【一月】ウルフムーンだけが知っている
45. 解き放つ
卒業月である一月になると、教室は急に寂しくなる。
皆、卒業後の準備で忙しく、学校を休みがちになるからだ。学校側もそれはわかっているので、授業は午前中だけ。内容もほぼ自習みたいなものばかりだ。
皆、自分のことで精いっぱいなせいか、今ではひと月前の「あの」事件を噂する人も少ない。
ただ、私個人への当たりは相変わらずだけれども。
授業が終わり、帰り支度をしていると、また背後から話し声が聞こえる。
私が起業することを嗤っているらしい。ここまでくるともう、二年間もこんなことをやって、よく飽きないな、とすら思う。
「瑠奈、一緒に帰ろう」
朔夜の言葉に笑顔で頷く。
背後でぶつぶつ言っている人たちをするりとかわし、朔夜と並んで教室を出る。
これから、仮事務所になっている離れ家で、仕事の打ち合わせをするのだ。
離れ家の書斎で朔夜と話をしていると、来客の知らせがあった。
本当に来てくれるとは。前のめりになって出迎えに向かう。
「社長っ。年度末でお忙しいでしょうに、お越しくださいましてありがとうございますっ」
エントランスでにこやかに立っていたのは、私が働いている工場の十和田社長と、経営者交流会で知り合った社長だった。
二人の間には大きな木箱が置かれている。十和田社長が私を見ながら、芝居がかった仕草で箱を開けた。
「今日は私たちからの設立祝いを持ってきました。覚えていますか、ほらあっ」
ばあんっ、と開けられた箱の中を見て、私は柄にもない甲高い声の歓声を上げてしまった。
中に入っていたのは、経営者交流会の時に見た、女性型の
あの時と同じ、前時代的な服に歯車型のアクセサリーを着けている。初めて見る朔夜も、可愛らしさと精巧なつくりに驚いたらしく、感嘆の声を上げていた。
十和田社長と一緒に来てくれたのは、この機械人形を作った社長だ。私たちを見て、にこにこしながら鼻を膨らませている。
「気に入ってくれたかな」
「はい。ありがとうございます! でも、こんなに立派なものを」
「あはは、その辺はね、私も十和田社長も商売人だから。ただでプレゼントするわけじゃあないんだよ」
二人の社長が顔を見合わせて微笑む。
「これに使われている部品は、大量生産するようなものじゃないことはわかるでしょう。だからこのくらい細かなものの製造を、小ロットで請け負うことはできるかな、という、まあ、サンプルも兼ねているわけだよ」
「ただでプレゼントするわけじゃない」と言いながらも、自分の手の内を見せてくれた上に、今後の取引の話までしてくれる。
嬉しくて、ありがたくて、思わず涙が出てしまいそうになったが、ぐっと堪えて丁寧に礼を述べた。
社長たちが必要としているのは、涙ではなく高品質の機械部品だ。それに応えられるよう、ありがたく機械人形を受け取った。
社長たちが帰った直後、伝声管のそばのベルがけたたましく鳴った。
朔夜が伝声管に向かって声を掛ける。するとお父様の割れた声が響いてきた。
「高梨君も連れて、今すぐ書斎へ来なさい。話がある」
母屋の書斎に入った途端、充満する空気に気圧されて足がすくむ。
中にいたのは、朔夜のご両親と望夢君。皆、立ったままで、普段ならご両親のそばにいることが多い望夢君が、少し離れたところにいた。
望夢君を見て、空気の正体を察する。
彼の左頬は、叩かれたように真っ赤に腫れていた。
「高梨君。君が起業を言い出したのだね。夢のようなエンジンだなんだと大風呂敷を広げておきながら、実際には平凡な部品工場だというが」
言葉に鋭い棘がある。反論するか流すか決めかねていると、お父様が言葉を継いだ。
「それ自体はいい。自分たちで実際に会社を立ち上げ、経営してみるのは良い経験になるだろう。だから二人からその話を聞いたときは、参加の許可をした」
場の空気に反して肯定的な言葉をもらう。ほっとしかけたところにお父様の声が被さった。
「だが望夢の場合、それはあくまでも『社会勉強』として許可しただけだ。『鴻グループ』を再び手にする前の練習台、はっきり言えば踏み台として許可したのだ」
