10. 伝説の怪物

 一体、何が起きたのか。

 頭の中が真っ白だ。思考が全て吹き飛び、脳内には本当に純白の世界が広がっている。


 目の前にいるのは確かに狼だ。実物を見るのは初めてだが、本で見たことがある。

 その辺の野犬とは比べ物にならないくらい大きい。私よりも大きいくらいだ。

 体はつややかで豊かな銀色の毛に覆われており、角度によって砲金色ガンメタリックグレーに見える。

 狼は夜空色の瞳で私を見、口を開けた。


『そこで、まっていて』


 伝声管から響く音楽のように割れた声が、狼の口から発せられる。

 私は声を出すことができず、ただ首を何度も縦に振った。


 狼が通りの方を向き、低く唸る。

 通りに向かって走り出す。

 姿が消える。

 しばらくすると、遠くから何かが倒れる音や、硝子を引っ搔いたような悲鳴が聞こえてきた。


 私はただその場でうずくまり、悲鳴が細く消えていくのを聞いていることしかできなかった。

 ストールを掴み、地面の一点を見つめる。指先が震え、歯の根が合わない。


 朔夜が。朔夜が。朔夜が。

 あの狼は。銀色の。大きな。熱が。毛が生えて。変形して。そして。


 どれほどの時が経っただろうか。やがて視界に影が落ち、すぐそばで荒い呼吸音が聞こえた。

 どさりという音と共に、いつの間にか手放していた私の鞄と頭陀袋が落とされる。

 顔を上げる。


『瑠奈』


 狼が割れた声で私を呼ぶ。


『大通りに、麻田が、いるから、ここまで、呼んで』


 それだけ言うと、倒れこむように伏せた。反射的に身を引く。狼は目を閉じ、低い唸り声を上げた。


 耳が僅かに痙攣し、少しずつ頭に埋もれていく。

 背中の毛が短くなっていく。

 前足の先から人間の指が伸びてくる。

 その薄橙色うすだいだいいろの指を見た時、胃の奥からこみ上げるような恐怖心が、くっきりとした輪郭を伴って湧きあがってきた。


「ひゃ、ああ……」


 立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。それでもなんとか立ち、前に踏み出した。

 スカートの裾を踏み、よろける。狼の背中がうねるように変形しだしている。その脇をすり抜け、通りに出る。


 もつれる脚を叱咤しながら、大通りに向かって精一杯走った。

 角を曲がると、人が壁にもたれかかるようにして座り込んでいた。あの洗濯糊のような声の男だ。

 靴の片方は脱げ、服は破けてぼろぼろになっている。男が私の方へ顔を向けた。

 汗と涙とよだれで光った顔に、薄笑いを浮かべている。

 だがその目は何を見ているのか分からず、歪んだ口からは同じ言葉が繰り返し零れていた。


「ばけものが、ばけものいぬが、ばけもの……」




 大通りを見渡すと、黒い自動車はすぐに見つかった。道を斜めに横断し、荷馬車に轢かれそうになりながら走る。私の姿を認めたらしい麻田さんが駆け寄ってくれた。


「高梨様」

「さ、朔夜が、朔夜が、向こうで、狼が」


 「狼」という言葉に、麻田さんは目を見開いた。


「おそれいります。狼がどうなさいましたか」

「朔夜が、狼になっちゃった。あの、嘘じゃないの。狼に。んで、私を、助けてくれて、で、麻田さん呼んでって、あ、あっち」

「承知いたしました」


 ぐちゃぐちゃの言葉を並べる私と違い、彼は冷静な声でそう言うと、私を朔夜のもとへ連れていくよう促した。


 細い路地に入ると、あの男がまだ同じ場所で座り込んでいる。麻田さんは男の様子をしばらく見た後、呟いた。


「あれも後でどうにかするか」


 今まで聞いたことのないような、地の底から湧きあがるような低い声。 

 私の方へ向き直る。その顔にはいつもの上品な笑みを浮かんでいた。


「失礼いたしました。さ、急ぎましょう」

 

 どうにか、って、どうするのだろう。ざわつく思いに戸惑いつつも角を指さす。


「あ、あそこ。あそこの角、曲がって、ずっと行って隙間あって、隙間のちょっと先にいる」


 うまく話せない。だが麻田さんは理解をしてくれたのか、私の先を走った。

 彼が建物の隙間に入る。私も後を追おうとしたが、隙間から手が伸びてきて、追い払うようにひらひらと振られた。

 言われるままに立ち止まる。少しすると、麻田さんが私の鞄と頭陀袋を手に出てきた。


「この度は大変な出来事に遭い、さぞ驚かれたことでしょう。でももう心配はありません。主人のことは私にお任せくださいませ。さ、高梨様。今すぐ走ればぎりぎり遅刻しないですみますよ」


 丁寧な仕草で鞄と頭陀袋を押しつける。

 優し気な笑みを浮かべてはいるが、瞳の奥が「早く行け」と言っている。


「あ、あの、朔夜、は」

「そうそう」


 彼はぽんと手を打ち、私の耳元で囁いた。

 囁き声が腹の底に低く響く。


「お分かりかと存じますが、先程見たものは、決して他言なさいませんように」




 翌朝、一睡もしないまま学校へ向かった。

 昨日、言われた通り走って工場へ向かったら、ぎりぎり遅刻をしないで済んだ。

 その後いつもと同じように働いていたつもりだが、明らかに様子がおかしかったのだろう。皆、先日の欠勤から私を気にかけてくれているからか、汽罐長には早退を勧められたし、屋台で夜食の饅頭を食べているときは、同僚のおっちゃんが心配そうな顔をして小豆饅頭を奢ってくれたりした。


 朔夜が、目の前で狼に変身した。

 昨日から、その時の様子が何度も何度も鮮やかに甦る。

 体から高温を発したかと思うと、顔や体から銀色の毛が生え、頭から耳が生えた。

 割れた声。夜空色の瞳。悲鳴。路上に座り込み、ぼろぼろの姿で壊れていた男……。


 『人狼』


 心がどんなに否定しようとも、思いつく言葉は一つしかない。

 朔夜は人狼だ。普段は人間と同じ姿をしているが、夜な夜な狼に変身し、人間を襲うという人狼だ。

 子供ですら誰も本気で信じていない、「伝説の怪物」だ。


 始業の音楽が鳴った。皆が姿勢を正し、先生を待つ。私も日頃の習性だけで姿勢を正した。

 朔夜の席を見る。彼はまだ登校していなかった。

 先生が教室に入ってくる。


「皆様、ごきげんよう。では出席を取ります。ええと」


 出席簿を開き、朔夜の席を見る。


「本日、鴻さんはお風邪で欠席とのことです。では一番から――」

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