#11 作曲家の華麗な仕事

 永山ながやま香里かおりは車を運転して、射水いみず邸に続く丘のふもとの門にたどり着いた。一旦車を降り、インターホンを押したが、返答はない。香里はセキュリティを自分で解除し、丘へ登る道に乗り入れた。マネージャーの香里は、射水邸の鍵を預かっており、出入りできる。さっき電話したときも返事がなかった。出かけたか、音楽に没頭しているか。出かけていたならそろそろ折り返しがあってもよさそうなものだ。幸樹こうきは、防音スタジオに籠ったり、作曲や演奏にのめりこんだりして、電話やインターホンに気づかないことがよくあるので、マネージャーにスペアキーを預けているのだった。頂上に着き、屋敷前の内門は問答無用で勝手に開ける。ガレージの扉は閉まっていた。今日は長居するつもりはないので、前庭のロータリーの端に停車する。ふたつの玄関、どちらのインターホンでも家中に聞こえるはずだが、マネージャーの礼儀としてひとまず、仕事用の大きい玄関に近づき、ボタンを押す。やはり応答はない。香里は解錠して玄関に入った。


「ごめんください……幸樹?」

 問いつつも靴を脱いで、勝手知ったる射水邸に上がりこむ。玄関すぐそばのサロンに首をつっこんだ。カーテンがおろされたままで薄暗い。そんな中でも幸樹はいることがあるので、香里は目をこらした――今日はいないようだ。

「幸樹?」

 隣接する音楽スタジオも無人だ。香里はあちこちのぞいた末、廊下の奥のドアから射水邸のプライベートスペースへ入りこんだ。


「失礼します。幸樹、いる?」

 リビングに顔を突き出してみた。ここにも……いた。ソファに行儀悪くうつ伏せになった姿勢で、幸樹が眉をしかめ、紙片に書き殴っている。周囲には、書き殴られた紙片、ぐしゃぐしゃに丸められた紙片、それらが無頓着に投げ捨てられている。テーブルの上にはスマホとタブレットが置いてあるが、紙片に半ば以上埋もれていた。


「幸樹」

 香里は呼びかけた。――返事はない。

「幸樹!」

 襟首をつかんで小さく揺さぶる。幸樹はびっくりして顔を上げた。


「あ……香里さん」

「……また没頭していたのね。お昼は?」

「まだです……」

「……朝は?」

「…………食べて、ません……」

「もう…………」

 ショルダーバッグをおろして、香里はため息を蹴飛ばした。


「いくら『降りてきてる』からって……」

「昨夜から気になってたモチーフがあって」

「昨夜から?」

「……作曲始めたのは、今朝からですけど」

 ずっと食事を抜いていたらしく、幸樹の返答には力がない。

「それでずっと、ここで作曲?」

「降りてきてたもので……」

「……とにかく食べなさい。休憩。なんか作ってあげるから」

「ちょっとこのフレーズだけ」

「できたら呼ぶから。そしたら作曲は休憩。いいわね!」

「…………はい」

 返事には力がなかった。今朝から食事を抜いているためか、香里の剣幕におされてのことか。


 作曲だけでなく、作詞や小説や絵、映画やコミックのシーン、さまざまな種類の企画に至るまで、クリエイティブな内容について、アイデアが不意に出てくることを「降りてくる」と呼称する人は多い。「降りて」きているときは、何をおいてもすぐそれをメモ程度でも記録しておこう、とする人も珍しくない。幸樹にもその傾向があった。

 昨夜見た、碧衣あおいの笑顔。車のヘッドライトをちりばめて、パールの中で微笑む、女神か妖精か――曲にしたい。画才があるなら、あの瞬間をそのまま描き留めたいところだ。幸樹は絵よりも、音に描く方に向いているようだった。パールの雰囲気を出すならピアノがいいだろうか。


「今日は何か」

 炊飯器に残っていた白米、ちくわの味噌汁、野菜炒め、きんぴらごぼうと漬物、といったありあわせのメニューをぱくつきながら、幸樹は今になってたずねた。香里は一緒に食べるどころか、椅子にもかけず、つくづくと幸樹を見やっていた。そもそも一膳しか用意していない。

