汗カクべカラズ

大上 狼酔

汗カクベカラズ

 今日は汗をかかない。

 夏休み前の朝、目が覚めて唐突にそう誓った。いや、理由がないわけでもない。

 高校2年生の太田勇輝は、ベッドの上で昨日の事を思い返した。



 赤木が不思議そうにこちらを見つめる。

「太田、汗かいてない?」

「え?」

「アハハ、こんなにクーラー効いてるのに~?」

 理科の実験の時、突然女子に話しかけられ慌てた。確かに外の日照りが嘘のように実験室は寒かった。俺も普段通り黒板を見ていたら汗などかかない。明確な原因があった。


 俺は赤木の言葉が妙に印象に残った。恥から来たものかもしれないが、そんなことでこんな馬鹿げた目標を立てはしない。

 この会話を同じ班の狩野に聞かれていたのだ。隣の彼女を前にして、俺は緊張してしまい汗をかいた。なぜ緊張したのか、理由はわからないが……。

 そんな俺を横目に彼女は記録をとりながら微笑んだ。その顔は異様な程に輝かしいものであった。



 そんなこんなで俺は汗をかきたくないのだ。正直俺は汗を嫌っている。(まぁ、好きな人間はいないだろうが。)

 でも現実的に考えて、汗をかかない事は不可能だと考えるだろう。大丈夫。今日は体育もなければ、移動教室さえ無い。肝心の教室は、クーラーが嫌な程に働いている。校門をくぐってから出てくるまで、恐らく目に見えて汗をかく機会はないはずだ。

 俺はこの高度な計算をしながら仕度をし、家を出た。


 そして決戦の時はすぐにやってきた。校門の隣で俺は汗をタオルで拭く。そして俺はもう一度心の中で誓うのだった。


(汗カクベカラズ。)


 曇りだったこともあって、教室に入るまでは汗をかかずに済んだ。しかし、この後快晴の予報であることは把握している。気を抜くことは出来ない。

 俺は教室の扉に手をかける。

 ガララ

 予想どうり、教室は南極と形容してよい寒さだった。

 そして、まず目に入ってきたのは、いや目に入れてしまったのは、朝の部活を終え、汗を輝かせた狩野だった。



 あれから俺は、3時間目まで順調に汗をかかずにきた。そう高を括っていると4時間目に不穏な事が起きてしまった。

「ブッサー、この教室寒くない?」

 赤木!!

 よりによって4時間目の真っ昼間に言いやがって!

 その時は古典の大塚武三郎先生の授業だった。武三郎だから生徒からこのあだ名で呼ばれている。本人は案外気に入っているらしい。

「そうか?でも消したら暑くなるだけだぞ?」

「え~。」

 よし!ブッサーよくやった!これで俺の誓いは達成へと近づいた。

「あとお前らー、ちゃんと勉強しろよー。」とブッサーが言い出した。

「受験も迫ってるんだからなー。情報も集めろー。目の前の敵は正しく恐れるべきだ。」

 そんな事を言われるとこちらは何ともいえない気持ちになり、焦りと反抗心が争いを始めてしまう。話半分に聞きながら俺はふとある事を思った。

 そういえば、狩野が一番の懸念だったな。誓いの一番の障壁は狩野だ。運の良いことに狩野は俺の斜め後ろの席だった。

 しかし、あの艶のある黒い髪と透き通った白い肌を見れないのは少し惜しいが……。

 危ない!また変な汗をかいてしまう!

 俺は教科書の平安美人に視線を落とした。



 キーンコーンカーンコーン

 勝利のチャイムが鳴った。俺は遂に汗をかかずにここまできた!教室には2、3人しか残ってはいない。俺は勝利を噛み締めた。

 下校までがタイムリミットだが、実際は他人に汗を見られなければ充分だった。そのためか俺には少し余裕が出来ていた。

 今日はバド部も休みだし、誰もいない教室で自習でもするか。

 俺はおもむろにノートを取り出して、英語の復習を始めた。勿論クーラーの効いた部屋で。そんな俺が眠りにつく事は難しいことではなかった……。



 気がついた時には部活が終わる時間と大差がなかった。ノートをしまい、俺は足早に(汗をかかない程に)教室を出た。

 ほとんどの部活はすでに帰ったようで、いつも遅くまで残っている野球部も教室でミーティングをしているみたいだった。

 靴を履きながら今更になって自分の行動に恥を感じてきた。

 馬鹿みたいな事をしてしまったな。


 夕方とはいえ外は相変わらず暑い。グラウンドはやけに静かな印象を受けた。誓いのため校門へ向かおうとしたその時、ふと人影が見えた。自主練だろうか。

 ん?横になってる?あんな場所で……。いや、倒れている!!

 俺は背負ったリュックを投げ捨て必死に走る。

 明らかに様子がおかしい!こういう時はどうすれば?

