47. ウルフムーンの下で
「麻田、さん? あれ、デビュタントバルは?」
突然の訪問者を前にして、頭の中に疑問符が飛び交う。麻田さんは微笑みをたたえたまま、少し離れたところにいた人に手招きをした。
女性が麻田さんの横に立って頭を下げる。確か、制服のスカートを繕ってくれた女中さんだ。
「夜分に失礼いたします。主人と大河内様のダンスが終わりましたので、劇場を後にいたしました」
「え、大丈夫なんですか。鴻家の皆さんはまだ、劇場にいらっしゃるのでしょう」
「はい。ですが今は望夢様に主役が移りましたので、問題はございません」
デビュタントのダンスは舞踏会の序盤に行われる。だから朔夜の出番が終わったのはわかるが、望夢君が主役って、なんだろう。「見栄張り大会」の主役、という意味なら、お父様なのではないか。
私が思った通りに訊くと、麻田さんは愉快そうにくすくすと笑った。
「鴻家が『見栄張り大会』に参加する前に、望夢様が『鴻グループを奪われるという悲しみの中、新たな会社を興して頑張っている、健気な少年社長』として、社交界の皆様に会社をアピールされたのです。今、舞踏会はその話題でもちきりでございます」
それを聞いて、私は頭の中で白旗を上げた。
まいった。これは私には絶対にできない。望夢君が社長になってくれて本当によかった。
私が大きく息を吐くと、麻田さんは持っていた包みを少し持ち上げた。
「こちらは主人から高梨様への贈り物です。『もし気に入ってくれたら受け取ってほしいが、不要なら遠慮はしないでくれ』とのことでございます」
朔夜からの贈り物と聞いて、少しどきりとする。
以前、薔薇の形をしたチョコレートを貰ったことがある。あの時のチョコレートは単なる手土産ではなく、彼の想いを表すものであった。
女中さんと麻田さんが包みの中身を広げる。女中さんは遠慮がちに私を見た。
「以前、私めが繕わせていただきました制服を思い出しながら製作を依頼いたしましたので、もしかしたら体に合わない部分があるかもしれませんが……」
なんのことだろう、と思っていると、それは二人の手によって広げられた。
その瞬間、夜の長屋の入り口に、大輪の白い花が咲く。
「わ……っ!」
それは、デビュタントが着るような純白のドレスだった。
シンプルな形ながらも一目で上質とわかる生地がふんだんに使われており、スカート部分には小さな白い花の刺繡が広がっている。贅沢に用いられたボビンレースは、清楚でありながらも華やかだ。
「高梨様、いかがでしょうか。急ごしらえではございますが、なかなかの仕上がりかと存じます。主人は控えめなことを申しておりましたが、私は高梨様がこちらのドレスをお召しになった姿を見とう存じます」
にっこり、と微笑む。
「え、っと、あの、大変ありがたく、え、でもその、このドレス、ボールガウンですよね、舞踏会とかで着る。それを、私、に」
「はい」
「え、え」
「まあまあまあ。まずはお召しになってみてはいかがでしょうか。こちらのものがお手伝いいたしますので」
まあまあ、と言いながら女中さんにドレスを手渡し、私と女中さんを私の部屋へ促す。
ドアが閉まる。私は突然の出来事に、「嬉しい」と「なぜ」が頭の中で高速回転していた。
その間にも女中さんはてきぱきと着付けをしてくれる。
純白の
髪は丁寧に結い上げられ、白い羽根が飾られた。
仕上げに、と女中さんが陶製の小皿を取り出す。小皿の内側には金赤色に輝く
それを薬指に取り、私の唇にそっと乗せる。
後ろを向き、鏡を見る。
小さな鏡のため、見えるのは胸から上だ。それでも。
綺麗に結われた髪。胸元が大きく開いた純白のドレス。そして生まれて初めて差した口紅。
それらが、電球の光に照らされた長屋の室内から、くっきりと浮かび上がる。
胸が激しく震える。
ずっと、ずっと押しつぶしてきた想いが浮上する。
私は庶民だから。
ほかの生徒たちとは住む世界が違うから。
タカナシエンジンを作る、という夢には必要のないものだから。
だけど。
私だって、白い綺麗なドレスを着てみたかった。
「高梨様、おそれいります。支度はお済みでしょうか」
麻田さんの声を聞いて我に返る。ドアを開けると、麻田さんは私を見て目を見開いた。
しばらく無言のまま立ち尽くした後、はっとした表情を浮かべて頭を下げる。
「し、失礼いたしました。つい、娘を思い出してしまいました。大変お美しゅうございます。ささ、こちらへどうぞ」
穏やかな笑みを浮かべ、私に質問する隙を与えぬまま、ほいほいと自動車に乗せ、走り出す。
「あ、あのっ」
「まあまあまあ」
麻田さんは私の質問をのらりくらりとかわしながら自動車を走らせた。
「事前に私から十和田社長に話を伝えましたところ、『そういうことなら今日は是非仕事を休んでほしい』と仰って下さいました。今宵の月はひときわ美しゅう存じます。まるで神の祝福のようでございますねえ」
自動車は鴻邸の敷地内に吸い込まれていく。
離れ家の前に着く。麻田さんに支えてもらって外に出ると、一月の冷気がひんやりと肩を刺した。
月明かりの中、仄かに浮かび上がる離れ家に顔を向ける。
ドアが開く。
「瑠奈……凄い。綺麗、綺麗だ」
微かな風が吹く。月の光が、
