16. 黄金色の檻
「朔夜、あの人って」
「うん」
朔夜は鼻を軽く押さえて頷いた。
「望夢君がこういう飯屋にいるなんて意外。あの感じだともう帰りそうだから、このまま気づかないふりしていようか」
離れた席なのでよく見えないが、テーブルの上にある皿はおそらく
こちらから挨拶をしに行く、という選択肢は、私にはなかった。
朔夜がもう一度振り返った。こちらに向き直ると、微かに眉根を寄せている。
「どうかしたの」
「ああ、うん」
声を潜め、首を傾げる。
「望夢と一緒にいる男、付き人の平山だ」
「ええっ」
思わず大きな声が出てしまったので、慌てて口を押えた。
そんな。ありえない。
名家での主従関係は明確だ。年齢や仲の良さなどは関係ない。鴻家みたいに大きな家であればなおさらだろう。
使用人は基本的に主人と同じ場所で食事をしない。なんらかの事情でそれができなくても、食卓は分ける。
少なくとも、大衆飯屋の狭いテーブルで向かい合って、同じものを食べるなんてことはまずないのだ。
首を伸ばして様子を窺う。
私の席から見ると、付き人の平山さんはほぼ後ろを向いた状態なので、容姿などはわからない。
望夢君はずっと笑顔で何かを話している。前のめりになって、視線は平山さんに固定したままだ。
平山さんの手が動いた。望夢君の頬に何かがついていたのか、撫でるようなしぐさをする。
指が頬に触れると、望夢君は俯いて、はにかむような笑みを見せた。
正直、望夢君には良い印象を抱いていない。しかし遠目で見る彼は、あの夜の印象とはずいぶんと違う。
なんというか、幸せそうだな、と思う。
そしてその姿は、主従、というよりも。
友人同士、というよりも。
まるで。
そうこうしているうちに冷たいコーヒーが運ばれてきた。朔夜は一口飲むと、驚いたように目を見開いた。
思った通りのリアクションに、にやにやが口元に浮かんでしまう。
「ふふふ、普通のコーヒーの冷たいやつを想像していると、そういう顔になるよね。まあ、これはこういう飲み物なんだって思って飲んでみてよ。慣れると癖になるからさ」
「へえ……」
不思議そうな顔をして再び口をつける。
その後次々と料理が運ばれてきた。
初めのうち、彼は
けれどもすぐに慣れたらしく、その後はびっくりするくらいよく食べていた。
以前見た上品な仕草ではなく、「がつがつ」という言葉がふさわしい食べっぷり。表情をくるくると変え、話し、追加の注文をする。
まるで何かのタガが外れたように、伸び伸びと楽しんでいるようだった。
私も一か月ぶりくらいの
食べ終わっているのに席を立たないなんて、余程楽しいのかな、などと思ったりもしたが、やがて彼の存在を忘れて食事を楽しんだ。
朔夜が、私の住む町で、私のお気に入りの飯屋で食事をしている。
その味を受け入れて喜んでくれている。
何度も何度も浮かぶ言葉が抑えきれず、体からあふれ出すのを飲み込むように肉を食べる。
幸せだ。幸せだ。幸せだ。
好きだ。好きだ。好きだ。
こんなに楽しいのに、時折胸がきゅうっと痛む。
今日はどうしたのだろう。いくらコルセットを緩めに締めているとはいえ、自分の体にここまで食べ物が入るなんて知らなかった。
それは朔夜も同様だったらしい。
「く、苦しい……」
カトラリーを置き、お腹を押さえて上体を反らしている。よく見ると、体に合わせて仕立ててあるはずのウェストコートが、ぱんぱんになっていた。
「私もお腹いっぱいだよう。凄く不思議なんだけどさ、胴体の幅はこれだけなのに、どうしてこの皿数の料理が消えているんだろう」
「本当だよなあ」
苦しいのにおかしくて、楽しくて、笑い合う。その勢いで視線を動かしたときに、望夢君と目が合った。
うげっ、という声が、つい口から零れる。
望夢君の表情から波が引くように笑顔が消える。
口角を歪ませて平山さんに何かを話している。
そして制止する平山さんを振りほどいて、つかつかとこちらに歩いてきた。
「やあ兄様、奇遇だねえ。どういう風の吹き回しだい、こんな飯屋に来るなんて」
それはあなたもだよ、と思っていると、今度は私に声を掛けてきた。
「おや、もしかしたらあなたは先日お会いした方ですかね。匂いが違ったからわからなかった」
「ごきげんよう。覚えていてくださり光栄に存じます」
「ふん。庶民の分際で喋りや所作だけは一丁前ですか。よく見れば薄っぺらい付け焼刃だってわかりますけど。いやあ、学校なんかに通って無駄に知恵をつけた女の正体を見破るのは、難しいってことですねえ。ああ怖い怖い」
確かに私の喋りや所作は付け焼刃だ。だけど公衆の面前でそんな口をきくあなたの礼儀はどうなっているんだと、言い返そうとして口を開く。
だが、なんとなく、やめた。
勿論彼の態度に腹は立っている。けれども口を歪めてべらべら喋る姿に、違和感を覚えたのだ。
その代わり、朔夜が勢いよく席を立った。
座っていた椅子が倒れ、周囲の客が声を驚きの声を上げる。
朔夜のひやりと凍りつくような低い声が響く。
「望夢、いい加減にしないか。俺のことはどれだけ蔑んでもいい。だが彼女にそういう口をきくのは許さない」
「なんだよ、『汚れた血』が――」
そこで平山さんが背後から望夢君の両肩を掴んで制した。
平山さん、見たところ二十代半ばだろうか。玉鉤国人の血を強く感じる彫りの深い顔を望夢君に寄せる。
「それ以上を言ってはなりません。落ち着いて。さあ、帰りましょうか」
「だって、だって」
望夢君はぐっと何か言葉を飲み込み、朔夜を指さした。
「いいよな兄様は。長男のくせに跡も継がず学校へも行って、女選びも自由でさ。黄金色の檻の中にいる僕の気持ちなんかわからないだろ。汚れた血に感謝するんだね」
そのままくるりと踵を返し、出口へ向かった。
朔夜が後を追おうとする。私は彼の手をそっと引いた。
「いいよ。私、全然気にしていないから」
何か言いたげな彼に向かって微笑む。
腹は立った。でもこのまま望夢君をそっとしておいてあげよう、と思った。
別れ際、彼の目には決壊しそうなほどの涙が揺れていたから。
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