辛い夜には笑ってみろよ

譜久村 火山

第1話

 大都市の郊外にある一角。そこに、周りを八つの馬鹿でかいマンションに囲まれたオンボロアパート“高木荘”がある。ダントツで背が低いくせに“高木“なんてふざけてやがると、唯一の住人である福永幸太は思った。

 だが幸太にはもっとふざけてやがると感じる事がある。それは自分の名前だ。

「俺はやっぱり幸福を全て名前に持ってかれちまったんだ」

 と暗い部屋で呟いてみる。笑えない冗談だ。幸太は部屋の中で唯一、光を発しているスマートフォンの画面を眺めた。すると、もう10何時間もぶっとうしでやっていたゲームに出てくる剣士の強キャラが、

「おい、最後になにかを笑い飛ばしたのはいつだ?」

 と自信満々に聞いてくる。それを合図に幸太はスマホの電源を切った。空虚だ。画面の上で、どんな強敵を倒しても、レアアイテムを手に入れても、空虚だ。部屋に完全な暗闇が訪れる。しかし今まで明るい画面を見ていたとはいえ、夜になってからかなり時間が経っているようで、目はすぐに暗闇に慣れた。

 すると、散らかった狭い部屋の中で何日も位置を変えない参考書の輪郭がうっすらと浮かび上がる。一メートル弱の高さまで積み上げられたそれらは、ほとんど手をつけていなかった。

「はぁ〜」

 食べかけのポテチ。エナドリの空き缶。壊れたプレステ。そして、いつからそこにあるのか分からないネームペン。物で溢れかえっているのに、なぜ目につくのはちっぽけな教材なのか。

 そのとき、「ズズズスッー」と紙が擦れ合うような音がした。幸太は少し嫌な予感がして息を呑む。

 次の瞬間、「バタン、ドン、ガン」と三つの擬音が同時に部屋に響いた。

「はぁ〜」

 状況を理解した幸太は再びため息をつく。どうやらあの参考書の山が崩れたようだ。これ以上物が散乱すると、寝転ぶ場所もなくなってしまう。

 仕方なく片付けるため電気を付けようと立ちあがった、その時。唐突に部屋が明るくなった。と言っても、完全に明るくなったわけではない。スマホよりは明るいが部屋の電球よりは暗い光が、幸太の後ろから発生している。

 そしてそれに遅れるように、誰か、複数人の笑い声が聞こえてきた。

 振り返ると、部屋の小さなテレビがついていたのである。どうやらリモコンが参考書の下敷きになったようだ。

 テレビなんかしばらく見ていなかった。それは単純にテレビを面白いと思わなくなったからだ。

 すぐにリモコンを発掘して、忌々しい笑い声を消そうとした。が、なぜか懐かしい匂いを感じる。

 よく見れば、流れているのは幸太が中学生の頃最も好きだったバラエティだ。実力派のお笑い芸人を集めて、尖った企画をやるでもなくただゲストとトークするだけの番組。しかし、そのシンプルさがより芸人の腕を引き立て最高のお笑いを届けてくれているとかつての幸太は考えていた。

 でも今は違う。はっきり言ってつまらないと思った。かつてあんなにキレキレに見えたトークも完全にマンネリ化しているように感じる。昔は斬新だと思った物語が、「あぁ、そのパターンね」とよくあるストーリーになってしまったようだ。そうだ。よくある奴だ。しょうもない。しょうもないのに…………。

 幸太はクスりと笑ってしまった。そして一度口角が上がると、もう笑いは止まらない。

「なんだよ、くだらね」

 と口にしつつも、気づけば声を上げて笑っていた。なんだろう。不思議と嫌な気持ちを隅に追いやっている。ついさっきまで、なにをしているのか分からなかった。なにがしたいのかも知らなかった。絶望していた。何かも分からない全てに。でも永遠に広がるかのように見えた空虚をさらに、覆い尽くすほどの光が心の中で広がっていくのが見える。

 そのとき「ガシャん」と、建物が崩れる大きな音がした。


 俺は高木荘とそれを取り囲む八つのマンションを俯瞰していた。神にでもなった気分だ。

「今夜は満月が綺麗だなぁ」

 と呟いてみても、声は果てしなく続く夜の街へ飲み込まれた。冷たい風が頬を撫でる質感だけが、俺を生きていると実感させる。

 もうしばらくエモーショナルな場面に浸っていたかったが、俺の望みは大抵叶わない。

「ガシャん」

 という音が静かなる夜の街に谺した。それと同時に、高木荘を囲むマンションの一つ、南の建物が崩壊した。爆発があったように、マンションは真っ二つに折れる。そして、上部が傾き倒れていく。

 頬を打つ風が生暖かくなった。

 俺は思わず、これから起きる惨劇に目を瞑る。しかし、しばらくしても特に何かが起きた気配はなかった。

 恐る恐る目を開けると、南のマンションが丸ごと消滅している。跡形もない。

「何が起きた?」


(なんの音だ?)

