第28話 朝の話は冷たくて

 朝、目覚めた私の視界にまず飛び込んできたのは、美海の愛らしい寝顔だった。


 次いで、全身に甘い重みと軽い拘束を感じる。


 ぼんやりとした頭で記憶を探り、シングルのベッドで愛娘と抱き合い熟睡していたことを思い出す。


 美海を助け出してから2週間以上の時が過ぎ、私と美海は夫婦のような関係になりつつあった。


「……しかし、せまいな」


 美海と一緒に眠ることはやぶさかではない。


 けれど、ついつい劣情を催してしまうことは日常生活に悪影響を及ぼしかねなかった。


「初海に寝室を返してもらう……いやいや、なんでって思われても困るしなぁ」


 今初海が使用している寝室にはダブルベッドが置いてある。


 それならば美海と同衾しても狭い思いをせずに寝られるのだが……。


 いや、そもそも美海には自室にベッドがある。


 例え初海から返してもらったとしても、私の寝室に美海が来るのは不自然に過ぎた。


「……もう、言っちゃえばいいんじゃないかな」


 狸寝入りだったのか、私のひとり言で起きてしまったのかは定かではないが、美海が目をつむったまま会話に参加してくる。


「秘密にしないとダメだろ」


「え~、言っても初海なら祝福してくれると思うんだけど」


「それは……」


 言葉を探しながら美海の後ろ髪を撫でる。


 しっとりと柔らかで、しかもいい匂いがして、いつまででも触っていたくなるような髪質だ。


「美海が言う通りだとは思うけど……もしもの時もあるし、夫婦として扱ってくれている所を他人に見られたらいけないだろ?」


 初海は純粋な子だ。


 だからこそ、隠し事が得意なタイプではないだろう。


 私と美海の背徳的な関係を知る人間は、出来る限り少ない方が良かった。


「う~ん、まあやっぱりそうなるのかなぁ……」


 美海はあまり真剣ではない口調で同意も否定もしないまま話を切り上げると、私の服を掴んで猫みたいに顔を擦りつけて来る。


「美海、そろそろ起きる時間だぞ?」


「ん~~? もうちょっとだけこうしてたい~」


「今日から学校だからダメだって」


「やぁ~~っ」


 八尋から解放された美海は、驚くほど私に打ち解けてくれるようになった。


 口調が丁寧語でなくなったこともそうだが、こうして子どものように遠慮なく甘えてくるのだ。


 これがなんとも愛らしくて保護欲をそそるため、気を付けないと頬が緩み切って落っこちてしまいそうだった。


「我が儘言わない。ほら、離して」


「むぅ~~……」


 まだまだ時間的に余裕はあったが、豊満な美海に抱き着かれていると色んな意味で理性の方が危ない。


 朝から逢瀬を始めるわけにもいかないため、心を鬼にして美海を起こしにかかった。


「……なら、おはようのキスして」


「…………」


「はやく」


 ちょっと唇を尖らせ、顔をあげて口づけをせがんで来る。


 唇にしてとでも言いたいのだろうか。


 ペロッと一瞬だけ舌を出して桃色の唇を湿らせたのがひどく蠱惑的だった。


「…………おはよう」


 口づける場所を頬に変えるのには理性の総動員が必要だった。





「お皿並べといて」


「ん。トースターに食パン入れといていいよね?」


「ありがとう。焼き加減は?」


「半熟っ」


「了解」


 制服姿の美海と会話をしながら目玉焼きを人数分フライパンで焼いて朝食の準備を整えていく。


 美海も最初のうちは目玉焼きの焼き加減やかける物の種類でいちいち驚いていたが、今は当たり前のように受け入れていた。


「あれ、お父さんは半熟じゃないの?」


 フライパンから半熟目玉焼きをふたつ皿によそっていると、手にケチャップとウスターソースを手にした美海がこちらの手元を覗き込んで来る。


「ああ、ひとつ固焼きにしとけば初海が好きな方を食べられると思って」


「…………お父さん半熟派だよね」


「まあ、強いて言えばな」


 好みを言えば半熟だが、別段固焼きが出て来たからといってちゃぶ台をひっくり返すほどではない。


 義娘が好みに合った食事ができることの方が優先順位は高かった。


「…………」


「あ、次はお皿も持っていってくれるとありがたい」


「…………」


 いつもならすぐさま返事をしてくれるのに、なぜか今日は黙っている。


「美海?」


 不思議に思って名前を呼ぶと、やや不機嫌な感じで「はぁいっ」との声が返って来た。


「……ありがとう」


 不思議に思いつつも残った卵の面倒を見る。


 ほどなくして素直に目玉焼きも運んでくれたので、それ以上はまったく気にしていなかった。


 しかし――。


「み、美海?」


「なぁに?」


 しっかりと火を通した目玉焼きと、冷蔵庫から取り出した数枚のレタスとポテトサラダを手にして食卓へと振り向いたところで卵の黄身同様、私も固まってしまった。


「これはどうしたことかな?」