私のもとへと向かう小さな靴音に合わせて、鼓動が徐々に強くなる。
背後でドアの閉まる音がした。自動車が走り去る。朔夜は自動車の方に軽く頷くと、私に笑みを向けた。
「突然のことでごめん。夜遅くなのに来てくれてありがとう」
「あ、えと、うん。こちらこそ、こんなに素敵なドレスをありがとう。もう、どう感謝したらいいのか。で」
で、私は今、何がどうなってここに来ているのか。なんとか質問の形にして問うと、彼は困ったような表情をして自動車が走り去った方を見た。
「麻田、なんの説明もしないでここへ連れてきたのか」
「うん」
「そうか……。なんだか、迷惑だったらごめん」
頭を下げられる。
そんな。確かに驚いて戸惑ってはいるが、迷惑なんかじゃない。
迷惑なわけがない。
私が首を大きく横に振ると、朔夜は
「でも、突然瑠奈の家に行って驚かそう、と思っていたのは確かで……強引、過ぎました。それで……その、もしよければ、今夜しばらくの時間を、俺にくれないかな」
朔夜の手を取る。白い長手袋を嵌めた滑らかな手が、彼の手に包まれた。
「これからふたりきりの舞踏会を始めたいんだ」
家の中に入ると、ほわりとした蒸気暖房機のぬくもりとともに、微かにオルガンの音が聞こえた。
広間の扉を開ける。するとそこでは、
小さな指を器用にコチコチと動かし、オルガンを弾いている。見慣れているはずの広間なのに、豪華なつくりの照明に照らされたそこは、別世界の
彼が手を離し、私と向き合う。
私は目いっぱい気取って微笑んだ。
「今宵は舞踏会にお招きくださいまして、誠にありがとうございます。憧れのドレスを着て朔夜様と舞踏会に来られましたこと、大変嬉しゅう存じます」
ドレスに憧れていたことまで言ってしまい、恥ずかしくなる。
彼は優雅な仕草でお辞儀をした。
「おそれいります。瑠奈様、私と踊っていただけますか」
授業で習ったように、片手でドレスを少しつまんで脚を軽く折る。
「はい。お受けいたしますわ」
機械人形の少女が奏でるオルガンの音に合わせて、ワルツを踊る。
スキップもできないような私は、ダンスもあまり得意ではない。それでも授業で先生が言っていた通り、上手な男性に合わせて踊れば、結構なんとかなるものだ。
朔夜の顔を見上げる。
夜空色の瞳に私が映る。
羽のような靴がステップを踏み、白いドレスがふわりと揺れる。
踊り続けるにつれ、鼓動と息遣いが重なり合っていく。
演奏が終わった。急に静かになった室内に、二人の息遣いが微かに漂う。
彼は私を見つめ、はにかんだ。
「少し、外に出ようか」
腕を差し出してきたので、そっと手を絡ませる。
外に出る。
空には
月は時折淡い雲をまといながらも、静かに私たちを見下ろしている。冷たい風に思わず肩をすくめると、彼は掌の中からふわりと夜空色のストールを広げ、私の肩に掛けてくれた。
「朔夜、今日はありがとう。凄く楽しかった。それに、こんなに素敵なドレスまで」
「ううん。もし気に入ってもらえたら嬉しい。俺が思い描く瑠奈のイメージで仕立てさせたんだけど、もし趣味に合わなかったらどうしよう、って思っていた」
こんなに手の込んだ演出をしてくれたのに、そんなことを思っていたのがなんだか朔夜らしいな、と、おかしくなってしまう。
共に夜空を見上げる。
目が合う。
微笑みあう。
彼が腕を離し、向き合った。一度目を逸らして息を飲んだ後、私にまっすぐ視線を向ける。
「瑠奈」
改まった声に、私も姿勢を正す。
どきり、と胸がひとつ、大きく鳴る。
「いつもありがとう。俺のそばに寄り添ってくれて、一緒に大きな夢を追わせてくれて。俺は人狼族で、しかも『汚れた血』で、そのうえこんなに面倒な家庭環境だというのに」
それに、とまだ続きそうだったので、私は首を横に振って、人差し指を彼の唇の前に持って行った。
だって、お礼を言わなければならないのは私の方だもの。
夜空色の瞳が光を放つ。
「それでも、俺はこれからもずっと、瑠奈と一緒に人生を歩み続けたい。手を取り合い、同じ夢を見て、切磋琢磨して、そして」
冬の夜風がストールを揺らす。
それなのに、なぜ。
私の胸はこんなにも熱いのだろう。
「いつまでも、いつまでも、尽きせぬ愛を捧げ、交わし合いたい。だから」
彼の言葉を噛みしめ、受け止める。
華奢な踵の靴でぐっと大地を踏みしめる。
胸が、熱い。
「どうか、俺と結婚してくれませんか」
その言葉と同時に、私の視界が白くまばゆい光に満たされる。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
お母様と「人狼との交際」の話をした時から、いつかこのような話があるかもしれない、なんて思っていた。
だけど。
気の利いた返事も、気取った仕草も、どこか遠くへ飛んでいく。
私にできたのは、ただ一言、震える声で「はい」と言うことだけだった。
夜が静かに深くなる。
それから私たちは、たくさんの愛を伝え合った。
今まで秘めていた甘い想いも、抑えきれないほどの熱い想いも、すべて。
でも、これらの言葉は全部、私たちの大切な秘密だ。
この夜交わした愛の言葉は、ウルフムーンだけが知っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます