が入ってきてから、どちらかが開いたような音はしなかったはずだ。

「……」

 ふと、ホテルに来なくなった清掃第一班の班員のことが脳裏をよぎった。ほとんどは普通に辞めていった。だが何人かは突然姿を消し、そして今も連絡がつかないままだ。彼らは今、どこにいるのだろう? それに、行方不明のままのトラックドライバーも。彼もいったいどこに行ったというのか。仕事から、または起こした事故から、彼らはほんとに逃げ出しただけなのだろうか? ずっと感じていた違和感。もしかしたら、逃げ出したのではなく、何かの事件に巻き込まれたとしたら……。

 台車の取っ手を掴み、それを押しながら、彰は車道に続く扉へと向かった。天井の通風口の音が嫌にうるさく感じられる。

「ここはアメリカじゃねぇんだぞ……」

 ここは日本だ。凶悪事件の件数はずっと横ばいで、テロだって起きておらず、サメ被害の数だって少ない。そんな日本のホテルで、

「いったい何が――」

 ――起きるっていうんだ。その言葉を、彰は最後まで言うことはできなかった。突然扉が開き、同時に強い力で体を引っ張られたからだ。

「――!」

 その場に踏ん張る余裕もなく、体が車道に引っ張り出される。それでも、彰は咄嗟に台車の上のゴミ袋を掴むと、叩きつけるような勢いで背後に放り投げていた。

「くっ!」

 女の驚いたような声が聞こえ、一瞬力が緩んだのがわかった。その瞬間を見逃さず、彰は肩を掴んでいた相手に右手を伸ばし、

「ぐあっ!」

 体が一回転し、車道に叩きつけられたのは彰の方だった。そのまま背中を押さえつけられ、身動きがとれなくなってしまう。苦しい姿勢のまま、彰は顔を背中の方に向けた。

「……って、あんたは!」

 瞳に映った顔は、あのスーツ姿の金髪女だった。鋭い目つきはそのままに、だがどこか困ったような様子が微かに窺える。異常な再会に彰は目を見張り……聞こえてきた複数の足音が、また彰を驚かせていた。今ここにいるのは自分と女だけではない。いくつもの足音が響き、扉が開く音も聞こえてきた。

「お、おい! いったい何を……くっ!」

「すまないが、しばらく大人しくしていてもらおう」

 背中に回された腕に力が込められ、痛みに彰は呻いていた。女は恐らく専門の訓練を受けているのだろう。体力にはそれなりに自信があっても、あくまで素人の自分では勝ち目がないことを、彰は悟っていた。

 路面と女の顔しか見られない彰の耳に、収集所の扉越しに音が届く。走り回る靴音。ゴミ袋が崩れ、台車がひっくり返る音。更に銃声らしき音に、何かが壁にぶつかる音、人の悪態に悲鳴……そして、

「…………ァァァァァク!」

 何かの衝撃で扉が僅かに開き、その隙間から凄まじい雄叫びが聞こえてきた。周囲の空気ばかりか、彰の肌まで震わすような雄叫びだ。あまりのことに彰は息を呑み、

「お、おい! 今のは何だ、おい!」

 女の下で藻掻きながら、怒鳴るようにそう聞いていた。それに対し、女は何も答えようとはしない。だが、彰の腕を掴む手に力がこもったのがわかった。それは彰を黙らせるための力ではなかった。女が緊張と恐怖から、彰の腕を強く握ってしまったのだ。女の手の震えが、そのことを彰に伝えてきていた。

「いったい何なんだ……」

 呻くように彰は呟く。そうして……いつの間にか、収集所の中が静かになっていることに気がついた。女もそのことに気がついたのだろうか……微かに身動ぎをしていた。それと同時に、女の側から誰かが扉に近寄っていくのがわかった。地面に押さえつけられている彰には見えなかったが、収集所には入らず、女の側に控えていた者がいたらしい。

 足音が小さく響き、扉が僅かに動く音が聞こえ、

「……失敗ですな」

「くそっ!」

 どこか愉快そうな男の声と、女の悪態が彰の耳に届いた。

 いったいこの場で何が起きているのか、動けない彰にはまるでわからない。だが、何か尋常ではないことが起きていることだけは理解できた。

(くそ……どうする……?)

