第19話 自分の娘と他人の娘

 自宅の前にタクシーが止まると同時に扉が開く。


「ようやく、か……」


 私のぼやきは長い一日だったという意味もあるが、もうひとつ重要な意味も持っていた。


「着いたよ」


 運転席の後ろに座る美海に声をかける。


 そう、美海だ。


 私の娘が、十六年という時間を越えて帰って来たのだ。


 まだ問題が山積みではあるのだが、それでも喜ぶべきことだった。


 ……私にとっては。


「……早く降りてください。私が降りられません」


 内心高揚している私とは裏腹に、美海の表情は暗い。


 先ほどまでベッドで見せていたような、悦びに満ちた顔は欠片も存在しなかった。


 もう、私たちは親子に、父と娘になったのだ。


 これからはどこにでもいるような普通の家族になっていくつもりだった。


「ごめん、今すぐ降りるよ」


「謝らないでください。そんなのが必要なことじゃ、ないですから……」


 どうにも美海の態度は固く、父親であった『おじさん』とどう接していいのか惑っているように見える。


 ただひとつ確実に言えることは、美海の態度が今までとは真逆になるということだ。


 救ってくれた『おじさん』には好意を。


 捨てて見向きもしなかった『お父さん』には拒絶を。


 だからあの時美海は『まだ』と言ったのだろう。


 寂しいが受け入れるしかなかった。


「……わかった」


 タクシーを降りて後部へと回り、トランクから教科書の入ったスポーツバッグをふたつ取り出す。


 と、横合いから手が伸びて来て、バッグの持ち手を握った。


「私が運びます」


「……女の子には重いと思うんだ」


 荷物に触らないで欲しい。


 そんな、嫌悪とも取れる思いが瞳には宿っていた。


「あと、運転手さんを待たせるのも悪いから」


「……分かりました」


 一瞬の沈黙の後、仕方なくといった感じで美海は手を離す。


 そして、バッグの隣に置かれていた、服などの小物がまとめて詰め込まれたゴミ袋を持ち上げた。


「これで全部だよね」


「はい」


 バッグふたつと四十五リットルのゴミ袋がひとつ。


 これだけ見れば大荷物なのだが、実際には美海と初海、ふたりの所持品全てをまとめてこれだけなのだ。


 あまりにも少なすぎた。


「明日あたりに買い物に行こうか。必要な物もあるだろうし」


「…………大丈夫です」


 にべもなく断られてしまった。


 これからもこんな態度を取られ続けるかと思うと気が重い。


 トランクを閉めて運転手に一礼して出発を見送った後、美海と共に家へと入り――――二人そろって絶句した。


「――――っ」


「…………なんだ、これ」


 靴箱からはいくつもの靴が飛び出し、玄関に散乱している。


 上がりがまちには空のペットボトルが転がり、その奥にある壁に埋め込まれた収納棚からは様々な物が転がり出ていた。


「まさか、八尋かっ!?」


 私と美海が荷物を取りに一旦あのアパートへと戻った時、八尋は既に逃亡した後だった。


 金銭的な責任から逃れるために蒸発したのかと思っていたが……。


 復讐、という線だってあり得ない話ではない。


 八尋はこの家を知っているのだから。


「――初海? 初海っ!?」


「待てっ!」


 血相を変えて靴を脱ぎ捨て、家の中へと駆け込もうとする美海の腕を掴んで引き止める。


 嫌われようと大事な娘を失うわけにはいかなかった。


「そばに居なさいっ。危険だ!」


「でも、初海が……」


「分かってる! とにかく私の後ろに居なさいっ!」


 なにか武器になりそうな物を探し、結局武器としては頼りない傘をひっつかむ。


 高校で習った剣道の記憶を記憶の隅から引っ張り出して構えを取ると、土足のまま家に上がった。


「初海、無事だったら返事をしなさいっ」


 一度家の奥へと呼びかけてみるが、反応はない。


 逃げ出して居ないだけならばいいのだが、彼女の靴は玄関に転がっている。


 恐らく室内にいる可能性の方が高いだろう。


「行こう」


「――はいっ」


 頷き合ってから歩き出す。


 服の裾を震えながら掴む美海が不憫でならない。


 なぜここまで辛い運命ばかり抱えて生きなければいけないのだろうか。


「……いざとなったら私を置いて逃げなさい」


「え?」


「いいね、約束だ」


「…………」


 了解は得られなかったが、分かってくれているはずだ。


 私は警戒を崩さないまま居間へと移動して……。


 テレビの前に置かれたソファの上で猫のようにうずくまる初海を見つけたのだった。


「……どういう状況だ……」


 居間も玄関と同じく色々なものが散乱して荒れている。


