9. 淡い夜空と銀色の海
この声、どこかで聞いたことがある。
そうだ、六月の月例試験の結果が出た日、彼に
私をお嬢様と勘違いし、散々語り散らした挙句にどこかへ行こうと誘ってきた。あの時は適当にかわして地下鉄道を降りたっけ。その後、すっかり存在を忘れてしまっていた。
なんで、今更。
「この制服、国立中央高等中学のもんだよねえ。俺らから搾り取った税金が、搾取する側のガキのお勉強代になってるなんて馬鹿らしいよなあ」
以前にも聞いたようなことを言ってくる。
下校時間の関係で、私は出退勤の時間を他の人とは若干ずらしてもらっている。今は大抵の人が工場や事務所にいる時間だ。だからなのか、大通りをトラックや荷馬車がたまに通るくらいで、殆ど人が歩いていない。
そんな中、また別の男が現れ、彼と並んで私の方へとゆっくり歩いてくる。
また一人。
また一人。
薄汚れた姿で。粘ついた笑みを浮かべて。
「君のこと、あれから何度か地下鉄道で見かけたよ。いつも同じ時間に、同じ駅で降りてねえ。でさ、昨日、お嬢様が作業靴なんか履いて何してるのかなって、あとをつけてみたんだよ。そしたらここに入っていくじゃないか」
まさか、あの時から目をつけられていたとは。
男たちが私を見ながら何かを囁き合っている。
彼らの歩みに合わせて後ずさる。体が小刻みに震え、指先の感覚が消えていく。
「ねえ。働く苦労も知らないくせに、労働ごっこでもしているのかなあ。今日は自動車に乗ってご出勤ですか。地下鉄道は飽きちゃったのかなあ。労働者をばかにして遊んで楽しいかい」
朔夜の自動車を見られたか。それにしても私が彼に何をしたというのだ。そして彼らは何をしようとしているのだ。
声が出ない。うまく動けない。
「ほら、今日は俺のお友達も来たんだよお。俺らはねえ、労働ごっこよりもっと面白いことを知ってるんだ。ほら、一緒に遊ぼうよう。君のお父さんが俺らに『お小遣い』を払ってくれるまで、たっぷり楽しませてあげる」
煤煙に歪められた太陽が、男の顔を照らす。
男が右手を前に出す。
その瞬間、突如両脚の感覚が蘇り、私は彼らに背を向け全速力で走りだした。
何が起きているのか整理しきれないまま、ただ本能が叫ぶ「逃げろ」という言葉のままに走る。
ペティコートが邪魔だ。普段は気にならないのに靴が重くて走りにくい。作業靴には事故防止のためつま先部分に鉄板が内蔵されているからだ。
走りながら「助けて」と声を上げたが、かすれ声しか出ずに工場の音でかき消えてしまった。
角を曲がる。身を隠すように細い路地に入り込む。
頭の中の冷静な部分が警鐘を鳴らす。
だめだ。大通りに出ないと。これではいずれ追いつかれてしまう。
分かっているはずなのに、ここから逃げたい、隠れたいと、体はどんどん細い道へと向かってしまう。
建物と建物の隙間に入り込み、身をかがめる。男の一人が私に気づかず通り過ぎて行った。このまま諦めてくれればいいのに、と思った時、視界が暗くなった。
顔を上げる。
目の前に人が立っている。
息を吸い込む。
「しっ。静かに」
そこに立っていたのは、朔夜だった。
隙間に入り、かがんで私の両腕を掴む。
「さっき瑠奈の『助けて』っていう声が聞こえたから。何があったの。今その辺をうろついている男って、労働がどうのって喋っていた奴?」
私の目を見つめ、声を潜めて訊いてくる。
彼の存在と言葉が混乱を加速させる。彼はここから離れた距離にある自動車の中にいたはずだ。私や男の声が聞こえるわけがない。
それに私がここにいるって、どうしてわかったんだ。
もう、何がどうなっていて、何を信じたらいいのだ。
「瑠奈、怖かったろ。大丈夫、大丈夫だから。な」
頭には疑念や混乱が渦巻いているのに、心はその声と手のぬくもりを感じて、縋りつきたい衝動に駆られている。
問われるままに、「男たちに絡まれた挙句拉致されそうになっている」状況を説明する。多分まともな言葉にはなっていなかったと思うが、彼は小さな相槌を打ちながら聞いてくれた。
「来てくれて、あ、ありがとう。でも、でもね、大丈夫だから。あいつら、そ、そのうち飽きるって。だから、ね、もう、平気だよ」
朔夜は御曹司だ。見つかったらそれこそ身代金目的で拉致されかねないし、下手に楯突いたら何をされるかわからない。
彼をそんな目に遭わせるわけにはいかない。
「朔夜。こ、ここにいて見つかったら、まずいよ。トラブルに巻き込まれたら危ないし、あの、喧嘩沙汰になったら、最悪、停学とか」
笑顔らしきものを作り、彼の体を押し戻そうとする。
彼は私から手を離し、立ち上がった。路地の方を見つめたまま、呟くような声を出す。
「もし今、奴らを
拳を握る手が震えている。
「そんなことは、させない」
私の方へ振り返り、微笑む。
泣いているような笑顔だった。
「瑠奈」
再び路地を見据えてかがみ込み、制服のボタンに手をかけた。
シャツのボタンをいくつか外した後、俯いて大きく息を吸う。
「今から見るものは、誰にも言わないで」
深い呼吸音が繰り返される。
「え、どうしたの朔」
彼の肩に触れる。その瞬間ひっと声を上げて手を引っ込めた。
呼吸で上下する肩は、まるでボイラーのようなあり得ない熱を発していた。
高熱の朔夜の呼吸音が更に大きくなる。
めりめりという小さな音がする。
やがて彼の滑らかな頬に、銀色の毛がびっしりと浮かび上がった。
シャツを脱ぐ。
頭から耳が生え、銀色の毛に覆われた体がうねるように変形する。
指が短くなった手で、私に向かって何かを投げる仕草をする。すると目の前に淡い夜空が広がった。
彼の家に行ったとき、私の肩に掛けてくれたものと同じような、薄い大判のストールを頭から掛けられたのだ。
視界から朔夜が消える。ストールを外そうと手に掛けた時、彼のいる場所から
本能を逆なでする破壊音と叫び声に気圧され、ストールの向こうにある光景を見ることができない。固く目を閉じ、小さくかがむ。
叫び声と音が止む。
夏の熱気よりも更に熱い風が吹く。
ゆっくりとストールを外す。淡い夜色の向こうから金赤色の陽が射す。
声にならない叫び声を上げる。
そこにいたのは、朔夜ではなかった。
月に照らされた海のような銀色をした、一頭の大きな狼だった。
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