第2話『居酒屋』

 カウンセリングルームの終業は、基本的には午後五時までとなっている。それ以降は予約制である。その日は放課後の予約も無く、真鍋は定時で上がった。

 家に帰る道中、コンビニに寄った時だ。

 ジャケットの内ポケットで振動したスマホを、真鍋は取り出した。メッセージが入っている。


『時間があったら飲まない?』


 飼い猫だという三毛猫の画像のアイコン。同僚、同期、そして何より、星庭の担当であるカウンセラー。崎谷秀哉さきたにとしやだ。ちょうどいい、と真鍋は承諾のメッセージを返す。どこで待ち合わせるか、適当にやり取りをした後にコンビニを出て自転車に乗る。

 飲み、と言っても酒を飲むわけじゃない。お互い酒は苦手だった。居酒屋やファミレスで飯でも食わないか、という類の誘いなのだが、たいていの場合、意見交換ばかりに話題は終始している。しかし、仕事上の付き合いだから、というわけでもない。真鍋と崎谷は、大学のころからの仲だった。



 駅前で待ち合わせて、よく行く店に足を向けた。居酒屋風の、チェーン店のファミレスだった。適当な座敷に上がって、枝豆や焼き鳥を店員に頼む。

「神田理菜って生徒、知ってるか」

 ドリンクバーで飲み物を取ってくるなり、真鍋は言った。世間話も無く仕事の話になるのは、二人にとってよくあることだった。ああ、と崎谷は頷いて、

「名前だけなら聞いたことがある。とても優秀な子らしいね……その子、どうしたの?」

「ちょっとな――」

 掻い摘んで話をすると、崎谷は「なるほど」と真剣な顔をして呟いた。

「今のところ問題はなさそうだけれど、ただ、長期的にフォローしなきゃいけない事案かもしれないね」

「お前もそう思うか」

「うん。教えてくれてありがとう」

「礼を言うようなことじゃないだろうが……まあ、どうも」

 律儀であり、誠実であり、仕事にのめり込みすぎている。そんな傾向が崎谷にはある。だが、そういう性分だからこそ、人からの信頼を得られやすい。信頼はカウンセラーにとって最も必要な素養だ。人に安心感を与え、会話を引き出し、カウンセラーが話したことにも共感を覚えてもらいやすくなる。崎谷は、そういった感覚が抜群に優れていた。

「そっちはどうだ? 今日はメインだっただろう」

 メイン、とはメインオフィスのことだ。真鍋と崎谷、二人が所属する派遣会社は、カウンセリングルームも持っていた。二人とも、週に三回――つまり星庭に出向いていないときは、メインオフィスでカウンセリングを行っているのだった。

「ああ、ちょっと……厄介というわけではないんだけれど、気になることがあった。今日はそのことを話したくて」

「気になること?」

「……ナナイチの件でね」

 殊更に声を潜めて告げられた言葉に、真鍋は真顔になった。

 ナナイチ――それはある事件が起きた日から取られた名称だった。

 7月1日。星庭学園で自殺者が出た。いじめの末の自殺だったと言われているが、本当に自殺があったのか、いまだに真相が分かっていない。ワイドショーを一時賑わせたが、学校側が徹底して調査を行ったおかげで、事件はすぐさま沈静化した。真相が分かっていないのに『終わったこと』となってしまったのは、学校側に責任が見当たらなかったためだ。

「関係者か?」

「生徒の親御さん……なんだけど。被害者の親族と、ちょっとね」

 ああ、と返事をしながら苦い顔になる真鍋。崎谷も、眉をひそめている。

 学校側に自殺の原因は無かった。これは明白だった。何故なら、原因があったのは家庭だったからだ。親による虐待。しかも目に見える虐待ではなく、言葉によるものだ。被害者の親とは言うが、実質的には諸悪の根源、加害者と言ってもいい。それが露見したのは、生徒が学校に隠した日記が見つかったためだった。

 何故もっと、早くに相談してくれなかったのか――と。職員も学友も頭を抱えた後味の悪い事件だった。

「親族って、どういう関係だ」

「分からない。口ぶりからそうだろうってだけで。町内もSNSにも、暴言を撒かれたみたい。ただ、直接的には何もされてなくて……警察に相談しても、今のところ立件は難しいって」

