#12 豪華な牢獄

 それから2週間ばかり、KO-H-KIコウキは忙しい日々を過ごした。番組収録、演奏会、CD及び配信会社との打ち合わせ、編曲作業、「ジャケ写」ほか宣材写真の撮影、挨拶回り、など。ほぼすべて、「射水いみず幸樹こうき」ではない架空のキャラをかぶりっぱなしで。休暇は細切れで、まるまる1日休めるチャンスはなかなか来なかった。出張もあった。射水隆二りゅうじが生前、国内数か所に確保していた拠点は、当人が亡くなった後に処分していたので、ホテルが必要だった。

 それでも――必ず、夜は来る。

 単なる疲労か。仕事中はハイテンションを保っていた反動か。それとも、やはり夜にはいいイメージがないためか。曲から解放され、生活音だけが鈍く意識の奥を通り抜ける静寂の中で、幸樹はそっと孤独に身をひそめる。飲み会も極力断り、テレビの音声も抑えて、幸樹はじっと、抜け殻のような静けさにこもる。何も考えないために。


 ……久しぶりに、昼前までで仕事から解放された日の午後、幸樹はリビングでカーテンを開けた。


 射水邸の裏側は――玄関の反対側を裏と呼ぶのなら、だが――木々が開け、丘の彼方の市街地と、遠くながら海を、望むことができる。裏庭にはバスケットボールのゴールやプライベートプールが、眺望を邪魔しないように置かれている。リビングから続くテラスにはリラックスチェアと小さなテーブルさえあった。こちらの庭には、仕事用玄関のがわからは、木々や塀や建物自体で巧みに遮蔽され、入って来られないようになっていた。

 大きな窓を開け、幸樹はテラスに出た。いい風だ。多忙と重責とに疲れていた射水隆二は、リラックスをも求めて自宅を設計したのである。焼き肉パーティの道具もどこかにしまってあるはずだが、ここ数年出番はない。両親がいなくなった後、最後に音大の悪友たちを招いて無礼講の焼き肉バカ騒ぎパーティをしたのは、いつだっただろうか。


 まだ午後も早い時刻だ。丘の下に、住宅地が、市街地が、そして山と海が、かすみながら優雅に横たわっている。暗くなれば、山と海とが夜の闇に沈むかわりに、市街地は無数のきらめきを装って、魅惑の宵を彩る。ここからでないと鑑賞できない宝石箱だ。毎年の夏祭りで打ち上げられる花火も、特等席でじっくり味わえる。

 この家は、音楽に携わる者にとって、理想的な家だ。時間も周囲も気にせず、音楽仲間も好きなだけ集めて、音楽を作ることに没頭できる。同じ建物内で、気分を切り替えてすぐ日常に戻り、存分にリラックスすることもできる。


 だが射水隆二の家族にとって、この家は牢獄でもあった。


 なぜ、この家から……父から逃げ出そうとしなかったのか。今となってはさっぱりわからない。外へ助けを求めるという発想が、あの頃はすっぽりと抜け落ちたように出て来なかった。物理的に近所が遠い(奇妙な日本語だ)、という要因もある。しかし、射水邸には外部の人もよく出入りしていた。父の行状を明かして助けを求めることは可能なはずだった。出張も多い父の留守中に逃げ出すことは可能なはずだった。母も、自分も。


 なぜ逃げ出さなかったのか……わからない。それどころか、自分のけがを見て心配してくれた人にさえ、本当のことを知られてはいけないような気がしていた。知られてしまったとき……自分の居所さえ失われるような気がしていた。もしそうなったら、……どうなってしまうのだろうか。想像することさえ恐ろしかった。底知れない暗闇の中に、ぬるりと吸い込まれてしまうような恐怖が襲ってきた。父に殴られ蹴られることとは、別の恐ろしさだった。

 父の暴力に身も心もすくみ上がり、逃げ出すという考えは頭をかすめもしなかった。成長してから、個室にこっそり内鍵をつけ、そこに閉じこもるのが精一杯の抵抗だった。


 母が逃げ出したのは、暴君が永久にいなくなった後だった。

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