5. 離れ家の王子
彼は今、夕食のために着替えている。部屋に残った私は、本棚に収められた美しい本の背表紙を眺めていた。
結局、彼の家で夕食をご馳走になることにした。申し訳ないという気持ちはあるのだけれども。
うちの生業は罐焚きなので、庶民の中ではまともな暮らしをしていると思う。家だって、あの町にある長屋の中では広い方だ。
しかし、鴻家とは到底比べ物にならない。聞けば、この建物は全部鴻君一人のもので、母屋はここの何倍も大きいらしい。
だが私は、この大きな離れ家を独り占めしている鴻君のことを羨ましいと思えない。
だって……。
「お待たせ。今日は鹿肉の赤ワイン煮込みらしいんだけど、今の体調には重たいよね。スープか何かに変更させようか?」
私が思いを巡らせていると、鴻君が部屋に入ってきた。いかにも仕立てのよさそうな上着をきちんと着込んだ鴻君は、制服姿の時とはまた違う、遠い世界の華やかさがある。
彼の口調から、私を心配してくれているのがわかる。ただ、あのひりひりとした空気は、いつのまにか消えていた。
「ごめん鹿肉って食べたことないから、重いか軽いか分かんないや。でもお腹は空っぽだから、なんでもどんとこいだよ。ありがとう」
私の言葉のどこがおかしかったのか、彼がふっと笑みを零した。
そういえば、今日の鴻君は表情が豊かだ。心なしか口調も柔らかい。さっき、「病院へ連れていく暇がない」と言っていたから、もしかしたら彼の機嫌がよくなるような用事でもあったのだろうか。
それか、「誰かと食事をする」のが嬉しいのか。
食堂に通され椅子に座るものの、鴻君はこちらを見るばかりで黙っている。沈黙に耐えられなくてなんとか話題をひねり出してみるが、どうしても話が一往復で終了してしまい、ますます気持ちが焦ってきた。
「このおうち、広いよねえ。ここ丸ごと全部鴻君専用なんだ」
「うん」
「いつもここで一人で食べているの」
「うん」
「もしかして今日、忙しかったのかな。何か用事があったんでしょ」
「いや、用事は何もなかったよ」
おかしい。
こんなに会話が続かないなんて、ありえない。
確かに、鴻君は友達とつるんでわいわいするタイプではない。いつも教室で一人、本を読んでいるイメージだ。
だがそれは、「鴻家長男」「容姿端麗」「学業優秀」な彼に対して周囲が勝手に怖気づいて近寄らないだけで、彼自身が人を拒絶しているようには見えない。
それに学校にいる時は勿論、つい先程だって、もっとスムーズに会話をしていた。
第一、「上流家庭の人にとって社交は大切なのだから、食卓での会話を一往復で終わらせてはいけない」と礼法の授業で習っているではないか。
そうこうしているうちに食事が次々と運ばれてくる。テーブルにセッティングされていた、豪華な金彩が施された
「高梨さん、ごめん。気まずい、よね」
脳内で礼法の教科書を高速でめくりながら鹿肉にフォークを入れようとした時、鴻君がぽつりと言った。
「自分でもいけないのはわかっているんだけど、会話が。あの、急に緊張してきて。ほら、普段人と夕食を摂らないし、それにその、相手が、えっと、高梨さん、だし」
語尾が消え入り、軽く俯く。
私が相手だと云々、というのはよくわからないが、普段人と夕食を摂らないから緊張する、と聞いて、心がひんやりと悲しくなる。
「いやいや私なんだからさ、緊張なんてしなくていいよ。むしろ緊張しているのは私のほうだって」
私の言葉に、鴻君が俯いたまま曖昧な笑みを浮かべる。
その様子を見て一度唇を強く結び、再び口を開いた。なんとなく聞いてはいけないような気がして話題にしなかったことを訊くために。
「あのさ、訊いていいかな。鴻君は、どうして一人でご飯を食べているの」
家庭の事情に首を突っ込むような真似をしてしまい、訊くと同時に後悔する。彼はカトラリーを置いてしばらく逡巡するようなしぐさを見せた後、私を見た。
「俺は『汚れた血』だから」
そう言って窓の外に目を向ける。
つられて外を見る。夜闇の向こうに、母屋のものらしき小さな明かりが浮かんでいた。
「俺は今の母が嫁入りしてくる前に生まれた子で、生みの母は父と恋人関係ですらなかったらしい。で、『一応跡継ぎ候補に』とここに引き取られたんだけど、その後すぐに弟が生まれてね。だから今は、後継ぎ候補、ではなく
その話は初耳だ。彼は長男なので、なんの疑いもなく鴻家の跡継ぎなのだと思っていた。おそらく学校の他の人たちも同じなのではないか。
彼は特に感情の抑揚をつけずに淡々と語っている。それなのになぜか、消えていたはずのひりひりとした空気が辺りを漂う。
「母屋は鴻家の『家族』が暮らす場所だから、俺はここで食事をしているんだよ」
そしてカトラリーを手に取り、鹿肉を口に運ぶ。
咄嗟に返す言葉が見つからなかった。
彼の話を聞いて、「なんでよ。本妻さんの子供じゃなくても、家族には変わらないでしょ」と言いそうになったが、やめた。
私は上流家庭の細かいしきたりを知らないから、下手なことは言えない。第一、言ったところで彼にはどうにもできない。
でも、このままにはしたくない。
ひんやりとした悲しみが、ひりひりとした空気が、怖気づく私の背中を押す。
「鴻君、休日って決まった予定ある?」
「え? いや」
「じゃあさ、今度一緒にご飯食べに行かない?」
鹿肉を頬張る。濃厚そうな見た目に反して脂っこさはなく、口にした瞬間に肉がほどけて噛む間もなくとろけ、肉と赤ワインの香りが心地よく鼻腔を通り抜けた。
「うはあ、なにこれ美味しい! あ、えっとね、こういう高級なものじゃないんだけど、うちの近くに美味しい
鴻君はクラスの人たちみたいに私を見下してはいないと思いたいが、庶民の飯屋に入るのは抵抗があるかもしれない。だから断られるかもと思いながら言ってみる。
彼はきょとんとした表情で私を見、動きを止めた。
そしてぱっと頬が染まったかと思うと、みるみるうちに耳まで真っ赤になった。赤ワインのせいだろうか。
「あ……りがとう。おおお言葉に甘えて、今度」
そこで一度言葉を切り、一瞬、顔を曇らせる。
「でも、満月の日前後はなるべく外出したくないから、少し先の日でいいかな」
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