中公文庫「給仕の室」など近代文学の同性愛サブカルチャーの定位問題

泊瀬光延(はつせ こうえん)

中公文庫「給仕の室」など近代文学の同性愛サブカルチャーの定位問題


  ~文庫『給仕の室』の解説を読んで思う



 令和4年の8月23日に刊行された「給仕の室」(中公文庫)、4月に刊行された川端康成「少年」(新潮社)と、このところ、いわゆるBL(ボーイズラブ)ブームに乗っての近代文学者の同性愛を含む文学作品が歴史の裏通りから次々と再認識されていることはまことに喜ばしいことと思う。図書館や文学館に行かなければ読めなかった作品がある普遍性を持っていれば、文庫本で一般読者にも読めるということは、現代を生きる人々の知性にも多々影響するのではないだろうか。


 さらに『給仕の室』や他の男性同性愛、男色(’だんしょく’とも、’なんしょく’とも)に関する書籍の解説を読むと、その範疇(確かにいわゆる平均的な指向ではないので「サブカルチャー」と呼ぶのが良いのか)における研究者達の興味深い文化論が花開いている。


 彼ら(女性研究者が多いので彼女らと言うべきか)の論点の根拠は、中世の稚児譚、井原西鶴の『男色大鑑』から大正期前後に芽生えた近代小説群、萩尾望都などに始まるBL(ボーイズラブ)漫画や小説、ブームとしての「やおい」、戦後の出版物では「JUNE」、「薔薇族」などなど多様である。


 しかし、研究者の解説を面白く読む反面、ある時代を当事者として生きてきた読者としての私は全てに関しての体験的記憶はないのである。あってもほんの一部だ。研究者達も、研究という日常での知識はあるだろう。だが、研究のプロセスにも拠るだろうが似たりよったりではないだろうか。また私も物書きの端くれなので全て懐疑的・批判的にまず受け取ってしまう。

 そのなかで文学的に納得するところもあり、できないところもある。


 このようなわけで、私にはそれぞれの研究者はまだこの範疇の「サブカルチャーとしての定位」に苦しんでいるのではないかと思われる。


 例えに出して申し訳ないが、『給仕の室』の解説を書かれた佐伯順子氏は室生犀星の『お小姓児太郎』『美小童』から、


「権力や身分の上下関係と結びついていた男色の暗黒面を明るみに出し、この世の栄華に対する諦念も含めた近代的な人間論となっている」


とされているが、私としては犀星自身ここまで考えて書いたのかは疑問と感じる。勿論、そう読もうと思えば読めることだが、もし私のように考える読者が他にいれば、「定位」に成功したとはいえまい。

 それでも佐伯氏の論調は力強く、誤解を恐れない複雑さで読者に迫ってくる。


 しかしここでは少しその熱情から離れて、こうも考えられるのでは、ということを述べようと思う。佐伯氏が重厚な機関車なら、私はその乗客で窓から顔を出して、先頭の蒸気機関部の煙突から勢いよく発せられる煙を眺めている乗客である。


 『お小姓児太郎』は確かに昔あったろう話を、近代の自我に目覚めた「犀星」が彼特有の’他人が負った切り傷を冷ややかに見る’ような「近代性」で書いたと思える。お小姓という立場の少年の心の機微をサディスチックな表現で書いている。鬱憤をはらされる髪結いは心ならずもマゾヒスティックな立場となるが、最後に復讐を遂げるようなことになり、作者はどちらにも与しない。登場人物はともかくも、作者に美小姓というものに憧れも何も無いように思える。


 『美小童』は『古今著聞集』からの有名な話からの翻刻である。


 古今著聞集「好色」第十一 323話目、「紫金台寺の御室に千住といふ御寵童ありけり」から始める物語である。


 今東光も、比叡山で発見した密教での稚児の扱いを認めた秘密の書『弘稚児聖教秘伝私』に興奮し、それを小説『稚児』にした時、この物語の翻刻を付与した。今東光の稚児物語は登場人物の設定を原典の『古今著聞集』よりかなり変えている。犀星と今、両者の作品の創作時期の前後関係は分からないが、犀星の作品のほうが早いと考えると、今は先輩の犀星のこの作品を知っており、それを凌駕するものを書こうとしたのかもしれない。


 この二人の作品の存在を加味すると、犀星の『美小童』は、芥川の同様の翻刻が有る中で、格調高い語り口を誇って昔語りをそのまま読ませようとした作品に思える。勿論、「稚児から稚児への恋」という原作にはない一味を追加している。犀星は作中で歌われる和歌の3つのうち、2つを原典からそのまま拝借している。もう一つは用例が見つからないので自作であろう。今東光は数首の和歌を自作している。また、「むばらこい雀を縫い合わせた紫の袴」というような誤用をそのままにしてあると思われる部分もあるので、犀星自身あまり力を入れて書いたのではなかったのかもしれない。(古今著聞集の原文は「むばらこきに雀」であり、「茨の小木と雀」の文様のことを言っている。なにやら色の濃いことと勘違いしたのであろう)


 話は逸れたが、私が言いたかったことは、つまりこの2つの作品は、佐伯氏が言うような読み方も出来るし、人によっては、しないほうが良いような作品なのである。


 前に、私が『サブカルチャーとしての「定位」が難しい』と言ったのは、作家・読者を含む人間の『性癖』、『嗜好』、『指向』の時間的・空間的な領域を数ページの言葉で表すのは可能であろうかということを常々考えているからだ。


 人間の「性」の指向性は、マイノリティーの性的特徴を表すLGBTQ+Aの象徴である「虹」が代弁するように「スペクトラム」の一点なのだ。


 しかも相手は、気まぐれな天才達が織りなす”文学”なのである。彼らは自分の性癖をそのまま書くものもいるが、隠し通すものもいるだろう。しかも書いているうちに筋書きや論点がどんどん変わっていくということも、ものを書いたことがある人には分かると思うが、ある。数千ページ費やしても全員が納得するスペクトラムを網羅する論考が書けるのであろうか。


 と言って心血を注いだ研究・論考をいちいち否定するわけにはいかない。その研究も「スペクトラム」の点あるいはその小集合とすると、無数が集まってはじめて大成するのだろうから。



注)「古今著聞集」は多くの研究者の努力で、現在活字版が一般公開され、全文インターネットで読むことが出来る。前述の一話は題名を検索すれば出てくる。


令和4年8月24日深夜

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