第31話 この家に母親の席はない

 なにがしたいのか。


 なぜそんな結論に至ったのか。


 頭の中が混乱で埋め尽くされる。


 それでも咄嗟に首をひねったことで、なんとか口と口での接吻は避けられた。


 ぶちゅぶちゅと音を立ててナメクジが数匹頬の上を這いずりまわる。


 不快感なんて言葉では言い表せない。


 生理的嫌悪感すら伴った、脳が意識を手放しそうになるほどの拒絶。


 かつてこの女性を愛したこともあったが、そんな記憶すら唾棄すべき想い出へと変わってしまうほどだった。


「ん~~~ぷはぁっ」


 八尋が離れた途端、生理的嫌悪感から頬を拭おうとして腕を頭の上で押さえつけられているのを思い出し、必死に顔を肩口に擦りつけた。


「…………どう、嬉しい?」


「そんな訳があるかっ! なにを考えているっ!!」


 激しく嫌悪していて、


「え、だってあなたが今さっき自分で言ったでしょう。家族を取り戻したいって」


「…………っ」


 確かに言った。


 言ったが、八尋から取り戻したいと言ったのだ。


 決して八尋を含めた元の家族に戻りたいと言ったわけではない。


 けれど、それをいくら説いたところで八尋には通じることはないだろう。


「どうせあなた女性から相手にされて来なかったでしょ? とっても気持ちよくしてあげるから」


「やめろ、触るなっ! 汚れるっ!!」


「そんなこと言ってぇ。大丈夫、私すっごく上手いから。何人もの男が虜になったのよぉ」


 自慢げに語る八尋のドヤ顔を見て、察した。


 八尋は自分に価値があると思っているのだ。


 彼女を買って来た男たちは、恐らく高額な金を支払って来たのだろう。


 それだけの値段が八尋という一人の女につけられている。


 だから、宝石かなにかのように絶対的な価値が自分にはあると思い込んでいるのだ。


「年中女を抱くことしか考えていないお前の客たちと一緒にするな!」


「はいはい、一度味わったら考えも変わるから」


 既に腕を押さえつけられているからか、暴れても拘束を緩めることすらできない。


 いやらしい笑みを浮かべる八尋の顔が、おぞましい化物のように思えてくる。


 男の私がまさか女性に襲われてこんな恐怖を味わうなど思ってもいなかった。


「やめろ、触るんじゃない! 私は本当に好きな相手としか関係を持ちたくないんだよ!!」


「私が全力だしたら一分もつ人は居なかったんだから」


「やめろ、やめろぉぉっ! 耳が腐るっ!!」


 ――突然、ふっと体が軽くなり、視界から八尋の下卑た顔が消え去った。


 なにが起こったか分からず呆けている私の上に「お父さん、こっち!」と美海の声が降ってくる。


 その声にすがり、私はほうほうの体で八尋から距離を取った。


「あ、ありがとう、美海」


 美海に手助けされて、なんとか上半身を起こす。


 未だに感じたことのない恐怖心で手が震えていた。


 もしかしたら自殺未遂を起こした美海が抱いていた恐怖もこんな感じだったのかもしれない。なんて、余計な考えが脳裏をよぎった。


「ごめんね、もっと早くに助けてあげられたはずなのに」


「美海に、無理……させるわけにもいかないだろ。こちらこそ、不甲斐ないお父さんでごめん」


 美海は母親である八尋を恐れていた。


 幼少の頃からずっと痛みを刻み込まれ続けたからだ。


 さきほど八尋を突き飛ばしたのだって、本当は怖くてたまらなかっただろう。


 それでも私を守るために行動してくれたのだ。


 私が守らねばならないのに、これでは騎士と姫が逆だった。


「美~海~」


 八尋のひと言でビクッと美海が体を竦すくめる。


「こういう時、アンタはどうすればいいのかきちんと教えたはずよねぇ」


 部屋の反対側でゆるりと立ち上がった八尋からの、遠回しな恫喝。


 邪魔だから今すぐ消えろと言っているのだろう。


 あの安アパートの部屋で八尋がをしていたのなら、あの狭くて暗い押し入れに……。


「ふざけ――」


「ふざけないでっ!!」


 激しい怒りを感じた私が怒鳴るよりも先に、美海が大声で八尋を一喝する。


「美海……」


 私が怒っていたように、美海も怒りを感じていたのだ。


 いや、私以上に激しい感情を抱いていた。


「あなたはお母さんとして失格なの! ここまで言っても分からない!?」


 それは初めての反抗。


 心の傷すら忘れてしまうほどの怒りを覚えて、八尋に逆らった。


 あまりのことに、さしもの八尋ですら硬直している。


 その合間にも美海の怒りは激しさを増していった。


「お父さんはあなたが要らないって言ったの! あなたが人間として最低だから、近づいても欲しくないって言ったの!! そんな簡単なことすら分からない程度の人間だったの、あなたは!?」


「……美海、もういい」


「あなたみたいにくだらない人間は居ないっ! 生きてる価値があるの!? お父さんを食い物にして、今もまだ寄生することしか考えてなくて、それがどれだけ醜いかも――」


「もういいっ!」


 私の静止で美海が押し黙る。


 目にいっぱい涙を溜めて。


 口を横一文字に引き結んで。


 悔しさに肩を震わせて。


「……もういいんだ。美海がそれ以上辛い思いをする必要はない」


 私が美海の肩を抱くと、限界に達していた泉が決壊した。


 わっと泣きじゃくりながら私の胸に顔をうずめる。


 怒り、悲しみ、嫌悪……。


 色んな感情が美海の中で渦巻いて、美海自身がどうしていいのか分からないのではないだろうか。


「八尋」


 片手で美海の背中を優しくあやすように叩きながら、この惨状を作り出した元凶へと視線を向ける。


「美海の言った通りだ。この家にお前の居場所はない」


「でも――」


「私たちは三人でうまくやっているんだ。邪魔しないでくれ」


 ふたりの子どもは涙が出るくらい良い子なのだ。


 そこに壊れる原因になると分かっている歪なパーツを受け入れるはずがなかった。


「でも、あなたを慰める妻が居ないでしょう?」


 いい加減、分かってくれても良さそうなものだが……。


 いや、もしかしたら分かっていてやっているのかもしれない。


 私に受け入れてもらえなければ、八尋にとっては人生の破滅だから。


「それは私にしかできないわよっ」


「悪いがそういう相手はもう居るんだ、諦めてくれ」


「だ、誰よっ!! そんなの浮気じゃないっ!!」


 思わず鼻で嗤ってしまう。


 婚姻関係は十五年前に解消しているのだ。


 そもそも売春行為をしている八尋に言われたくはなかった。


「とにかく私は諦めないわよっ!! あなたに私の味を知ってもらうからっ!!」


 そう言うと、八尋は自分の服に手をかけて――。


「んっ」


「え?」


 私の唇が泣いていたはずの美海に奪われる。


 八尋の、目の前で。

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