17. 悲しい兄弟
我が家に戻ると、麻田さんが軒下から出てきてお辞儀をしてくれた。
仕草は上品だが、顔や首にびっしりと汗が浮かんでいる。この暑い中、随分長い時間待っていてくれたのだろう。
「あああ、配慮が足りず申し訳ないです麻田さん。家の中でお待ちいただけばよかったあ」
「いえいえ、お気遣いいただきありがとう存じます」
「少し私の家で涼んで行かれますか。すぐ裏手に共用水道もありますので、冷たい水も飲めますよ」
「おそれいります。先ほど飯屋で水を頂きましたから大丈夫ですよ」
それはそうかもしれませんが、と言いかけ、思い出した。
そうだ。私の部屋、体を洗う時に使った
麻田さんが自動車のエンジンをかけに行く。
「朔夜、今日はありがとう。楽しかった」
ごきげんよう、また明日、という言葉が喉に詰まる。
今ここで「ごきげんよう」と言ってしまえば、朔夜と別れなければならなくなる。
二人の時間が終わってしまう。
仕方がない。食事で時間を取ってしまったのだから、これから勉強をしなければ。
夢のために、夢の時間を終わらせなければ。
「瑠奈。今日、これから時間あるかな」
私が別れの挨拶を言えないでいると、朔夜が先に声を掛けてきた。
「もし時間があるなら、お、俺の家で勉強とか、どうだろう。歴史の参考書とか、あるけど、見る?」
日差しが暑いのか、朔夜の額から汗が流れる。
「えっ、歴史の参考書、いいの! 見たい見たい嬉しい。ありがとうっ」
まるで私の思考を読んだかのような願ってもない申し出に、声が大きくなる。
ただでさえ参考書は高価だ。その上「はずれ」を引いてしまうリスクもある。だからどうしても手が出せない。
それを見せてもらえるなんて。
それに朔夜と一緒に勉強、となれば、「一緒にいたい」と「勉強」の両方が叶うではないか。
「勉強の後は、一緒におちゃ」
「ちょっと待っていてねえっ。今、教科書と帳面持ってくるっ」
朔夜が何か言っていたような気もするが、嬉しくて聞き流してしまった。
歴史と、ついでに幾望国語と礼法の教科書を鞄に詰め込む。図々しいかもしれないが、せっかくの機会だ。苦手科目を一気にやっつけたい。
部屋を出る前に、鏡を覗き込む。
おくれ毛を撫でつけ、曲がったリボンを直す。
よし、かわいい。
鏡に向かって微笑み、外に出る。
昼の太陽にじっくり炙られた黒塗りの自動車は、車内に強烈な熱気を抱え込んでいた。
走り出す。こもった熱気が窓の外へと流れだし、生ぬるい空気が入り込む。
私は声を落として朔夜に話しかけた。
「望夢君てさ」
運転する麻田さんを窺う。
「えっと、その、平山さんと『仲がいい』のかな」
頼む、伝わってくれ、と念を込める。
飯屋での様子を見れば、彼らの仲が悪いわけないことは誰でもわかる。私が言いたいのはそういうことではない。
望夢君の幸せそうな笑顔。はにかむような表情。そして、声を荒らげて言った言葉。
今まで私は、勉強や仕事、家事や父の看病でいっぱいいっぱいで、色恋や友達づきあいには時間を割いてこなかった。だから人の気持ちに鈍感なところがあるのは、うっすら自覚している。
そんな私でも気づいた。
彼らは。
朔夜は腕を組んで頷いた。
「俺も本当のことは知らないけれど、おそらく『仲がいい』んだろうな」
何か思うところがあるのか、窓の外を見る。
沈黙が漂いだしたので、別のことを訊いた。
「そうだ。あの時、やけに『学校』がどうって言っていたけれど、もしかして望夢君って学校へ行っていないのかな。見た感じ、尋常中学くらいの歳でしょ」
「俺の二歳下だから、学校に通っていればそうだね。でも望夢は学校へ通ったことがない。鴻家の跡取りとして、ずっと家庭教師の下で学んでいる」
「ほええ。本当にそういう世界があるんだあ」
私の通っている学校には、いわゆる「良家の子女」と呼ばれる人たちが多く通っている。しかし、本当の本当に由緒ある名家の子女は、そもそも学校へ通わないらしい。
それは知識として知ってはいたが、朔夜や紅子を見ていると、それ以上の世界、というものの想像がつかず、一種の伝説のようなものだと思っていた。
「じゃあ、もしかしてなんだけれど」
――いいよな兄様は。長男のくせに跡も継がず学校へも行って
――女選びも自由でさ。
「庶民が考える『凄い家』につきものの、許嫁とかも、いるのかな」
望夢君の涙に揺れる目を思い出す。
「うん」
朔夜夜はそれだけ答えて、また窓の外を見た。
私も反対側の窓の外を見る。
父親からぞんざいな扱いを受け、離れ家で暮らす朔夜も悲しいが、黄金色の檻に囲われた望夢君もまた、悲しい。
許嫁だって、おそらく本人の意志とは無関係に決められて……。
……あれっ。
まさか。
「朔夜あっ!」
私の声に、朔夜はびくりと体を震わせた。前方では麻田さんが「うわっ」と叫ぶ。
「まさか、朔夜にも、許嫁が、い、いたりする、の」
「はああっ!」
彼の声帯から飛び出したとは思えないような、素っ頓狂な叫び声が上がる。
「いないよ! 俺はただの
なんだその語尾は。そしてどうしたんだその動揺は。麻田さんが「ぶほっ」と吹き出し、それをごまかすためなのか、変な咳ばらいを何度もしている。
そうか。いないのか。
そうだよね。だいたい、望夢君の話しぶりからもそんな感じだったし。
頬が緩んでいるのを悟られないように、私は再び窓の外を見た。
自らの頬の緩みに、虚しさを覚えながらも。
朔夜の家の前で、誰かが言い争いをしていた。
自動車が門に近づくにつれ、二人の顔が見えてくる。
よく見ると言い争いではない。例の態度が良くない門番が、紺色の服を着た男性に何かを一方的に言われているのだ。
男性は朔夜の父親くらいの年齢だろうか。身なりも体格もよく、遠くから見ても威圧感がある。門番も何かを喋っているようだが、明らかに勝負になっていない。
男性のそばには真っ赤な自動車が停まっている。確か紅子の自動車と同じ型のオープンカーだ。
門をくぐる。
男性がこちらに目を向ける。
彼の口角が吊り上がる。
自動車はそのまま彼のそばを通り過ぎた。
離れ家が見えてきた時、朔夜に訊いてみた。
「ねえ、さっきの人って知っている人? こっち見て、にたあって笑ってい――」
口を閉ざす。
小刻みに震える朔夜の肩に手を置く。
彼の体は、ありえないほどの高熱を発していた。
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