「なにかおかしい?」


 食卓に用意されているのは、トーストと紅茶、サラダに目玉焼きというシンプルなメニューの朝食だ。


 だが、問題はそこではない。


 置いてある場所だ。


「くっ付け過ぎだ!」


 キッチンに一番近い北東の位置に私の席が用意され、その左隣に美海の席。


 真正面に初海の席が用意されている。


 だが今日は私の席が美海の席とくっつけて置かれており、当然朝食の皿も一緒に並べられていた。


「でもこうしてたらお父さんに、あ~んって食べさせてあげられるかなって」


「だめです」


 体を触れるほど寄せあい、朝食を食べさせっこする父娘おやこ


 誰がどう見てもアウトな構図だった。


「む~~。お父さんと食べたいのに」


「だめですっ」


 今まで出来なかった行為を取り戻すかのように甘えて来る美海を突き離すのはやや胸が痛かったけれど、あまりにも危険な行為だ。


 突き離さなければならない。


 ただ、しゅんとしている美海の姿には来るものがある。


 仕方なく「ふたりきりの時にな」と付け加えておくしかなかった。


「じゃあ、今夜?」


「……初海からゲーム機を取り上げる理由を一緒に考えてくれよ」


「はぁい」


 子どもを早めに寝かせ、営みを隠れて行う夫婦はこういう感じなのだろうか。


「お父さん」


「ん?」


「――ちゅっ」


 料理で両手が塞がっていたため抵抗できないのをいいことに、美海が私の唇を奪って行く。


 もちろん、悪い気はしなかった。





 遅れて起きて来た初海を交えて朝食をとる。


 固い黄身を半分ほど征服したところで、私は一旦フォークを食卓に置いた。


「ふたりとも、ちょっといいかな」


「なに?」


「ん~あ~?」


 すっかり優等生モードに移行した美海の声と低血圧で辛そうな初海の声が返ってくる。


 ふたりの返事をしっかりと受け取ってから、食卓の上に用意しておいた物を手に取った。


 白くて光沢があり、少し厚みのある板に透明なプラスチックの板が張り付けられた物体――端的に言えばスマートフォンだ。


 それが、ふたつ。


「うえっ、スマホ!? いいの!? マジで!?」


 衝撃で初海の目も覚めたらしい。


「ふたりとも、これから言うことをよく聞いて欲しい」


 伸ばして来た初海の手のひらに、スマートフォンを乗せてやる。


 美海にも手渡してから真剣な表情で話を切り出した。


「調停……八尋との話し合いが出来なかったから、裁判所が審判に移行してくれたんだ」


「審判?」


 単語自体は知っていても具体的に何をやるのか分からないのだろう。


 初海が首をかしげている。


「初海がこの家に居られるよう、八尋から強制的にいろんな権利を取り上げるんだよ」


 あえて取り上げるなんて言ったのは、そうしかなり得ないからだ。


 証拠は十二分に存在し、八尋は審判からも逃亡するだろう。


 こちらが負けることは万に一つもあり得ない。


 私たちの要求は全て通ることは目に見えていた。


「ほーん……そうなんだ」


「…………」


 絶対分かっていないだろうが、初海に理解してもらうことが目的ではないためとりあえず脇に置いておく。


 必要なのは、これから話す危険についてだった。


「それで、だ。八尋からは権利だけじゃなく預貯金を含めた財産と、これからあいつが貰う給料の一部も取り上げるんだ」


「えっ。それ人生終わるじゃん」


「ああ、生き地獄だな」


 そう、八尋の人生は終わる。


 逃げずにいたら多少は温情が得られたのだが、それすらもない。


 完全に自業自得。


 自分の欲望のためにずっと他人を利用し続けた奴の末路だった。


 ついでに初海の親権を争うため、彼女の実父についても探索中である。


 こちらについては失踪したため慰謝料の時効を延長させている。


 見つけ次第請求する予定なため、十四年分の養育費も相まって相当な額を支払うことになるだろう。


「だけどな、初海。人生が終わるってことは守るものが何もないってことなんだよ」


「つまりお父さんは、私たちがお母さんから狙われる可能性があると」


 美海がいち早く私の言いたいことに気付き、私の言葉を先取りする。


「あくまでも可能性だけどな。それにもしそんなことになったとしても、一番狙われるのは私だろう」


 母親が自分たちに危害を加えようとしてくるなんて、最悪意外に表す言葉が存在しない。


 出来ればそんな未来は来てほしくなかった。


「学校の許可は貰ってある。万が一のためを思って持っていて欲しい」


 美海と初海が己の手の中にあるスマートフォンをおぞまし気に見つめる。


 私もスマートフォンさいしゅうしゅだんを使う未来が来なければいいと願ってやまなかった。

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