 よほど巧妙に嫌がらせをしているのだろう。やるとしたら民事で、とも崎谷は付け加えたが、疲弊した人間にとって、加害者と直接的に裁判でやり合うのは負担が大きすぎる。

「ともかく……相手の異常性が明らかな以上、敵の敵は増えても敵の味方は増えないし、こちらは一人でも多くの味方をそろえた方が良い……とはアドバイスしたんだけど」

「根本的な解決はできない、と」

「今は味方と証拠を増やしつつ、心の安定を取り戻すしかない。クライアントもその方向性で動くそうだけれど……子供のことが心配だって」

 そうだろうな、と真鍋は首肯する。大人ですら、知りもしない第三者に好きなように言われることにストレスを感じるのだ。子供のストレスは大きいだろう。事実、ナナイチ事件の後はいわれのない、ネット上における誹謗中傷で傷ついた生徒がひっきりなしに現れ、相談室は人が途絶えなかった。生徒だけでなく、時には職員すらも相談に来るほどだった。

「あの事件は、まだ終わってないんだな」

「そうだね。あの学校とうちが契約してからもう一年近くになるけど……爪痕はずっと残っている。できる限りのことはしていこう」

「……ああ」

 肯定し、しかしすぐに真鍋は「無理しすぎるなよ」と言った。崎谷は、クライアントに入れ込みすぎて自分で仕事を増やすこともよくあった。親身になっているとも言えるが、首を突っ込みすぎているとも言える。あくまでも、自分たちは仕事で人々に関わっている。分不相応というか、抱えきれない仕事をしようとするのは間違っている。

「悪いね、心配かけて」

 崎谷は笑う。真鍋は、何故かその笑みに苛立ちを覚えた。

「余裕そうだな」

 意図せず、嫌味な声が出た。ただ、崎谷はそうとは感じなかったのか、笑ったまま言った。

「そうでもないよ。でも、できる限りのことはしたいからさ」

「……そうだな」

 そういうやつだよ、お前は。真鍋は声に出さずに思った。自分の負担より、人のため。素晴らしいことだと、妙に皮肉げな気分になる。

 いや、実際、素晴らしいのだ、崎谷は。

「お前の頑張りには尊敬するよ。俺には真似できない」

「どうしたんだ、急に」

 苛立ちと同様に、尊敬の念も唐突に湧いて、そのことに真鍋は動揺する。近頃は、いつもこうだ。あるいは常にそう思っていて、場面ごとにどちらかの気分が顔を出しているのかもしれない。

「……星庭じゃお前に感謝してる生徒が山のようにいるだろう」

「それは、僕に限った話じゃないよ。真鍋だって……」

「そういえば、不登校になってた……葛城だったか。彼も最近になって、やっと戻ってきたんだろう」

「え……うん」

 フォローされそうになって、真鍋は話題を変える。そこからは、戻ってきた生徒の話になった。ナナイチ以降、学校に来られなくなった子供が何人かいた。ほとんどが戻ってきた。そして、そのほとんどが、崎谷のおかげで戻ってこられた。これは真鍋の主観でもなんでもない。生徒の様子が一番よくなったのは、崎谷がカウンセリングを受け持った後ばかりだった。お礼の手紙にも、崎谷を名指ししたものがよくあった。

 全て崎谷の手柄、というわけではない。それでも、彼の功績は大きい。


(――手柄……功績……何考えてるんだ、俺は)


 立ち直ることができた人を、まるで成果物のように言うなど。そして、それを妬むかのように思うなど。

「すみません、ビール一杯」

 気づけば真鍋は、近くを通りがかった店員にそう言っていた。崎谷は目を丸くする。

「真鍋? 君、自転車で来てたんじゃ……」

「お前が乗って帰ってくれ」

 急な話に、崎谷は嫌とは言わなかった。困ったように笑って「飲みすぎるなよ」と言ってくる、温和な笑顔に、真鍋は何とも言えない気持ちになった。

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