声が大きくなる。鋭い棘が突き刺さり、全身がひりひりとする。お父様はひとつ息をつき、声を落とした。
「今朝、望夢の許嫁の家より、正式に婚約破棄を言い渡された」
それを聞いて望夢君に視線を向ける。彼は左頬を押さえたまま俯いていた。
この話を聞いても、あまり驚かなかった。心のどこかで「そうなるだろうな」と思っていたからだ。
そうなればいいのにな、と。
「現在の我が家では、先方の言い分を呑むしかない。ただ、婚約破棄になってしまった以上、早急に新たな配偶者候補を決めなければならない。この際、多少家の格を落としてでも、早急に」
お父様は望夢君を睨みつけた。
「それなのに望夢は、家を継がず嫁を
望夢君の方へ歩み寄り、険しい表情で見下ろす。
「平山と家庭を持つ、と」
望夢君がびくりと体を震わせる。それでも顔を上げ、怯えたような目をしながらも口を開いた。
「そ、そうです。鴻グループの会社は、もう、みんな、うちから離れていて、だから僕は、今の会社だけを見て、それに、『家』の跡継ぎって」
「望夢。お前は、私が鴻グループを取り返そうとしているのを知りながら、そのような口をきくのか。お前にとって鴻家や鴻グループは、付き人や町工場にも劣るものなのか」
「お、劣るとか、そういうことじゃないです。でも、現実的に考えて、取り返すのは無理だし、僕は、あ、後継ぎのためだけの結婚なんて」
「高梨君!」
急にお父様が私に向かって睨みつけてきた。
「そもそも君が叶うわけもない夢を騙って町工場経営に二人を引きずり込んだり、朔夜に手を出したりして、我が家の邪魔をしなければよかったのだ!」
なんだそれは。突然浴びせられたあまりにも意味不明な言い分に、思わず頭に血が上る。足を踏み出し口を開こうとしたところを、朔夜に遮られた。
私の前に立ち、お父様に向かって声を上げる。
「鴻グループの件も、望夢の縁談も、高梨さんは無関係ではありませんか! それに会社は私の方から手を上げて加わらせてもらいましたし、望夢も自らの意志で決めています。そして彼女が私に『手を出した』のではありません」
一瞬、言葉が詰まり、声を落とす。
「私は高等中学に入学したころからずっと、彼女を愛していました。ですから今回の件で、彼女を巻き込むのは違います」
彼の言葉を私が脳内で咀嚼するよりも早く、お父様が望夢君から手を離し、口の端を歪めて言った。
「そうか。そうだな、巻き込むのは違うか。ならば、望夢のかわりにお前が高梨君と別れ、人狼族の女を娶って跡を継ぐか」
それを聞いた望夢君がお父様に手を伸ばす。その手を乱暴に払われる。朔夜と望夢君が同時に声を出したときに、細い、鈴のような声が響いた。
「もう、およしになって、あなた」
お母様が、お父様の肩にそっと触れた。
「あなただって望夢と平山の仲くらい、気づいていらっしゃったのではありませんか。それに鴻グループが既に、『鴻家』抜きでの再構築を模索しているところだということも」
お父様が険しい表情を向ける。それでもお母様は、穏やかにゆっくりと語りかけた。
「あなたは『鴻家当主』として、『鴻グループ総帥』として、立派に勤めを果たしていらっしゃったと思います。ですが、その前に『父親』という素敵な一面もお持ちではありませんか」
言葉に詰まるお父様に、そっと微笑みかける。
「あなたには、父親として息子たちの夢を応援し、恋を見守る包容力があると思っております。そして二人はもう充分に、羽ばたく力を持っております。ですからそろそろ、『家』から解き放ってあげませんか」
望夢君と朔夜を見て、顔を伏せる。
「少し寂しいですけれども、ね」
再びお父様に微笑みかける。
「私は二人が大空をのびのびと飛びまわる姿を、あなたと共にいつまでも見守りとう存じます」
初めてお母様と会った時、私は「初春のぬくもり」のような人だと思った。
暖かいけれど、か弱いぬくもりだと。
でも、そうじゃない。
初春のぬくもりは、厳しい冬の氷を溶かし新たな命を芽吹かせる、何よりも強い力を持っているのだ。
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