カッターナイフを右手に、逃避行の終点は火星です。

瑞木ケイ

第1話

 意識が、微睡から浮上する。

 カーテンを閉め切った部屋は暗い。


 今、何時だろう?

 ベッドに寝ころんだまま壁掛け時計を見るけど、暗がりで見えない。

 ただ秒針が時を刻む音は聞こえていたから、今日も変わらず時間は流れているのだろうと思う。


 時計の針が進む音に紛れて、雨音が聞こえる。

 どうして今日は雨が降っているのだろう?

 ふと脳裏をよぎった疑問が、自分でもおかしかった。

 空だって雨を降らしたい時もあるだろう。

 人がふと泣きだしたくなる時があるように。



 自分の考えに納得して、わたしはもう一度眠ろうとしてまぶたを閉じた。

 スマホのアラーム音が鳴らないうちは、まだわたしが起きるべき時間ではない。

 一度目が覚めてしまえばなかなか寝つけないけれど、目を閉じてしまえばそのうち眠りにつけるはずだ。


 試しに羊でも数えてやろうかと考えていると、こつこつと微かな音を聞いた気がした。

 気のせいかな? と思ったのも束の間、またすぐに音がする。


 こつ、こつ。


 それは窓の外から聞こえてきた。

 と言うより、どうやらそれは窓を叩く音のようだ。

 こんな非常識な時間帯に、それも玄関ではなく窓から訪問しようとする輩はいったい誰なのだろう?

 最初わたしはそれを無視しようと思っていた。

 でも、雨音に紛れて窓を叩く音はしつこく鳴らされた。


 一言怒鳴ってやろうかとも思った。でもすぐに、こんな時間に目覚めたのもなにかの縁と思い直してベッドから起き上がる。

 窓辺に立ち、カーテンを開け放った。

 すると窓の向こうでマユは少しほっとしたような顔で微かな笑みを浮かべた。

 外はしとしとと陰鬱な雨が降っていて、彼女は全身ずぶ濡れで立っていた。



「やあ」


 と、マユは言った。

 これ見よがしに大げさにため息を吐いてみせたけど、目の前の彼女はそんなことなど気にした様子もなく佇んでいた。

 仕方がなしにわたしは窓を開けて言った。



「君、今が何時だかわかっているの?」

「わかんない。何時?」

「さあ? わたしもわからない」

「貴女もわからないなら私を責めるように言うのはやめてよ」


 そう言ってマユは不満そうに口を尖らせた。

 でも考えてもみてほしい。

 まだ夜も明けていない時間帯、わたしがベッドで微睡んでいるところを邪魔しておきながら「責めるな」というのは理不尽ではないだろうか?

