第21話 虎人族タチアナと涙の季節

やられたらやり返されると古事記にもそう書いてある。

セクハラとはそういうものだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――


この時期のラ・ヴィンセルには毎年必ずと言っていいほど流行る一つの症状がある。

くしゃみ、鼻水、目のかゆみ、酷いものだと頭痛も併発する、この国の負の遺産の一つだ。


その経緯は数百年前の建国初期にまで遡る。

建国初期のあまりの木材消費量に懸念を抱いた国は、より成長の早い木材に利用可能な植物のに着手した。

それらは実を結び、いくつもの優れた品種が世に送り出され数百年たった今もなお国民の生活を支えている。

だがその中にはどうしようもなく悪さをする種類が存在する。

品種番号A-1377YT、通称・杉の木。

それらが撒き散らす花粉によって引き起こされるアレルギーの過剰反応。

つまりは花粉症である。


 

◆ー〇ー◆



「うあー…」

「目が真っ赤だよ、大丈夫タチアナさん?」

「クッソかゆい」


この季節は本当につらいんだよな。

毎年毎年花粉をまき散らしやがってクソ杉め。

折角のヘンリー坊との鍛錬だって言うのに、教師役の私がこれじゃあ訓練にならねえじゃねえか。

この状況だと万が一で危ないからアヤメは向こうで自主練している。

すまねえな。


「そっか、花粉症かあ」

「まあ毎年のことだしな。


花粉症の金持ち連中がギルドに杉抹殺依頼をかけてるだろうし、そのうちこの周辺のクソ杉どもは姿を消すだろうからもうしばらくの辛抱だ

魔術的に改良しまくったのは分かるんだが、何なんだよあの頭おかしい生命力は。

数百年かけても根絶しきれねえなんてマジで意味が分からない。


乾燥させねえと全然燃えねえし、数か月でめちゃくちゃ数が増えるし、全然病気にかからない。

こいつら特攻の枯れ葉菌なんてものも発明されたそうだが、効果があったのは最初だけでいつのまにか克服しやがったそうだ。

結局は人海戦術で目につく範囲を刈り尽くすのが一番効果的ということになり、この時期はそういう依頼でギルドは忙しなく動いているだろう。


あー、目がかゆい。


「擦っちゃダメだよ、薬は処方してもらったの?」

「マリナから経口薬と点鼻薬と目薬を貰ったんだが…」

「効かなかったの?」

「いや…そうじゃなくてな」


歯切れの悪いあたしに、不審に思った坊がにじり寄ってくる。

そんな目で見ないでくれ。

坊の視線に耐えきれなくなったあたしは、ぼそぼそと口を開いた。


「その、苦手なんだよ」

「うん」

「目薬を入れるの」


口に出すとめちゃくちゃ恥ずかしい。

いい年して目薬が怖いんですとか情けない。

でもどうにも苦手なんだよアレ。

眼球に当たる前に反射的に避けちまうんだ。

おかげで今も目が充血してかゆみが止まらない。


ヘンリー坊はアタシの真っ赤な目を見て、少し考えた後あたしの手を取った。

ちょっとびっくりしたじゃねえか

何の前触れもなしにそういうことされると心臓が跳ねるだろ。


「その目薬は今も持ってるの?」

「い、いや、部屋に置いてあるけど…」

「じゃあタチアナさんの部屋に行こっか」


そう言って坊は固まったままで動かないあたしの手をくいくいと引っ張った。


「目薬入れるのを手伝ってあげる」



◆ー〇ー◆



あたしの部屋はラインバッハ家の他の部屋とそう大差はない。

用意してくれた家具や調度品はそのまま使わせてもらっているし、部屋にあれこれ手を加える方ではない。

精々が傭兵時代の武器防具を部屋の隅にいくつか飾っているくらいだ。

だからおかしなものなんてないはずだ。

メイドたちが掃除してくれているおかげで部屋も綺麗な状態で保たれている。

だから心配なんて何もない筈なんだが、ヘンリー坊を入れるとなると緊張して仕方がない。

そわそわと落ち着かないあたしを絨毯に座らせると、ヘンリー坊は目薬を手に取ってあたしの背後に立った。


「じゃあ行くよ。上を向いて」


あたしは首を反るように上を向くと、頭頂部が坊のお腹に触れた。

顎下に坊の手が添えられて軽く固定される。

そのまま残った方の手で目薬を構えて――


「あっ」

「……すまん」


ふいっ、と反射的に首を捻じってしまった。

当然目薬は目に入らない。


「もう一回、上を向いて」


ふいっ


「もう一回」


ふいっ


「…もう一回」


4回目も避けてしまった。

思わず目を逸らすあたしに、坊はため息をつくと背後のソファーの端に腰を下ろす。

マジでどうしようもないんだよ。

わざとじゃないんだよ坊、信じてくれ。

あたしを見捨てないでくれ。


あわあわと慌てる私を見て、坊は膝をぽんぽんと叩いた。

その様子に、そのシチュエーションに、あたしの脳内に電流が走る。

まるで誰かが寝っ転がることを想定したようにソファーの端に座る坊の姿。

そして膝ぽんぽん。

これはまさか…!

夢にまで見た膝枕というやつではないのか!?


「おいで」


……っは!?

