25. 初秋の雪解
窓際に置かれた赤いコスモスが、九月の風に吹かれて揺れている。
朔夜の言葉を受けて、平山さんが再度深く頭を下げた。その隣で望夢君は唇を噛んで俯き、呟く。
「それはまあ、ありがとう。でも、兄様が言うほど簡単じゃないんだよ」
平山さんと握った手に力が入っている。
「いいよな兄様は。『汚れた血』だっていうだけで、家も会社も継がないで、無理やり愛想を振りまく社交もしないで、学校に通って勉強して、誰の目も気にせず出かけて」
顔を上げて私を睨みつける。
「誰と恋をしても何も言われない」
それは確かにそうかもしれない。でも家族に「家族」と認められないのもつらいと思う。
ただ、今はそれを言うタイミングではないだろう。
望夢君の声が大きくなる。
「そりゃ、騒ぎたくもなるよ。僕はお父様みたいに、実の兄を蹴落としてまで鴻家を継ぐような執念は、これっぽっちもないのに。それに鴻家にはもれなく鴻グループがついてくる。僕は兄様みたいに頭が良くないのに、何万人もの生活の責任を担うのなんか怖いよ」
握った手を離し、頭を抱えて首を振る。平山さんは後ろから望夢君の両肩を抱いた。平山さんと目が合ったので目くばせをする。彼は再び混乱しだした望夢君とベッドに腰かけた。
「兄様のせいで。兄様の血のせいで」
首を振る望夢君を、平山さんが優しく、しっかりと包み込んでいる。
この様子を見ただけでわかる。
二人の心が深く繋がっていることと、望夢君の精神が限界に近いことが。
望夢君が小さく震えだした。
「『慕いあっていればいい』なんて言っていられないんだよ僕は。僕は」
大きな目が潤んだかと思うと、一筋の涙が頬を伝った。
「僕は、十八になったら、許嫁と結婚しなきゃならない。僕は」
ぷつりと糸が切れたように体の力が抜け、平山さんにしなだれかかる。
「平山以外のひとと、一緒になるのなんか、嫌だよ。気持ち、悪いよ」
平山さんの胸の中で、肩を震わせる。
朔夜は言葉を失っているようだった。
私だって、なんと言ってあげたらいいのかわからない。
望夢君がよく「汚れた血」とか「いいよな兄様は」と言うのは、見下しや攻撃の衣をまとった、妬み、または羨望なのだろうか。
彼の、やたらと朔夜に絡んでくる態度は腹が立つ。しかし彼はそうすることで、なんとか蜘蛛の糸一本ほどの細い支えで、心を保っているのかもしれない。
「すみません望夢君。無関係の女が横からしゃしゃり出ますね」
しゃしゃり出るついでに、「鴻さん」から名前呼びに変更してみる。
うまく話せるか、わからない。しかし話さなければ。
「ある会社の話です。社名は出さないでおきますが、誰でも知っているような、大きな会社の話」
「は? なんだいいきなり。あなた――」
「高梨といいます。高梨 瑠奈。そういえばちゃんと自己紹介したことないですよね。朔夜さんの級友で、一応学年首位争いのライバルです」
「ふん。『級友』だ、って言うんだね。自分たちはそうやって隠し続けるんだ」
「え、何をです?」
「え?」
私の自己紹介なんかさらっと流したかったのに、変なところで突っかかってくる。望夢君は私と朔夜を交互に見た後、ぽろりと呟いた。
「まさか、未だに『本当』とか、嘘だろう……」
「ん、嘘? ライバルだってことですか? 私、本当に成績はいいんです。でも今はそれは関係ないんで、話を続けます」
彼らの前にしゃがみ、見上げるような姿勢を取る。
「その会社ですね、跡を継ぐのは社長と血縁関係ゼロの、社内の優秀な人なんだそうです。そして社長のお子さんは、その会社とは全然関係のない商売をするのだそうです」
紅子のことを話す。だからここでいう「商売」は、女学校経営のことだ。
望夢君は僅かに眉をひそめた。
「でもそうなったら、会社が他の血に渡ってしまうじゃないか」