 これがせめて朝になっていたなら、まだ許せたと思う。

 少なくとも、今よりは心穏やかに話ができただろう。


「それで、こんな時間にわたしになんの用?」



「ママが殺されたの」



 彼女は淡々と、まるで「石に花が咲いたの」とでもいうような気軽さで言った。

 冗談のように軽い言葉は、しかし、その割にそこに含まれる内容は重かった。

 少なくとも寝起きで頭の回転が鈍いうちに聞いていい話ではない。



「君の母親が殺された?」

「うん」

「誰に?」

「火星人に」


 ほう、とため息に似た息が漏れた。

 よりによって火星人ときたか。

 わたしはどう反応していいかわからず、しばらくマユの雨に濡れた姿を眺めていた。


 衣服はぐっしょりと濡れそぼり、ぴったりとその魅惑的な肢体を浮き彫りにするように張りついていた。

 内気な男の子であれば視線のやり場に困るだろう豊満なお胸も、同性のわたしは遠慮なく見つめることができる。



「ねえ、マユ」

「なあに? アカリ」


 わたしの目の前にいる少女マユは、とてもじゃないが母親が殺されたかわいそうな女の子には見えなかった。


「君の母親がほんとうに殺されたとして――」

「火星人にね」

「そう、火星人に殺されたとして、どうしてわたしのところに来たの?」

「迷惑だった?」


 彼女は今までその可能性を考えていなかったとばかりに小首をかしげている。

 正直に言うと、迷惑かそうじゃないかの二択で言ったら、迷惑だとはっきり断言できる。

 でも、わたしと彼女の仲だ。

 この際、そんな些細な迷惑なんて目を瞑ろう。



「マユはわたしにどうしてほしいの? 警察に連絡すればいい?」

「ううん。警察はもういいや」


 いいわけがない。

 ほんとうにマユの母親が殺されたのだとしたら、それはただの高校生であるわたしではなく警察の領分だ。



「ねえ、アカリ」

「なあに? マユ」

「私と一緒に行こうよ」


 相変わらずマユの話はとりとめもない。

 わたしは彼女に会話のキャッチボールをしてほしいと常々思っているのだけど、不幸なことにマユはこれでちゃんと会話が成立しているという認識なのだから困る。



「どこへ?」

「ママのところ」

「殺されたんじゃなかったの?」

「うん。だから、ママの死体を探しに行くの」


 なるほど、とわたしは頷いた。

 なにひとつ納得はしていないわたしだけど、とりあえずこちらが話を飲み込まない限り先には進めない。


 これも惚れた弱みというやつだ。

 時々自分でもどうしてマユを好きになったのかと自問することがある。

 今もそうだ。

 でも結局、そんなところを含めて彼女が好きなんだと思う。

 愛だとか恋だとかは論理的に説明できないことの方が多いのだから、それも仕方がないと諦めている。



「わかった。行こう」

「うん。行こう」


 机の引き出しからカッターナイフを取り出して、ポケットの中にしまった。

 もしも火星人と出会った時、戦うための武器がほしかったからだ。

 ほんとうに火星人と邂逅するとは思っていないけど、まあ、念のためだ。

 そしてわたしは寝間着姿にスリッパのまま窓から外へ出た。

 たちまち雨で全身が濡れてしまう。



「傘は?」


 マユが尋ねた。


「いらないよ。これから火星人に殺された君のママを奪い返すのに、傘なんて荷物は必要ないだろう?」

「それもそうだね」



 わたしらは手を繋ぐと、雨の降る街中をゆっくりと歩いた。

 まだ朝は遠く、道は暗く、雨は冷たい。

 でも、マユと一緒なら不思議とどこまでも行けそうな気がした。

 たぶん、マユも同じ気持ちだと思う。


 わたしたちは歩きながらいろいろな話をした。

 その大半は語るに足りないどうでもいい話だった。

 手をつけていない宿題のことや先日見つけた野良猫がかわいかったこと、もうすぐ夏休みが終わってしまうことへの不満などである。

 そんな他愛もない雑談の中で、わたしは尋ねた。



「どうして、火星人なの?」

「それってどういう意味?」

「君の母親を殺した犯人のこと。そもそもマユはほんとうに火星人なんていると思っているの?」

「思っているよ」


 マユははっきりと言い切った。

 意外だった。

 確かに彼女は昔からどこか浮世離れしたところがあったが、それでも荒唐無稽な妄想癖はなかったはずだ。



「マユは火星人に会ったことあるの?」

「うん」

「火星人ってどんな人? やっぱりタコっぽい?」

「なんでタコ?」


 わたしの言葉に、マユは不思議そうな表情で首をかしげた。

 そう言えばなんでタコなんだろう?