あたしとしたことは頭が真っ白になっていた。

いかんぞヘンリー坊。

そういうことを軽々とするようじゃ、いつか女から酷い目に遭わせられるぞ。

まあそんなことはこのあたしがさせねえんだけどな。

というかまるで横になっているような感触が背中から感じる。

それとやけに後頭部が柔らかくてあったけえ。

不思議に思って見上げると視界のほとんどをヘンリーの顔が占めていた。


……え?

いつの間にかあたしはソファーに寝っ転がって、頭を坊の膝にのせていた。

本当に記憶がない。

あたしの体が無自覚のままに坊の膝枕を求めていたというのか。

求めてるに決まってんだろ。

いつだって熱望してるわ。

夢にまで見た膝枕だ。

興奮してきた。

いや興奮してんじゃねえよボケナスがよ。

落ち着けあたし、この状況は人に見られたら言い訳が出来ない。

あのドラゴン女でさえクラウディア様にめちゃくちゃ詰められたんだから、雇われている身のあたしでは何をされるのかちょっと想像もつかない。

…でもあたしの部屋だから見つかる心配はないよな。

ヘンリー坊のいい匂いがする。


違うそうじゃない落ち着け。

性欲に流されるんじゃない。

既に唾つけ《ref》マーキング行為。成人前の男児にするのは恥知らずそのもの《/ref》したあたしが言えることではないが、自分の部屋に成人前の男児を連れ込んで膝枕させるなんて正気の沙汰ではない。

恥を忍んでアヤメあたりに頭を固定してもらえば済む話だ。

そうだ、そうするべきなんだ。

それが分かっていながらもあたしの体は言うことを聴いてくれない。

あたしの理性は本能と欲望を前に既に敗北していた。

あっ、だめ、額を優しく撫でないでくれ!

マジでなけなしの理性が擦り切れるから!

本当に今ギリッギリだから!


坊は額に手を置いたまま、目薬をかざす。

そうだった。目薬を入れるための膝枕だった。

じゃあちゃちゃっと済ませればいいだけの話じゃねえか。

流石にこの状態なら反射的に避けることはないだろう。


顔の前で手を構えたヘンリー坊の持つ目薬から水滴が生まれ、それがあたしの眼球に向かって落ちる。

あたしはその水滴を冷静な頭で見つめ、


ふいっと首が動いてそれを避けた。


「………」

「………」


違うんだ。

違うんだよヘンリー坊。

そんな顔をしないでくれ。

もっと膝枕されていたいとは正直思っているけど、そのためにこんな真似をしたりはしない。

本当なんだ。

信じてくれ。


「タチアナさん、少し頭を上げてくれる?」

「あ、ああ…」


あたしは言われた通りに頭を持ち上げる。

絞首台に向かう囚人のような気分だった。

思わず目を伏せるあたしを余所に、ヘンリー坊はソファーに横向きに座り直す。

ソファーに横になっているあたしに向き直った膝立ちの姿勢だ。

そのまま坊は正座のように腰を下ろして、あたしの顔を太腿で挟み込んだ。

うわあ柔らかい。


「……ッ!?、???」

「もう、暴れないで」


い、いやいやいや!

不味いって!

マジで不味いって坊!

これはダメな奴だ!

言い訳どころの話じゃねえよこれ!

うわあああああすべすべして柔らけえ良い匂いするあったけえじゃねえよ頭が回らねえ!

あたしが指定した運動着のままだから坊は半ズボン姿じゃねえか!

あたしの頬と坊の生肌が触れるとか過去のあたしはマジでいい仕事をしたけど今はそういう場合じゃねえよ!

というかあたしの頭上の柔らかい感触ってもしかしてこれ坊の…え、マジで? 今あたしって坊の坊にまさか触ってんの?

あ、ぁああああ!

もうどうしたら良いのか分かんねえよ!


あたしの視線の先では、坊がやけに楽しそうな顔で笑っている。

止めてくれ!あたしの中の重要な部分が変な感じになってしまう!

歪んで元に戻らなくなってしまう!

碌に動かない体でイヤイヤとかぶりを振るあたしの頭を、ヘンリー坊はさらに太腿でぎゅっと固定する。

うわあああああああ!


「へ、ヘンリー坊…ダメだって…」

「タチアナ差、動かないで」

「いや、いや駄目だヘンリー、これは…」


ヘンリー坊の声。

不意を突くような初めての呼び捨てが、混乱の絶頂にあったあたしの頭にするりと入り込んで思考を満たした。

真っ白な頭のままで、あたしはヘンリーの顔を見上げる。


「動くな」


言われるままに、あたしの体は抵抗をやめた。

被りを振っていた首も、変異力のこもっていた背筋や手足も弛緩して力が抜ける。

ヘンリー坊は未だにあたしの顔を両サイドから抑えていた太腿でそれを感じ取ったのだろう、手に持った目薬をあたしの眼前に持ってくる。

呼吸だけして力の抜けきった脱力した体は、この時だけはあたしのものではなかった。

あたしはただ漠然と、しかし確信をもってそう思った。

だからこれは当然の帰結だ。

動くなと言われたのだからこの体が動く筈がない。

彼の言葉通りに不動を貫く体は、迫る水滴を無感動に見つめたまま。

反射的に顔を背けるどころか瞬き一つすらすることなく、あたしの体は坊に言われた通りにあっさりと目薬を受け入れた。

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