胃袋のエレジー

そうざ

The Stomach Elegy

 事件は、彼女との同棲生活第一日目の夜に起きた。

「どう? 一応、得意料理の一つなんだけど」

「最高に美味いよ。さすが料理学校の優等生だな~」

 彼女が作ってくれたのは、パスタからソースまで全て手作りのラザニアだった。僕は、皿にこびり付いたチーズまでこそげ取り、綺麗に平らげた。

 ところが、だ。ご馳走様と言い掛けた次の瞬間、僕は猛烈な吐き気を覚えた。そして、怪訝そうにしている彼女の眼前に嘔吐してしまった。

「慌てて食べた僕が悪いんだ……ご免」

 後始末をしながら、僕は謝り続けた。

 それからと言うもの、彼女が手を替え品を替え作ってくれた料理のことごとくが吐瀉物と化した。

 どの医者も明確な原因を特定出来ず、示し合わせたかのようにストレスという逃げ口上を用意していた。

 僕は哀れに痩せ細り、献身的な彼女に抱かれながら静かに最期の時を――それはそれで美談の一種になったかも知れないのだが、外食やコンビニ弁当、冷凍食品等、つまり彼女の作るもの以外は僕に快食を約束してくれた。

 僕は、彼女に対する後ろめたさから、次第に一人で食事を済ますようになった。

 これで一応、問題は解決するかに思えたが、心の水面は波紋を大きくさせる一方だった。

「……本当は、私の作るものは不味いと思ってるんでしょう?」

「こっちだって吐きたくて吐いてる訳じゃないよ!」

 彼女が去った後、部屋も心も冷蔵庫の中も、すっかり空っぽになってしまった。だが、僕は思いの外ほっとしていた。単に振り出しに戻ったような、戻るべくして戻ったような、そして、それを望んでいたような心持ちだった。

 破局へ続くこの一連の顛末は、既に幾人もの女性と繰り広げて来た喜劇なのだ。いつの頃からか、僕は過去を糊塗ことする為にだけ女性達を利用して来た気がする。

 何気なく冷蔵庫を覗き込んだ。冷気の奥に、小さな何かが転がっていた。かちこちになったそれは、パスタの欠片だった。

 遠い昔、生まれて初めて付き合った彼女は料理下手だった。ところが、偏食だった僕の大好物――ラザニアだけは誰よりも上手だった。

 もしかしたら、何かが僕の舌を錯覚させていたに過ぎないのかも知れないが、僕の初恋は粉々にならず、今も干乾びたままらしい。

 胃袋がきゅるきゅると鳴いた。僕自身も泣いた。

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胃袋のエレジー そうざ @so-za

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