「そこで働く労働者からしたら、それで会社が儲かって、自分がいい暮らしできて、社内の雰囲気がよくなるのなら、別に構いませんけどね」
そう簡単な問題ではないことは重々承知だ。それに私は天下の鴻グループの問題に口を挟めるほど偉くない。
私はただ、望夢君の心の重荷を、ほんのちょっとだけ持ち上げたいだけなのだ。
一人で重荷を全部抱え込むことなんてない。
「そもそも『血』なんか単なる体液でしょう。『汚れた血』、というか血液中の老廃物なんか、毎日腎臓で漉してポイしているでしょう」
これこそ「そういう問題ではない」よなあ、と、言いながら思う。案の定、望夢君も、なんともいえない表情をしている。
ただ、そんな表情をしているのに、私の話を黙って聞いてくれる。
「すみません。変なことを言いました。えっと、要するに、悩みって、見る角度を変えれば解決できることもあると思うんです。私では、あとは養子くらいしか思いつきませんけど。あ、そうだ、それこそ社交の場でいろいろな事例を聞くのもいいんじゃないですか。問題を解決するアイデアを盗むために来ているんだー、って思えば、愛想を振りまくのも嫌じゃなくなるかもしれませんよ」
結局、最後の一言だけでもよかったんじゃないか、と気づき、落ち込む。私、こんなにお喋りだっただろうか。
それまで黙って会話を聞いていた朔夜が、私の横に並んだ。
「望夢。もし俺の話を聞く気があれば、瑠奈の言う『見る角度』という点で、一つ提案がある。嫌なら遠慮なく断ってくれ」
朔夜が望夢君と同じ目線までかがみ込む。
望夢君が不貞腐れたような声を上げた。
「なんだよ」
平山さんも朔夜の方を見る。
望夢君と平山さん。顔立ちは全然違うのに、こうして並ぶと似ているような気がしてくる。
朔夜がひとつ、息をついた。
「俺は学校でそれなりに学んでいるし、これから大学でもっと知識をつけるつもりだ。だから」
二人の視線がまっすぐに向かい合う。
「望夢が鴻グループを継いだら、俺を下につけないか。役職ではっきりとした上下をつければ、お父様も許してくださるはずだ」
彼の話を聞いて、私は単純に「いいじゃないの、それ」と思ったが、望夢君にとってはそういうものでもないらしい。
彼は眉根を寄せて朔夜を見た。
「それは、兄様が僕を下からサポートする、ということ? 同じ立場ではなくて、それこそお父様が納得するくらいの上下差をつけて」
「そう」
「兄様はそれでいいの。学士様なら伯父様みたいに、自分で会社を興して権力を振るうことだってできるのに」
望夢君が「伯父様」と言った瞬間、朔夜の表情が曇った。
「俺は伯父様のようになる気はない。全く」
朔夜の口調に何かを察したのだろう。望夢君が口をつぐんだ。
「ごめん。話を戻す。俺が今まで勉強を頑張ってきたのは、『首席になればお父様に少しは認められるかもしれない』と思っていたからなんだ。でも、そんな理由では、得た知識が勿体ないと気づいたんだよ」
ぴりぴりと鋭く重たかった空気が、少しずつ溶けていく。
「望夢。一人で重荷を全部抱え込むことはないんだ。望夢の重荷を、俺にほんの少しだけ持ち上げさせてくれ」
そう言って微笑む。
彼もまた、私と同じ想いを抱いていたのだ。
望夢君は困惑したような顔でしばらく朔夜を見ていた。
一度俯き、何かを考え込む。
顔を上げ、平山さんを見る。
平山さんはゆったりと微笑み、望夢君の背中を、ぽん、ぽん、と叩いた。
望夢君が朔夜と目を合わせる。
白く細い手が躊躇いがちに朔夜のもとへ差し出される。
朔夜も同じように手を差し出す。
上流育ちらしい綺麗な二つの手が交わる。
互いに強く握りあう。
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