 幸太の心にほんの一瞬だけ、そんな疑問が浮かび上がった。しかし今、幸太の心にそんな思いが滞在する余地はない。湧き上がる笑いがすぐにそんな疑問をかき消した。

 幸太は今ならなんだってできる気がしていた。テレビから溢れる音の一つ一つが、幸太の口角を上げる。それはついさっきまで、幸太がつまらないと決めつけていた音だ。

 しかし、それも長くは続かない。

 幸太の笑いもひと段落し、トークも次のテーマに移ろうとしていた時。突如としてテレビの画面が消えた。幸太は慌ててテレビの下部にある電源ランプを確認する。そこには緑の光も赤の光もなかった。手探りで床を漁り、なんとか見つけ出したリモコンを連打してもテレビはつかない。

 再び部屋は暗闇に包まれ、幸太の心に広がっていた光も失せた。

 しかし、カーテンのかかっていない窓から微かな月明かりが差し込んでいる。そして幸太は、自分の心にもう一度光を灯したいという感情があることに気づいた。

 目に入ったのはスマホと参考書だ。幸太は初め、スマホに手を伸す。しかし、ゲームをいくらクリアしても空虚なだけだとわかっていた。

「これじゃ、腹の底から笑えねぇ」

 消去法で参考書を開く事にした。机は邪魔で片付けたため地面に寝転がりながら文字を追う。だが、月明かりだけでは暗くて読みづらいので結局スマホを手に取りライトをつけた。

 開いたのは世界史の教材だ。以前は、こんなことを勉強して将来なんの役に立つのかと思っていた。それは今でも変わらない。でも今はそんなことでも笑い飛ばしてみようと思った。そう考えると、ページを捲る手は止まらない。

「アリストテレスがどうして要ります?」

 ふと湧きあがった言葉を、声に出してみる。するとまた、笑いが込み上げてきた。

 これは深夜テンションって奴だろうか。半分正解で半分不正解な気がする。

「ガラガシャガシャガシャがララシャン」

「ウァレリアヌスって誰。皇帝のくせに捕まってんじゃん。だっせ。ハハッ」

 声に出して歴史用語にツッコミを入れまくった。その度、なんだか笑えてくる。何度も何度も声を上げて笑った。腹筋が攣るとか、腹が捩れるってのが大袈裟じゃないと初めて体感する。

「ガッシャーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン‼︎‼︎‼︎」

 

 俺は面白い光景を見ていた。高木荘の周りに聳え立つマンションが崩壊していく。一つまた一つ。北が壊れたら、南東が倒れ、次に北東も粉砕される。

 俺はそっと瞼を閉じ、意識を高木荘の中へ持っていく。すると、幸太の部屋が見えた。幸太は、床に寝そべりながら世界史の教科書を見ている。そして少し読み進めるごとに、声を上げて笑った。それに呼応するように、またマンションの崩れる音がする。

 以前も幸太は息詰まると床で勉強していた。しかしかつての幸太の顔は、苦渋に満ちていたのだ。それが今は楽しそうである。

「なるほどな」

 俺はそう呟いて、目を開けた。

「ふっふっふっ」

 と不気味な笑いが滲み出る。

 ついには、高木荘の周囲にあった八つの高層マンション全てが跡形もなく消え去った。更地の中に高木荘だけが誇らしそうに聳え立っている。さらに地平線から明かりが漏れ始めていた。

「さて、最初で最後の夜明けを楽しめよ。幸太」


 気づけば世界史の参考書は、終盤、第一次世界大戦あたりまで進んでいた。そこにカーテンのない窓から強い光が差し込んでくる。幸太は立ち上がり、窓の奥を見た。

 そこにはなにもない無限の更地が地平線まで続いている。高いマンションは崩壊していた。当然疑問に感じたが、答えは何となく知っているような気がした。

 幸太は窓を開ける。すると爽やかな朝の風が勢いよく部屋に吹き込んできた。まるで部屋が真空だったようだ。いや、真空だったのかもしれない。この部屋は空虚だった。しかし、もう幸太はこの部屋をつまらないとは感じない。心が風で満ちていく。

 今まで溜め込んだ笑いを一夜にして全て吐き出してしまった。もう疲れて体は限界なのに、不思議と幸せだ。

 そのとき、ゴミの合間から顔を出すネームペンが視界に入る。それを拾い上げて、歴史の教科書を閉じ、背表紙を上にした。そこに“福永 幸太”と書き記す。

 幸福を噛み締めるように幸太は口角を上げる。だがもう声は出なかった。


 俺、譜久村火山は今声を上げて笑っている。なぜかって?それは俺も辛い夜の最中だからだ。何かを変えたい。自分を変えたい。全てを壊したい。そんな衝動が渦巻いているさ。でも現実の物は壊しちゃいけないし、意外と頑丈で壊しづらい。

 幸太と高木荘とその周囲のマンションを見ていて分かった。「この世」のものは声を上げて笑うと壊れるらしい。それがどんなに高い壁であろうと。

 そう言うわけで俺は自分で作り上げた空想、物語を一つ笑い飛ばして破壊させていただく。ガハハ。

 その時である。眼下にただ一つ残っていた高木荘が音もなく崩れ落ちた。

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辛い夜には笑ってみろよ 譜久村 火山 @kazan-hukumura

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