 なんとなくタコっぽいイメージがあったのだけれど、その理由はわたしもわからない。



「見た目は普通に地球人と変わらないよ」

「じゃあ、地球人と火星人の違いってなに?」

「地球で生まれ育ったか、火星で生まれ育ったかの違いでしょう」


 マユはなにを当然のことを聞いているのかと言いたげな顔をしていた。

 日本で生まれ育ったら日本人で、アメリカで生まれ育ったらアメリカ人でしょう、とマユは続けて言った。

 そう言われてみれば、確かにそうだ、と納得しかけた。

 でもすぐに、ほんとうにそうだろうか? と疑問に思った。

 もし火星人が地球人と見分けがつかなかったら、気がつかないだけで今までにも火星人に会っていたのかもしれない。なんてね。



「火星人はどうやって地球に来ているの?」

「宇宙船でしょう? 逆に聞くけど、宇宙船に乗って来る以外にあるの?」

「でも、地球人は火星に行けないでしょう?」

「今はね。でも、あと十年くらいしたら、地球人も火星に行けるようになるよ」


 自信満々に言うマユに、わたしは「ふうん」と生返事で応えた。

 あと十年。

 それはまだ十七歳のわたしからしたら、ずっとずっと未来の話のように思えた。

 十年後がどうなっているかなんて、わたしはまったく想像ができなかった。


 そんな話をしながら、わたしとマユはずっと仲よく手を繋いだまま歩き続けた。

 しばらくして夜が明け、その代わり雨脚が強くなった頃、わたしたちは山の中に埋もれるようにして建っているぼろぼろの小屋の前に立っていた。



「ここ?」

「うん」


 マユは頷いた。

 そしてわたしは、なんだかんだと心地よかったこの散歩とうひこうが終わってしまったことを悲しんだ。


「中に入ろう」


 そう言ってマユはわたしの返事も待たずに小屋の扉を開け放った。

 扉はぼろっちくて、軋んだ音が耳障りだった。

 わたしらは並んで小屋の中に入った。

 小屋は仄暗かった。

 埃っぽい空気に混じって、血の匂いがした。

 ドアから漏れる微かな光がぎりぎり届く距離に、投げ出された人の足が見えた。


 死体だ。


 近くによって確認するまでもなくわかる。

 それは、マユの母親だ。



「火星人がやったの?」

「うん」

「証拠はあるの?」


 わたしが問うと、マユはなにも言わずにそっと身体を寄せた。

 雨に打たれて冷え切った身体に、彼女の体温が温かかった。

 そう思ったのも一瞬、わたしはマユに唇を奪われていた。

 ほんの少しだけ触れ合うだけの、ついばむようなキス。

 ファーストキスの余韻に浸る間もなく、マユは静かに身を離して言った。


「愛してる」


 彼女はまるで大切な我が子を抱きかかえるような慈愛と慎重さをもってその言葉あいしてるを口にした。

 自分の母親の死体が投げ捨てられたぼろ小屋の中という、およそ考え得る限り最も愛の告白に適さないであろう場所でなければ、きっとわたしはその告白を素直に喜べただろうと思う。

 わたしが返事をしないことを不安に思ったのか、彼女は心なしかか細い声で尋ねた。



「アカリは私のこと、嫌い?」

「ううん。そんなことはないよ」

「じゃあ、好き?」

「うん」


 わたしははっきりと頷いた。

 これは胸を張って言えることだ。


「わたしも、君を愛してる」


 自信を持って伝えると、マユは嬉しそうに口もとをほころばせた。



「私たち、両想いだね」

「そうだね」

「よかった」


 マユは笑った。

 そして綺麗な笑みを浮かべたまま、言った。


「じゃあ、私、今から死ぬね」


 彼女はまるでこれから石の上の花を手折りに行くかのような気軽さで言った。

 どうしてそうなるの?

 これまでの文脈と、笑顔と、最後のセリフが致命的に噛み合っていない。



「なんで、って聞いてもいい?」

「だって、私たちは両想いでしょう?」

「うん」

「そこで私のママが死んでるでしょう?」

「うん」

「だったら、私も死なないといけないでしょう? これこそ完全完璧なる三段論法です」

「うん?」


 マユの言う理論はさっぱりわからないけど、とりあえずマユはアリストテレスに謝るべきだということはわかった。

 両想いだとわかったのは嬉しいけど、告白された場所やその後の会話を思うと、気分がいいとはとても言い切れない。

 なんだか腹が立つ。

 そんなわたしの気持ちも知らないで、マユはきょろきょろと小屋の中を見回している。



「なにを探してるの?」

「刃物。あるいは縄」

「……ほんとうに死ぬつもりなの?」

「うん」


 もちろん、とばかりにマユは言う。

 彼女のそう思い至った思考回路はよくわからないし、わかりたいとも思わない。

 でも、これからわたしがおこなおうとしていることも、わたし自身なぜと問われたらうまく答える自信はない。



「ねえ、マユ。刃物ならわたしが持っているよ」


 そう言ってポケットからカッターナイフを取り出してみせた。

 わたしの手に握られたカッターナイフを見て、マユは「用意周到だね」と言って笑った。



「人殺しの火星人と会うかもしれないって考えたら、むしろカッターナイフじゃ物足りないくらいなんだけどね」

「じゃあ、そのカッターナイフ、私に貸してくれる?」

「それは嫌だ」

「どうして?」


 マユは問う。

 わたしは答える。


「わたしが君を殺してあげるよ」

「ほんとう?」

「もちろん」

「うれしい。ありがとう」


 マユはほんとうにうれしそうに笑った。

 それからわたしたちはどちらからともなく抱き合った。

 わたしと彼女の体温が冷えたお互いの身体を温め合い、お互いの鼓動の音がわたしと彼女の耳朶を震わせる。



「ねえ、アカリ。お願いがあるの」

「なあに?」

「私を忘れないで」

「うん。忘れないよ」


 忘れるはずがない。

 十年後の未来なんてまったく想像できなくても、マユを一生忘れないだろうってことは容易に想像できた。



「君の体温も、君の鼓動も、そして君の愛も、わたしはこの先ずっと忘れることはない」

「よかった。私の愛した人が貴女で」

「うん。わたしもよかった。わたしの愛した人が君で」



 お互いに見つめ合い、わたしは右手に握ったカッターナイフでマユの首を切り裂いた。

 彼女の口からひゅっと空気と一緒に声にならない声が漏れたから、わたしは咄嗟に自分の唇で彼女の唇を塞いだ。

 二度目のキスは、妙にしょっぱくて鉄臭かった。






 十年後、山に埋めたマユと彼女の母親の死体が見つかり、わたしは警察に捕まった。

 裁判でわたしに言い渡された判決は、火星で十年間の強制労働だった。



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カッターナイフを右手に、逃避行の終点は火星です。 瑞木ケイ @k-mizuki

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