第12話 会話にならない会話。すれ違いにすらならない想い

「や、やめ――助けてぇ! 誰か助けてぇ!! 殺されるぅ!!」


「――――っ」


 力で敵わないと悟った八尋がひたすらに叫び声をあげる。


 もちろん、殺されるなんて嘘だ。


 私は組み付いてスマホを取り上げようとしているだけ。


 殺意がないとは言わないが、殺人など犯して美海が助けられなかったら本末転倒なのだから。


「づっ」


 焼けるような痛みが右目に生まれ、思わず首をのけ反らせる。


 スマホを持っていたのとは逆の手が振るわれ、偶然にも目の中に入ってしまったのだ。


 半分になった視界の中、鬼のような形相で必死に抵抗を続ける八尋がいた。


 こんな事態になっても、自分だけは守ろうとする。


 暴力を振るうつもりはなかったが――。


「いい加減に……」


 時間がない。


「しろっ!」


 怒声と共に、額を八尋の顔面に叩きつける。


 途端、抵抗が止み……代わりに爆発的な号泣が始まった。


「あぁ~~殴られたぁぁ~~! 殴られたよぉ~~! 血が出てるぅぅ! だれかぁ! 助けてぇ!! 殺されるぅ!!」


 ウザいどころの話ではない。


 こちらは目玉をえぐられるところだったのだ。


 今だってまだ右目を開けることはできない。


 けれど言い返している暇も惜しかった。


 抵抗が止んだのをいいことに、スマホを取り上げてタップする。


「……パスワードはなんだ」


 残念ながら画面には十の数字が並ぶだけで望む情報を得られそうになかった。


「だすげてぇ~~! 死ぬぅ! 殺されるぅ~~!! 苦しいぃ~~!!」


 頭突き以外は何もしていない。


 パッと見ただけだが出血だってしていなかった。


 ぜんぶ、被害者になって今をうやむやにすること。それだけが目的なのだ。


 これから先、自分がやってきたことが全てつまびらかになった時のことなど考えてはいないのだろう。


「スマホのパスワードを言えっ!」


『右手の親指っ! たしか指紋登録してるっ!』


 胸元から女の子の、初海の声が届く。


 正直な話、存在そのものが思考の外にあったのだが、まさかこれほどのいい助言をくれるなんて驚きを隠せない。


「助かった」


「初海、あんた酷いよっ!!」


 先ほどまでの被害者面はどこへ行ったのか。


 いや、それ以前に我が子を脅すなんて、もはや八尋の思考は理外にあった。


「うぎっ」


 スマホをポケットに入れた後に八尋を捕まえると、容赦なく右腕を捩じりあげ、背中に押しつける。


 異常な思考をしていようと、力は並の女性でしかない。


 抵抗したところでさしたる問題ではなかった。


「い……ぎ、いだいいだぁーっ!! やめ、ホントにやめてぇ!」


 悲鳴に本気の色が混じり始め、すこし決意が緩みそうになる。


 けれど、それで被害を受けるのは美海だ。


 まともに会ったことすらない娘とはいえ、失われることは絶対に避けたい。


 だから心を鬼にして告げる。


「親指を出せ。手を広げろ」


「やめてぇ!! 痛いのぉ!! 痛い痛い痛い痛い!!」


「親指が先だ!」


 最後の抵抗とばかりに、八尋は親指を手の中に固く握りこむ。


 どうあってもスマホの中身はみせないという意思を感じた。


 この手を開かせるために、より痛みを与えてもいいのか考えた瞬間――。


「づぁっ!!」


 二度目の灼熱が足の甲あたりに生まれる。


 だが、今度は一瞬で消えることはなく、じりじりと足を焦がし続けた。


 見れば不格好な体勢でありながらも八尋が細いカッターナイフを足首あたり突き立てていた。


 今までの嘘も、悲鳴も、抵抗も。なにもかもが全て自分の為。


 自分が助かるためならばなんでもやる。


 例え娘だろうと道具として使う。


 そういう女なのだ、こいつは。


 会話など始めから意味が無かった。


 必要なモノは力尽くで奪うしかない。


「…………っ」


 右足をえぐられつつも、左足の膝を八尋の背中、肩甲骨の間に押し付けて体重をかける。


 カエルが潰れたような鳴き声をあげるが知った事ではない。


 腕を折れるかと思うほど捩じりあげ、手のひらを無理やりこちらへと向けさせる。


 人差し指。中指……と一本ずつ指を引き剥がしていき――。


「――はぁっ」


 ようやく親指を露出させることに成功した。


 カギとなる親指だけを握って持ち上げながら、空いている手でポケットからスマホを取り出す。


 そうしている間にも、八尋は他の指で手の甲などを引っ掻いて来る。


 皮膚が破れ、いくつもの赤い筋が生まれるが、歯を食いしばって耐えながらスマホに八尋の指を……押し付けた。


