その朝、いつものように大あくびをしながら塩野彰は控え室の中心に顔を向け、

「なんだ、また減ったのか」

 並んだ男たちの少なさに、思わずそう言っていた。初日は彰を除いて十人以上いたはずの清掃第一班。だが、ホテルの正式オープン日まであと数日となった今、その数は五人にまで減っていた。うち正社員は島崎大介ただ一人。残りの四人は臨時募集で集めたアルバイトである。

「ほんと減ったっすよね。まぁ、辞めたくなる気持ちもわかるっすけど」

 嘆息混じりに大介がそう言えば、

「超絶ブラックですからね、ここ」

「俺も辞めてぇ」

「辞めるのは個人の自由ですけど、でもいきなりというのはいくらなんでも無責任では?」

「つか、この人数で回すの、もう無理ゲーじゃね?」

 他の四人も口々に不満や文句を言い始める。その様子を眺めながら、彰は片手で後頭部をかいていた。

(……ったく、ほんとろくでもない職場だな、ここは)

 誰の目から見ても、このホテルの労働環境は悪く、そしてスタッフの数も足りていなかった。少ない人数に無理をさせるから、それを嫌って人が辞め、残った人間に余計無理をさせるから、また更に人が逃げていく……完全な悪循環であった。アルバイトや臨時社員の募集も続けてはいるが、それも焼け石に水の状態であり、無理な採用が祟ってスタッフの質まで下がっていく有様だ。

(こんなんで正式オープンなんかしたら、どんな事故が起きてもおかしくねぇぞ)

 先日、事故車両が地下駐車場で見つかった、なんてことが既に起きているのだ。そんな事故が、もしプールなどで起きたら……最悪、人の命が失われる恐れだってある。

(なに考えてんだかなぁ、あの社長は……)

 式典で見た坂田金治郎の姿を思い出し、彰はため息をついた。自分の見栄とホテルの利益以外考えていないであろう男。ホテルの従業員はおろか、お客の安全だってないがしろにしかねなかった。

「で、今日はどうするっすか? この人数じゃ、とても全部は無理っすけど?」

 大介に問われ、彰は天井を見上げてしばし考える。清掃第一班の持ち場は広く、六人ですべてを完璧に、というのはいくらなんでも不可能だ。

「お客の安全が第一だ。プール周辺に重点を置いてやってくれ。スタッフルームなんかは今日は放っておいてもいい。あと、売店のゴミの回収だけはまめにな。お客のクレームさえ抑えておけば、まぁ何とかなるだろ」

 考えをまとめ、彰は班員にそう命じた。それを聞いて、「了解っす」と言って大介が控え室を出て行く。他の班員も、そのすぐ後に続いていった。

 それを見送り、自身も清掃用具に手を伸ばしながら……彰は来なくなった班員たちのことを考えた。ほとんどの者は辞めるにあたり、急ではあっても彰に電話ぐらいはしてきている。だが何人かは連絡の一つもなく、突然仕事に来なくなっていた。人事部には連絡しているが、その後の報告は聞かされていない。ろくに連絡も寄越さず辞めていく人間など珍しくもないが……だがその数の多さに、彰は不自然なものを感じていた。

(地下で見つかったトラックのドライバーも行方知れずだっていうしな)

 変な事故など起きていなければいいのだが……そう思いながら彰は控え室を出て、

「――っと、失礼しました」

 誰かにぶつかりそうになり、慌てて体を捻っていた。もつれかかった足を動かして人影から距離を取り……その人物の姿に目を見張った。

 美人の外国人であった。身長は彰と同じぐらいで、一七〇センチ近くはあるだろう。恐ろしいほどに姿勢がよく、ただ立っているだけなのに妙な威圧感を受けてしまう。切れ長の瞳は鋭く、シニヨンにまとめた金髪と隙の無いスーツ姿はまるで武装のようで……

(……って、この女!)

 その女は、数日前プールで見かけたあの女だった。虎夫を追い払ったあの殺気を思い出し、彰の体は一瞬硬直するが、

「〈失礼、お客様。ここはスタッフ控え室でして、一般のお客様には立ち入りをご遠慮頂いているのですが〉」

 相手がお客様であることを思い出し、すぐに姿勢を正す。口からは自然と英語が出ていた。

「それは失礼した。どうも迷い込んでしまったようだ……ああ、日本語で結構だ。これでも日本は長いのでな」

 にこりともせずに、女は流暢な日本語でそう言った。口では謝罪をしているが、申し訳なさそうにしている様子は少しもなく……まるで周囲を観察するかのように、瞳だけを素早く動かしていた。

「さようでしたか。ご不便をおかけしてしまい、申し訳ございません。外までご案内致しますので、どうぞこちらへ」

「……そうか。すまないが頼むとしよう」

 彰が歩き始めると、女は素直に後をついてきた。逆らう様子はなく、不審な動きをしているわけでもない。だというに、なぜか彰は緊張を解くことができなかった。油断したら襲われてしまうのではないか、そんなことすら考えてしまう。あのときの殺気を彰の体が覚えているからだろうか?

