#17 奈落が開く

 赤く染まった空を、太陽が休息を求めて傾く頃、ようやくその日のプロモーションを終えて、幸樹こうきを後部座席に乗せた車は、住宅地に差しかかっていた。今日は香里かおりが多忙らしく、サブマネの神村かみむらという、幸樹よりやや年上の男性社員が、送迎を担当してくれている。


 このところ、KO-H-KIコウキが新曲を発売するペースはかなり早い。思い立つと即座に作曲にかからないと落ち着かない性分なのだ。そして作曲を始めると没頭し、スケジュールも食事も忘れ、電話やインターホンにも気づかないほどのめりこむ。香里や神村に心配される原因のひとつである。近年は配信という販売方法があるので、無理にCDに数曲詰め込まなくても売り出すことが可能だ。


「新曲もなかなかいい感触だね」

 神村に言われて、幸樹は軽くとまどった。

「まだまだ、だめですよ、こんなんじゃ」

 ミラー越しに、神村がじろっとにらんできた。

「……謙遜と卑下は、違うぞ」

「はい……」


 車が射水いみず邸の外門前に停まるのを待っていたかのように、門の明かりが、そしてその向こうで登り道の外灯が、点灯した。

「明日の午前中はオフな。昼前に永山さんが迎えに来ると思う。終わったら出張先に直行だから、旅行荷物持って出るのを忘れないように」

「はい」

 翌日のことを確認してから、幸樹は車を降りた。

「んじゃ、おつかれさま」

「ありがとうございました」


 神村の車を見送って、幸樹は登り道をぶらぶらと歩いて登った。プライベートの玄関で靴を脱ぎ、廊下に荷物を下ろす。リビングの固定電話にメッセージが入っていた。……伯母からだ。また連絡します、との内容に、幸樹はため息をついた。

 父・射水隆二りゅうじには姉がいる。幸樹はあまり会ったことはない。子どもの頃、はっきりとは覚えていないが、なんとなく「伯母さん嫌い」と感じて、寄り付かなくなった。その伯母は、父が亡くなってからしばらく、頻繁に電話をかけてきた。心配と説教という体裁をとっていたが、オブラートがあまりに雑すぎて、弟である射水隆二の遺産をいくらかでも自分のものにできないかという私利私欲のトゲが何本も突き出しており、母が応対に苦労していた。弁護士に一任していると繰り返して、ようやく切らせていただける、という種類の電話だった。最近はかなり頻度が下がったものの、それでも忘れた頃にかけてくる。……着信拒否したら、もっと面倒なことになりそうなので、放置という対策をとっている。


 伯母を頭から追放し、麦茶でひと息いれた。

 車内での神村とのやりとりを、思い出す。


 ……褒められるのは落ち着かない。称賛されるのは、何か違う気がしてしまう。


 嬉しくない、わけではない。だが、……褒められれば褒められるほど、釣り合っていない気がしてしまうのだ。そんなに褒めてもらえるほどのことを、自分はやり遂げていない。もっともっとがんばらなくては、その称賛には見合わない。そんなにも褒められることに、かえって困惑する。

 自分程度のレベルでそんなに褒められても、困惑する。

 もっとできなくてはだめだ。

 自分のようなだめな人間は、もっとがんばらないとだめなんだ。


 けれど、どれだけ頑張っても、どれほどの成果をあげても、自分で自分を「よくがんばった」と認めてやれることはないだろうと、なんとなくわかる。

 ――奇妙な渇望。

 それでも仕事に関して、メディアに紹介されるような場では、素直に「ありがとうございます」と言えるようになった。それだけは、事務所の人たちからしつこいほど指摘されたからだ。けれどもさっきの神村のように、気の抜けたところでああして褒められると、こんなんじゃだめなんです、と思ってしまう。

 あんなにたくさんの人が、褒めてくれる。自分の演奏を、作った曲を、歓迎してくれている。

 それなのに、大勢に褒められるほど、内心は焦ってしまう。

 オレは本当は、生きていたって仕方のない人間なんじゃないか。

 オレは親に、暴力で否定されて、捨てられるような、だめな人間だ。

 どんなに努力したって、絶対に報われないんじゃないか。

 こんなんじゃだめだ。こんなんじゃだめだ。もっともっと、がんばらなくては。……あの人に認めてもらえるくらいに。


 なぜ、だろうか。あの人は、もういないのに。オレに、あんなにひどい仕打ちをしてくれた人なのに。それなのにオレは、あの人に、認めてもらいたがっている。全世界からの称賛よりも、たったひとりに「よくやった」と言ってもらいたくて。


 ……永遠に満たされることのない、飢え。


 わかっている。あまりにもばかげている。だが、止められない。オレはなぜまだ、あの人の後を追っているのだろう。


 あれほどひどいことをしてくれた父なのに、父と同じ音楽の道を歩んでいる自分自身のことを、救いようのない愚か者なのではないかと、幸樹は考えることがある。

 音楽そのものは楽しいし、好きだ。父も、音楽に興味を示した息子を、自分と同じ道へ手を引く気満々で、嬉々としてレールを敷いてくれた。今自分がこうして音楽の仕事につけているのは、父のおかげであり、父の母校でもある音大の人々のおかげであり、父を通して知り合った多くの人々のおかげだ。父の恩恵だ。


 あれだけ暴力的で裏表のある人だった父の恩恵に、甘えて。


 ――そう思ってしまうと、このまま音楽を仕事にしていていいのかと、底知れぬ不安が襲ってくる。自分が踏み込んだのは、とんでもない底なし沼……というより、人食い沼だったのでは、という気がしてくる。

 だけど、今さら音楽を離れて、オレにできる仕事って……あるんだろうか。


 仕事先で弁当を食べたのが遅かったので、空腹感はない。夕食はなくてもいいだろう。リビングで麦茶を飲んで、ゆったり、というより呆然としていると、スマホが鳴り出した。香里からだった。


「はい、こう……」

「幸樹! もしもし!」

 香里の声は、聞き覚えがないほど切迫していた。

「やられたわ! 書春カクシュンほうよ!」

「…………え」

 突然幸樹は、自分の声がひどく遠ざかってしまったように感じた。


「次の号に出るのよ! 射水隆二のDV疑惑の記事が!」

「……………………」


 イミズリュウジッテ誰ダッケ……幸樹の頭は、思考も記憶もつながらなくなっていた。

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