6. 夜空色のストール
食事が終わるころには体中に元気が満ち溢れ、この家に運び込まれた理由をすっかり忘れてしまうほどだった。
「ご馳走様でしたあ。美味しかったよう。めちゃめちゃ元気回復したから、今から工場に」
「駄目だって。欠勤届を書いた俺の顔を立てる、と思ってでもいいから休んでよ」
少し怒ったような顔の鴻君を見て、おかしさとあたたかさが一緒になってこみ上げてくる。
二人並んで外に出る。気がつけばかなり遅い時間だ。深い色に染まった夜空から、
ありがたいことに、鴻君の執事である麻田さんが、我が家の近くまで自動車で送ってくれるそうだ。その前に腹ごなしの散歩をしようということになり、麻田さんには門の近くで待機してもらっている。
「家の門まで散歩」という距離感が意味不明ではあるが。
「今日は何から何まで本当にありがとう」
私の言葉に、彼は微笑みながら首を横に振った。
彼を見上げる。月の光を受けた髪の輪郭が繊細な
その美しさは人間離れしている、とすら思う。
そう。まるで人間とは別の、なにか特別な存在であるかのような。
「どうしたの高梨さん」
「えっ」
「いや、さっきからこっち見てない?」
「え、ああ、ええ、っと」
いきなり正面を向いた彼の顔を見て、心臓が大きく飛び跳ねた後、かっと熱くなった。
もう、なんなんだ。彼が一緒にいると、しょっちゅう心臓が誤作動を起こす。
「ほら月。月だよ。月が綺麗だなあって見ていたのっ。べ別に鴻君の横顔をじっと見ていたわけじゃないんだからねっ」
「ああ、月か」
彼が空を見上げる。ここからだと見えないが、きっと夜空と同じ色をした彼の瞳の中には、月の光が映りこんでいるのだろう。
「満月は好きじゃないんだ」
降り注ぐ月の光を拒むように目を伏せる。
「まあ、捉えようによっては、べかーっと光っていて情緒がないかもしれないね」
きっとそんな理由ではないのだろうが、そう言って会話を終わらせる。
先程食事に誘ったが、「満月の日前後」は外出したくない、と言っていた。月に一回ペースで用事があるのかと思ったが、そういうわけでもないらしい。
外出したくない理由は教えてもらえなかった。
学校は「外出」に含まれないのだろうか、と考えた時、思い出す。
そういえば、彼は時々、急に早退したり遅刻したりする。朝は登校していたのにいつの間にかいなくなり、下校時になるといつも間にか教室にいたりする。
先生の様子からして、どうやら病欠などではなく、無断で消えているらしい。
同じクラスで学んできた約一年半、ずっとそのような感じだった。優等生のわりにはよく教室から消えるな、と思っていた。
あれと「外出したくない」は何か関係があるのだろうか。それとも無関係なのか。
「今夜は冷えるな。もうすぐ夏なのに」
鴻君の声を聞き、思考がそこで止まった。
そう言われると、確かに肩や腕が冷たくなっている。
「うん。ちょっと寒いくらいだね」
肩をすくませ、僅かに震える。
彼は私に視線を向けた後、ジャケットの内ポケットから掌くらいの大きさの包みを取り出した。
紐をほどく。するとその小さな包みの中から、ふわりと夜空が広がった。
彼の掌から生まれた透き通るような淡い夜空が、私の両肩に舞い降りる。
「どうぞ。家に着くまで使って」
それは、鴻君の瞳と同じ夜空色をした、薄手のストールだった。
指先で触れると溶けそうなほど細い糸で織られた、霞のように儚い生地のストール。かなり大判なのに、畳むと掌に収まるくらい薄い。しかし私の両肩や首元は、ふんわりと豊かなあたたかさに包まれた。
「凄い。柔らかくて、あったかあい」
指のささくれが生地を傷めないよう、そっと触れる。お礼を言うと、彼はまた微笑みながら首を横に振った。
ストールの感触を味わう。このあたたかさは、鴻君みたいだ、と思う。
頬が熱くなる。
前方に自動車の灯りと蒸気が見えてきた。もうすぐこの時間が終わる、ということへの感情が胸に湧きあがるよりも早く、別の大型自動車がぎらぎらと灯りをまき散らして走ってきた。
鴻君の自動車とは趣が全く違う。同じく黒塗りではあるのだが、縁やらなにやらに、まるで異国の王族が乗る馬車のような金装飾が施されている。
随分と元気な自動車が入ってきたな、と思っていると、それは私たちの目の前に停車した。
鴻君が歩みを止める。彼の横顔はこわばっていた。
運転手が自動車のドアが開ける。と同時に、やたら通る甲高い声が響いてきた。
「やあ兄様。どうしたんだい、社交の必要がない『汚れた血』のくせに夜出歩いたりして。今日は満月なのに大丈夫なのかなあ」
声の主が自動車から降りてくる。
私たちより少し年下の男性だ。小柄で華奢な体格と、さらさらの金髪に白い肌という姿は、一見、異国の王子様のようだ。
彼は私に目を留め、片頬を歪めた。
「誰だい、この女」
なんだこいつと思いつつも、一応片足を引いてカーテシーをしておく。
「彼女は級友だ。高梨さん、彼は弟の
「兄様の級友、ねえ。この汗と石炭の臭いが染みついた女が」
そんなに臭うだろうか、と一瞬思ったが、おそらく本当に臭うわけではなく、貧相な外見の私に対する単なる嫌味だろう。鴻君が前に出て望夢に何かを言いかけたが、望夢はそれをするりとかわして自動車に乗り込み、走り去ってしまった。
「高梨さん、ごめん」
鴻君が頭を下げたので、私は大きく手を振った。
「いいのいいの。汗と石炭の臭いは、働き者の証。私の誇りだよ」
大きく笑顔を作り、大股で歩く。
しくしくと疼く心を、作業靴で踏みつぶす。
私を乗せた自動車が、エンジンの唸り声を上げて夜道を走る。
鴻君は、門のところでずっと見送ってくれた。私は身を乗り出し、彼の姿が夜闇に溶けるまで笑顔で手を振った。
彼の姿が消えると同時に、胸がちぎれるように痛みだす。
何度も何度も湧きあがる想いを押しつぶす。
鴻君の笑顔を、声を、仕草を、何度も何度も全力でかき消す。
それなのに、ストールのぬくもりが手放せなくて、何度も何度も肩に触れる。
鴻君はただの級友でライバルだ。優しくしてくれても、笑顔を見せてくれても、ただそれだけの関係だ。
成績以外は何もかもが違う。住む世界も、なにもかもが。
そのくらいわかっている。わかっているんだから。だから。
私は鴻君に、恋なんかしていないんだから。
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