 自分は女に押さえつけられ、動くこともできない。上着の内ポケットに入れたスマートフォンを取り出すことも無理だろう。声を張り上げたところで、都合良く誰かに届くとも思えなかった。

(そもそも、こいつらは俺をどうするつもりだ?)

 静かになった収集所と、さっきの男の言葉から、何かの事態が一先ず終わったことはわかる。だとすれば、彼らもここを立ち去るはずだが……大人しく自分を解放してくれるだろうか?

「……で、その方はどうされるおつもりでぇ?」

 そんな彰の疑問に反応したかのように、男が口を開いた。人を小馬鹿にしたような口調。女の方ほど日本語に慣れていないのか、語尾に不自然なイントネーションが感じられた。

「……決まっている」

 そう言いながら、女が彰の上で動く。動作の感じから、懐から何かを取り出したのがわかった。

(……まさか!)

 最悪の展開を想像して、彰は全身を強ばらせた。女のあの殺気も同時に思い出してしまう。あの殺気は、「最悪の展開」の殺気だ。

(くっ……くそ!)

 さすがに怯え、慌てて藻掻く。そんな彰を女は押さえつけ、

「……今の出来事は、すべて忘れておけ」

「……お優しいことでぇ」

 首に何かが当たると同時に、鋭い衝撃が全身を襲っていた。彰がその意識を手放すまでは……一瞬だった。


「……さん! ……大丈夫っすか、塩野さん!」

 誰かに体を揺さぶられ、彰は目を覚ました。うめき声を上げながら体を起こそうとし、

「うっ……つうっ……!」

 首に激しい痛みを感じ、体を震わせる。

「大丈夫っすか?」

「あ……ああ、なんとかな……」

 痛む首に手を当てながら、ようやくの思いで上半身を起こし、その場に座り込む。恐らく、スタンガンか何かで気絶させられたのだろう。命を奪われずには済んだが、それでも手荒い扱いだ。顔をしかめながら横を見上げると、心配げにこちらを見下ろしている大介が見えた。

「……お前、何でここに?」

「へ? ……いや、雨宮さんと連絡とれないから、あちこち探してたんすけど……ここに来たら、車道でぶっ倒れてる塩野さん見つけて……」

「……そうだ、雨宮は!」

 大介の言葉に暦のことを思い出し、彰はふらつく体を叱咤して 立ち上がった。そのまま短い距離を駆け、収集所の扉を押し開ける。瞳に映ったのは、山のように積まれた分別前のゴミ袋と、整理して箱に収められた分別後のゴミ袋。壁際には運搬用の台車があり、扉の向かい側にはホテルの建物に入るためのドアが見える。あの女に車道に引っ張り出される寸前と変わらない光景がそこにあり……そして暦の姿もまた、消えたままであった。

 暦が消え、あの女たちがいた痕跡は何も無く、ただゴミだけがそこには残されていた。

「……島崎、今、何時だ?」

「何時って……正午を回ったあたりっすけど?」

 大介の返答に、彰は低い声で唸った。自分が気絶してから、四時間以上経っていることになる。通常なら、その間に誰かに見つかり、介抱されるなり何なりしているはずだ。それがずっと、大介が来るまで車道に放置されていたということは、

(その間、誰もここには近づけさせなかったってことだ)

 収集所内で起きた出来事の痕跡を消すためであろう。あの女たちは、それができるだけの人員をそろえているということだ。

(いったい何なんだ、あいつらは……)

 消えた暦。他にも連絡がつかなくなっているアルバイト。先日、地下駐車場で見つかったトラックのドライバーも行方知れずのままだ。今までは少しの違和感だったものが、いつの間にか数を増やし……突然不気味な事件として彰の前に現れていた。

 そして、

『…………ァァァァァク!』

(あの雄叫びだ)

 尋常ではない何かがこのホテルで起きていることは、確かであった。

「塩野さん、いったいどうしたんすか?」

 立ち尽くす彰に向かって、大介がそう聞いてくる。彰の様子を感じ取ってか、大介の声にも珍しく不安げな震えが感じられた。そんな大介に対し、

「……俺が聞きてぇ」

 彰は、そう答えることしかできなかった。

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