そして、はち切れるほどに満たされる

羽生零

第1話『相談室』

「……だからもう、勉強したくなくなっちゃって……」


 小さな、本当に小さな声だった。真鍋優輝まなべゆうきはことさらに耳を澄ませてその声を聴いていた。分厚いカーテンが外光を遮ってはいるが、外の喧騒の全てをシャットアウトすることはできていない。校庭で、あるいは校舎内ではしゃぐ生徒の声が、目の前の女子生徒の声をかき消けしてしまいそうだった。

「どうしたらまた、勉強が楽しめるようになるんでしょう……」

 うつむけていた顔がわずかに上がる。一拍置いて、真鍋は微笑みを向けた。

「神田さんは、勉強を楽しみたいんだね」

「……はい」

「でも、人と比べてしまって、勉強が楽しくなくなったんだね」

 はい、と消え入りそうな声。真鍋は頷き、

「他の人を気にしないようにするのは、きっと難しいんだよね。同じクラスの人だから、目に入らないようにするのもできなくて……」

「はい、そうなんです……」

 神田理菜かんだりなの悩みはだいたい把握できた。ただ、対処することは難しい。劣等感はどうしようもないものだ。数字として、実力が目に見えるときはなおさら。根本的な解決は望めないだろう。

「私の方から、一つ質問していい?」

「はい……」

「神田さんが楽しみたい勉強って、どんなものなのかな?」

「え? えっと……」

 思ってもみなかった問いだったのだろう。理菜は口ごもり、数秒ほど考え込んだ。

「学校でする勉強以外は、どうかな?」

 真鍋が質問を継ぎ足してみると、理菜は首を傾げていた。

「学校以外の……?」

「神田さんの話を聞いてると、勉強することそのものが好きなのかなって感じたんだけど」

 違うかな、と聞くと、理菜は首を傾げ、そして小さく首を縦に振った。

「図鑑とか……見るのは好きです」

「うん。他にもあるかな?」

「……えっと、実は……車とか、電車とかも……」

 そうなんだ、と相槌を打って二、三車種のことを真鍋は尋ねる。どこの会社から、どんな車が売り出されているかというだけでなく、どうやら車の特徴まで掴んでいるらしい。電車についても同様で、知っている物事の幅はかなり広いことがうかがえた。

「色んなことを知っててすごいね」

「いえ……」

「知識の幅を広げることって、なかなかできることじゃないと思うよ」

 そう言われ、照れたように理菜は笑った。褒められること、承認されること。決してそれを求めて知識を身に着けたわけではないのだろう。しかし、人と自分を比べて気にするということは、少なからず、知識の多さや客観的な評価が気になるということだ。理菜が言ったような、いわゆるオタク趣味――しかも男性的だと思われるような趣味は、知識を得てもどこか後ろめたいような気持になってしまう。特に、女子生徒には多い傾向だった。

 理菜は知識欲を満たしたいタイプだ。それは恐らく間違いない。ただ、得られた知識が社会的に評価されにくいことで、自己評価が低くなってしまっているのだろう。

「勉強に限らず、色んなことを学んでいく方が、神田さんの気持ちにはマッチしてるんじゃないかな?」

「……そうかもしれません」

「いまの神田さんは、他の人が知らないようなことをたくさん知っているし、勉強もできるから、他の人が知っていることも、同じように知ってるって状態だと思う。土台はみんなと同じだけど、同じ土台の上に、とっても立派な家が建ってるようなものだとは思えないかな?」

 理菜は数度瞬きをして、それからゆっくり微笑んだ。満面の笑みとはいかない、どちらかといえば苦笑に近い笑顔だった。

「そうかもしれませんね」

 納得できたわけではないだろう。言われたことは一時しのぎだと感じるかもしれない。ただ、一時的にでも、自分を騙すような形でも、自分は知識で劣っているかもしれない――そんな気持ちから目を背けなければ、潰れてしまう時もある。全てのことに折り合いがつけられるわけではない。高校生とうい年ごろは特に多感で、少しのストレスを何倍にも増幅して感じてしまうこともよくある。

「神田さんの気持ちは、すぐには折り合いがつけにくいかもしれない。大人になったら大丈夫になる、っていう保証はないけれど……いまは無理して勉強を楽しむんじゃなくて、他に楽しめることがあるって割り切った方が、少しだけ楽かもしれないね」

「はい……そう考えてみます」

「何が正しいってことは無いから。無理して一人で考えなくて大丈夫だよ」

 理菜は頷き、

「今日はありがとうございました」

 そう言いながら席を立った。またいつでもおいで、と言うと、理菜は深く頭を下げて、相談室から退室した。


 一瞬、外の声が大きく聞こえて、それからまた音が遠ざかる。


 真鍋は深く息を吐いた。――難しい子だった。なまじ頭が良いだけに、自分の問題を正しく理解していて、それでも制御できない感情に振り回されて、傷ついている。下手な慰めや同調も効果が薄いタイプで、しばらく抑え込めたとしても、またストレスをため込んでしまうかもしれない。

「これは共有案件だな……」

 用意してあったノートに、相談者と相談内容を書き込んでいく。生徒の問題を共有するための日誌だった。

 真鍋優輝はスクールカウンセラーだ。しかし、学校に直で雇われているわけではない。真鍋は派遣会社の契約社員だった。近年需要が増えてきたカウンセラー、特にスクールカウンセラーを派遣するために設立された会社はまだ新しい。やり方が確立されているわけでもない分野で、個人情報である相談内容を記すことに抵抗を示す学校も多い。が、今のところこの学校で日誌に対する不満は出ていない。

 私立星庭せいてい学園。首都圏にあって、特に目立ったところも無い学校だった。

 ただ、どのような学校だろうが、生徒が持つ悩みというのはどこも大して変わりがない。

 だからこそ、相談内容のケース化が必要なのだ。と真鍋は思う。悩みの分類化。それに対する助言の分類化。人によって悩みは千差万別と言う人もいるが、先例に学ばず自分の頭だけで結論を出しても、良い結果は生まない。

 こうして日誌を作ることで、相談案件は先例になり、後の相談者の役にも立つのだ。

 ――が、それはそれとしても、今回は他のカウンセラーとの連携が必要になりそうだった。

 星庭学園は週に五日、カウンセラーを頼んでいる。平日全てにカウンセラーを設置する学校は珍しい。カウンセリングルームの設置に当たって、いじめ問題があったというのが大きな要因だったのかもしれないが、毎日、しかも複数人の担当をつけるというのは合理的だと真鍋は思っていた。

 星庭に入っているのは三人。月水曜に真鍋が入っている他、火木曜で男性カウンセラーが、金曜には女性カウンセラーがそれぞれ入っている。

 生徒によって、カウンセラーの相性はある。それをなるべく補う采配は、金がかかるがその分有用だ。ただ、複数人契約も、的確な連携が無ければ効果は損なわれる。だからこそ、日誌の記入は必須なのだった。

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