 しかし、誰かが暴れた影響で散らばったというよりは、何かを探すために色んな所をほじくり返したといった感じだ。


「初海、大丈夫?」


 とりあえず危険はないと判断したのか、美海が寝ている初海の肩を揺さぶり始める。


 私も傘を下ろし、ついでに靴を脱いで底を上にして床に置いた。


「初海、起きて。ねえっ」


「んにゃ……?」


 家に怒鳴り込んできた子とは思えないほど愛らしい、それこそ猫の様な動きで顔をこすりながら目を覚ました。


「あれ……美海ねぇ……朝ごはんまだ?」


「なにを寝ぼけてるの。今は六時……午後六時すぎだから晩ごはんでしょ」


 そういう問題でもないと思うのだが、ツッコミはしないでおく。


「とにかくきちんと目を覚まして。なにがあったか教えて?」


「ん~あ~……」


 ぼぅっとした様子の初海がソファの上で起き上がり、大胆に足を開いた状態で腰を下ろした。


「――いっ」


 意外にも白。


 いや、違う。


 たまたま視界に入って来ただけだ。


 なんて心の中で言い訳しつつも視線を逸らす。


「……お父さん」


「な、なにかな」


 記念すべき初お父さん呼びは、若干殺意が籠っていた。


「…………」


 射貫くような視線が注がれたが、素知らぬふりを貫き通すとなんとか許してもらえたかもしれない。


「初海、なにがあったの」


「え~っと……あ」


 くわっと初海の目が開いたかと思うと、傍らにあったゲーム機の上にガバっと覆いかぶさる。


「み、見た?」


「ん? 私に話しかけているのか?」


 初海の目線は美海を通り越して私に注がれていた。


「まあ、ゲーム機なら見たけど……」


「うわぁぁぁぁ。だよな~~。やっべ~~」


「いや、だからなに?」


「うぅ……」


 しばらくひとりで騒いだあと、初海は渋々お腹の下からゲーム機を取り出した。


 そして、ゲーム機本体と外れたコントローラーを別々に手のひらの上に乗せ、おずおずとこちらへ差し出してくる。


「……あのな。その……」


「ちょっと待ってくれ」


 先の展開が読めてしまい、思わず顔を押さえて横を向く。


 まさかとは思うが、初海は壮絶な勘違いをしているのではないだろうか。


 先ほどまで身の安全を案じていたのに、こんなオチだなんて……。


 あまりの落差に全身の力が抜けてしまった。


「おーけーだ」


 何でも来い。


「ごめんなぁ。なんか、壊しちゃって……。接着剤探したんだけどなくってさ」


「うん……」


 見つからないで良かった、ホント。


 見つかってた方が大惨事だよ。


「買いに行こうと思ったけどアタシ金もってなくて……。そんでどうしようか悩んでたら……寝ちゃった」


「寝ちゃったかぁ」


「べ、弁賞とかはお金ないから無理だし……だからごめんっ、許して?」


 可愛く言っても許されない事はある。


 ゲーム機はなかなか高価なしろものなのだ。


 ただ……。


「許すも何も……」


「あっ」


 ひょいっとゲーム機を取り上げると、そのままかちりとコントローラをはめる。


 もちろん問題なく動作した為、どこも壊れてなどいなかった。


「こういうもんなんだよ。知らなかったのか?」


「ふへ?」


 きょとんとした顔でゲーム機と私の顔を交互に見て……。


「…………っ」


 だんだん顔が真っ赤になっていく。


 さすがに自分のあり得ない勘違いが恥ずかしかったのだろう。


「ま、まああの部屋にはテレビも無かったもんな」


「~~~~~~っ!!」


 ずぼっと音を立ててソファに初海が突き刺さる。


「いや、猫か」


「令次のバカっ! アホっ!! そんな罠仕掛けて楽しいのかよっ!!」


「初海が勝手に勘違いしたんだろうに。私のせいにするな」


「うるさいっ! ばーかばーかばーか!」


「バカでいいから片付けはしなさい。お前が散らかしたんだろ?」


「うっ」


 この誰かが襲撃してきたような惨状は、慌てた初海が全てやらかしたものみたいである。


 なんともまあ騒がしい子だ。


 ただまあ、なんとなく憎みきれないのも事実なのだが。


「さて、と。玄関に置いてきた荷物は私が取って来るから美海は食事までゆっくりするといい。疲れただろう?」


「結構です」


 美海は先ほどの騒動にも表情ひとつ変えず、片付けを始めてしまう。


 その背中は、明確な拒絶を示していた。


「…………そう、か」


 娘として扱えない実の娘と、十年来の家族であるかのように言い合いができる初対面の他人。


 親権や養育費などの解決していない問題。


 前途多難な未来しか見えなかったけれど、とりあえず娘たちが無事で心底ほっとしたのだった。

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