(猛獣と一緒にいるような気分だな)

 汗をかきながら廊下を歩き、

「どうぞ、この廊下を真っ直ぐ行けば、フロントに着きますので」

 スタッフ専用口の扉を開き、先の廊下を指し示した。

「ああ、助かったよ。ありがとう、礼を言う」

 明らかにありがたくない口調で女が言い、彰に背を向け廊下を歩いて行く。途端どっと疲れに襲われて、彰は壁に寄りかかっていた。

「ほんと何なんだ、あの女は?」

 思わずそう呟いてしまう。このホテルには大勢の外国人も泊まっている。だが今の女の雰囲気は、普通の観光客とはまるで違うものだった。それに、

「そもそも、どうやってここに入った?」

 スタッフ専用口の扉を外から開けるには、社員専用のカードキーが必要なはずだった。資材搬入のため開け放しにされることもあり、スタッフも人の出入りに気を配っているとは言えないが……普通の客が迷い込むことなどそうそうあることではなかった。

「警備スタッフに報告しておくべきか?」

 初めて見たときからおかしな女だとは思っていた。プールにも入らず水面を睨み、スタッフしか入れないはずの控え室前に突然現れ……どうにもまともな客とは思えない。杞憂かもしれないが、報告しておいて損はないだろう。彰がそう思った矢先、

「おい、塩野! なにこんなところでさぼってんだよ!」

 廊下の先に現れた虎夫が、足早に近づいてきていた。また厄介なヤツに絡まれると思い、彰は黙って天井を見上げた。


『なぁ、塩野よぉ。同期のよしみで大目に見てきたがなぁ……真面目に働けねぇっていうなら、俺にだって考えがあるんだぜ』

『別にサボってたわけじゃねぇよ。迷っていたお客様を案内していただけだ』

『はっ、どうだかなぁ。案内にかこつけて口説いてたように俺には見えたがなぁ』

『あのなぁ、三ヶ野……』

 頭上で交わされる男二人の会話を、それは聞いていた。顔を上に向ける。自分からその二人までの距離はすぐだ。全力を出せば、どうにか二人まとめて捕まえられるだろう。だが、

『ふわぁ……あー、眠いなぁ……』

『ちょっとぉ、しっかりしてよねぇ』

 別の声が近づいてくるのを、それは感じ取っていた。上を行き交う声はそればかりではない。すごくたくさんの声が、近寄っては離れ、遠ざかってはまた別のものがやってくる。それに加えて、

『…………』

 先ほど感じた強い気配が、まだ近くに佇んでいた。一体だけだが強い気配だ。あの二人を襲えば……強い一体はすぐに戻ってくるだろう。それにあわせて、他の気配もやってくるかもしれない。その全部を相手にするだけの力は、今の自分にはなかった。

「…………ァァァァァク……」

 息を吐き出し……それは下に戻ることを決めた。まだ足りない。あいつらすべてを相手にするにはまだ……こいつが満足するまで、まだまだまだ……。


「……反応、地下に戻っていきます。軍曹殿を警戒してのことでしょうか?」

「だろうねぇ。さすがの感知力だ。やはり、あれはいいモノだなぁ」

 軍服を脱ぎながら、上機嫌で男は言った。部下の報告を聞き、自然と気分が高揚してくる。自ら追いかけてきた甲斐があったと、嬉しくなってきてしまう。

「……で、我等が軍曹殿の方は?」

「プールの客の数や、従業員の様子を確認されているようです」

「う~ん、さすが真面目なことだ。ほんとに感心してしまうねぇ」

 小馬鹿にした口調でそう言いながら、男は薄手のジャケットを羽織った。今の男の姿は、一見するとクールビズのビジネスマン風である。だがその粘っこい目つきが、男がそんな普通の存在ではないことを告げていた。

「それじゃ、軍曹殿と合流するとしますかぁ。君たちは引き続き、ここで監視を頼むよ」

「はっ、行ってらっしゃいませ!」

 部下に見送られ、男は車の外に出た。特殊な機器を山のように積んだその車は、外から見ると、どこにでもある普通のワゴン車のようであった。そのドアを後ろ手に閉め、男は鼻歌交じりに、とても楽しげな足取りでホテルへと向かっていった。

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