「おい、大丈夫か!?」

 俺を見上げた顔は真っ赤に染まり、汗を吹き出している。そしてその美しい眼は虚ろでありながら、力強さを秘めていた。俺はその人が狩野だと気づいた。



 あー、疲れた。まじで焦った。

 とりあえず狩野を保健室へ連れていき、ベッドの上に寝かせた。倒れていた狩野は俺の肩に寄りかかりながらも歩く事は出来た。俺は保健室のありったけの氷を狩野に渡し、全身を冷やすように促した。首やら脇やらに氷を当てたが正しいやり方は俺にはわからなかった。第一、歩かせてよかったのかも疑問だ。

 そんな俺は狩野と目があった。

「何か飲みたい。」

「あ!そうだよな!すぐに持ってくる!一旦部屋出るよ?」

 狩野はコクりと頷いた。

 俺はダッシュで自販機に向かった。保健室に飲み物がなかったのは災難だったが、幸い財布はポケットに入れてあったので困りはしなかった。

 自販機の商品をさらりと見回す。目に飛び込んできたのは、青と白のスポーツドリンクであった。すぐに購入し、保健室に向かう。スポーツドリンクは数多あまたあるが、これは製薬会社が作っているものだ。今の狩野に有効であるに違いない。

 ガララ

「大丈夫か?はいコレ。」

「……ありがと。」

 狩野はふたを開け、勢いよくスポドリを飲み始めた。その姿は青春の具現化のようにも、情熱の顕現のようにも見えた。

「あー!生き返るー!」

 流石、製薬会社。一味違うみたいだ。

 おとなしいと思っていた彼女だったが案外無邪気な所もあるらしい。

「で、どうしたんだよ? ぶっ倒れて。」

「自主練してたんだよね。大会近いから。」

「陸上部だったけ?」

「そう、中距離。休むにも休めなくて……。」

「はぁ……。倒れたら元も子もないだろ。」

「はい……。」

 彼女は肩をすくめた。気まずくなったのか狩野が話題を変えた。

「そ、それもそうだけど、太田君ありがとう。」

「あ、あぁ。別にいいけど。」

 とにかく回復したみたいだ。保健室の先生が不在だが、保健室の様子からしてまだ校舎の中にいるみたいだ。とりあえず先生が来るのを待った。


「ねぇ、チュー、しよう?」


 え?今の聞き間違いか? いや、違う。

 そこには目を瞑り、こちらに顔を向けた狩野がいる。

 そんな事があるのか?そんな事があるのか。

 確かに感謝はされていた。流れとしてはおかしくない、のか。 


 俺は男として腹を括った。そっと彼女の顔に近づく。シャンプーと思われる心地よい香りがした。


 あぁ、ファーストキスはスポドリの味か。青春だな。


「大丈夫?」

「え。」

「熱、中、症、大丈夫?すごい汗だけど。」


 え? 熱中症……? やっぱ聞き間違い……?

 キスしようとしてた訳では、な、い?

 勘違い、いや、じゃあ何で目を閉じたんだ?


 待て。汗をかいたのか?

 放心状態の俺は自分の首筋を撫でる。確かに汗で不愉快な感触になっていた。

 俺は誓いを達成できなかった。よりにもよって狩野の前で。俺の心の中で何かが崩れた。その途端、脱力してベッドの横の椅子に座りこんだ。

「赤木みたいな事をすんなよ……。」

 狩野は実験の時のように微笑んだ。

 俺には何を考えていたのかわからなかった。


 ガララ


「あら、誰か来てたの? ごめんなさいね、留守にしちゃって。あらー、そのスポドリ良いよね!飲む点滴とか言われているのよ。」

 追い打ちをかけるように保健の先生が戻ってきた。俺は事情を先生に手短に話して、狩野に何も言わずに部屋を出た。頭の中にはキスと汗の事しかなかった。



 俺は帰りに狩野と同じスポドリを買った。

 そしてペットボトルの口に接吻チューをした。


 帰り際、投げ捨てたリュックを拾い、校門に向かった。

 校門ゴールを抜け、汗を拭った。その行為は終わりの合図のつもりだった。結局、俺は汗をかいてしまった。高校生はこんな事でも悔しくなる。でも、汗も悪くないな。思ったよりも。


 一息ついた時、あることに気がついた。

 どうも頭がぼーっとする。狩野の笑顔が頭から離れない。保健室の出来事を思い出し、心臓の鼓動が速くなる。

 俺はこの症状を知っていた。

 保健体育の教科書?否、あえて言うなれば現代文だろう。


 ……いや、きっと思い違いだ。どうやら熱中症なってしまったらしい。この症状を熱中症のせいにしたかった。俺なりの照れ隠しである。


 熱中症には気をつけないとな。

 俺は帰り道を歩き始めた。




 その時、ブッサーの言葉が頭をよぎった。


「目の前の敵は正しく恐れるべきだ。」


 あー、わかったよ。恋なんだろ? 認めるよ。俺は狩野に恋してる。熱中症なんかじゃない。なんとなくわかってたよ。


 俺はいたたまれなくなって、その場でしゃがみこんだ。そして一言こう呟いた。


「恋、恐ルベシ。」
















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