「開いた……!」


 スマホの画面が明るくなり、様々なアイコンが浮かび上がる。


「初海っ! なにか心当たりはあるか!?」


 胸元に向かって怒鳴りつけると、『なに、どういう状況!?』という当惑した声が返ってくる。


 確かに、物音だけしか初海には伝わっていないのだ。


 急いで口頭で状況を教える。


『多分、SNS。DMでお客さんと連絡してたから!』


 初海の情報に従ってすぐさまアイコンをタップすると――。


「うわっ」


 出るわ出るわ、客らしき男たちとのピンク色に満ちた会話が溢れ出してくる。


 これほど欲望にまみれた会話をしながら一日を過ごしていられるのか、すこし八尋のことがおぞましくなってきた。


「……これか?」


 タイムライン的にはだいぶ下の方にあるため、直近の連絡はない。


 けれど、最後の会話に『あの件のことはアプリで』とある。


 少しくさい会話に思えた。


「この、Tさんって人と何かしたのか?」


「…………」


 沈黙を肯定とみなして別のアプリを探すと、それらしきアプリはメッセージアプリしか存在しなかった。


 それを立ち上げてみたところでメッセージは一切ない。


 その代わりに大量の通話履歴があり、今朝にも連絡を取っているのが分かった。


 となると残る可能性はひとつ。


 本当に危険なやり取りは、証拠が残らないようにこういったアプリで直接話すようにしているのだろう。


「私との離婚で学んだことが証拠隠滅の方法か。本当に救いようがないな、お前は」


「…………」


 全ての秘密を白日の下に晒されたことで、八尋の抵抗が止む。


 終わったと絶望感でも味わっているのだろうか。


 こちらはまだこれからだというのに。


「……どうするか」


 今美海がどこに居るのか、何をしているのかすら分からない。


 唯一の手掛かりは八尋のスマホだけ。


 連絡を取ることは可能だろうが、それで大人しくこちらの要件を飲んでくれるとも限らない。


 最後の最後に美海へ嫌がらせをすることだって考えられた。


「…………」


 ひとつだけ、方法がある。


 けれどその方法は、この場所では実行することが出来ないものであった。


「八尋。美海の親権についてはまた今度弁護士を入れて話をしよう。それから、お前が着服した養育費のことについてもきちんと聞かせてもらう」


「――っ!! 知らないっ!! 私は使ってないのっ!! もうあの子が自分で養育費を管理してるからっ!!」


 親権よりも自分のことか……。


 もう突っ込む気力すら湧かなかった。


「スマホは証拠隠滅されると厄介だからこのまま持っていく」


「なんで!! 泥棒!! 酷い!! 警察に――」


 なにか八尋が騒いでいたが、もう会話をするつもりがない私は無視してそのまま続ける。


 聞いていなければ、聞いていない方が悪いのだ。


 確かに窃盗が成立するかもしれないが、警察ならばむしろ呼んでみろという意気だった。


「弁護士を入れて話し合いをする時に返す。もちろんその時にSNSでの会話はすべて弁護士に証拠として確認してもらう。嫌とは言わせない」


 まだなにかぎゃーぎゃー騒ぎ立ててはいたが、一切を無視して八尋の上から退く。


「必要なことがあれば弁護士の前でき――」


 ギラリと不吉な光が瞬く。


 まずいと思うよりも先に、反射で持ち上がった腕にカッターナイフの刃が突き立ち、砕ける。


「――いっ」


 起き上がりざまに八尋が持っていたナイフで切り付けて来たのだ。


 もはやなりふり構わないらしい――。


「あぁぁぁぁっ!!」


 八尋は折れた刃を突き出してくる。


 無抵抗であれば、間違いなくこちらが殺されてしまうだろう。


 もう、正常な倫理観すら失ってしまったのだ、この女は。


「くそっ!」


 既に傷ついた腕を盾代わりにして八尋へ肉薄すると、思い切り突き飛ばす。


 八尋の体がふわっと浮いたかと思うと、そのまま背中から転倒した。


 その結果を最後まで見ない内に、私は部屋を脱出して背中をドアに押し当てる。


「…………」


 一瞬の静寂が辺りを包み、もしかしてやり過ぎたかと思ったのも束の間。


「返せっ!! 返せぇっっ!!」


 という怒声とともに背中に強い圧力がかかった。


 一応無事だったことに少しだけ安堵しつつ――もちろん私が殺人犯にならなかったことにホッとしたのだが――胸ポケットに向けて声をかける。


「初海っ」


『なに!? なんか凄い声がするけど、大丈夫なの!?』


「それより頼みがある。嫌でもやってもらいたいことがあるんだ」

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