「特にないわ。様子見に来ただけ。来てよかったわ、食事もしてないなんて」

 幸樹はきまり悪く下を向いた。ひと言もない。

「……すみません」

「まったく、音楽のことになると見境ないんだから。子どもみたいね」

 そういうところがお父さんに……言いかけて、香里は危うく破砕した。


「ええと……あ、あのNHHの件は」

「連絡しといた。回答待ち」

「あ、そうですか」

「明日の予定、わかってるわよね」

「はい」

「没頭するのもいいけど、夜はちゃんと寝なさいよ。明日しんどくなるから」

「わかってます」

「本当かしら」

「……………………」

 作曲に夢中になるあまり、次の予定を頭からすっ飛ばしていた――「前科」が複数ある身としては、黙るしかなかった。


「じゃね。明日7時半に迎えに来るから」

「あ、はい」

「見送りはいいから、食べなさい」

「……はい」

 香里はさっさとリビングを後にした。来た時と逆に通って、靴を残した広い玄関から射水邸を後にする。門をふたつとも自分で開け閉めして、丘から通りへと車を乗り入れる。


 ……あの子はまだ、地獄でのたうち回っているのかもしれない……。


 香里にとって、幸樹はいまだに「あの子」だった。かつて香里は射水隆二りゅうじの見習いマネージャーであり、父の弟子だった幸樹の音楽や進路について相談にも乗っていた。ほとんど幸樹の保護者のような気分だった。親子、と言って言えなくはない、ぎりぎりの年齢差だ。

 だから射水家の闇も感じ取っていた。

 ときおり幸樹がケガをして、ひどく暗い――というより、凍結した表情をしていた。理由を聞くと、友だちとケンカした、学校帰りに転んだ、体育でヘマをした……と並べたが、どうにも腑に落ちない感触が強かった。しかし幸樹は、それ以上を語ろうとしなかった。そしてときたま顔を合わせる幸樹の母、つまり射水隆二の妻が、同じようにけがをしていることがあり、同じように顔が凍りつき、同じように口をつぐんでいたこと……。


 香里の心に、ゆっくりと侵入してくるものがあった。水に落とした墨汁のように、ちぢれながら、だが確実に、ゆっくりと、ゆっくりと……。

 不吉な予感が。

 けれども……確証はなく、幸樹は頑として、同じ言い訳を繰り返すばかりだった。


 香里にとって、射水隆二は、幸樹の父親というだけでなく、重要な仕事相手だった。確証もないまま、「かもしれない」裏の顔を告発することは、巨大なリスクだった。告発は、爆発的な破壊をもたらすことが目に見えていた。――確証のないもののために。


 ……いいえ……確証があったとして、私は幸樹を守るために、行動できただろうか……。日本の音楽界にそびえる巨樹を、根っこから無理やり引き倒すようなまねが……。


 何より、その余波を真っ先にこうむるのが、幸樹とその母ではなかったか。たとえ、ある脅威からは解放されるのだとしても。彼らの生活に、取り返しのつかない亀裂が入り、粉々に砕けてしまうことを予測するのは容易なことだった。


 ……怖かったのだ。自分が行動を起こすことが、巨大な爆発を誘発するのだと思うと。


 しかし今、自身の中に渦巻く怒りと悲しみと虚しさを持て余し、自宅で感情に振り回されて暴れる幸樹を見てしまうと、……後悔が積もっていく。


 どうすればよかったのだろう。

 どうすればいいのだろう。

 私が……幸樹を、あそこまで追いつめてしまったのか。


 だから時折、用事がなくとも、幸樹の様子を見に行かずにはいられない。

 そして幸樹の、怒りにまかせて家具を蹴り倒す姿よりも、今日のように穏やかに過ごすさまの方に、苦い涙がこみ上げそうになる。

 あの子は今も、……地獄の中で、助けを求めているのでは……。

 ……車は、射水音楽事務所の入居するビルの駐車場へ吸い込まれた。



「……よし」

 幸樹はソファから起き上がった。テーブルからタブレットを「発掘」して引き寄せる。本格的にピアノを弾く前に、キーボードのアプリを使って、曲に肉付けをしていくのだ。ピアノを弾きながらでは記録しにくいことは、知り過ぎるほど知っている。タイトルは……ミッドナイトにすると、碧衣さんには俗っぽすぎるな。あえて「イブニング・パール」とか、どうだろうか。

 シンクに置きっぱなしの食器のことは、もうすっかり忘却の彼方だった。

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