第13話

1800m地点。漕艇場の建物前に阪和大のエイトのメンバーは陣取っていた。四回生COXの川田と、三回生の辰巳、それに二回生の岡本と井上はゴールを見届けようと無人のコース上に視線を注いでいた。

レースの通過タイムは500mごとにゴール付近にもアナウンスされる。

「500m地点。レースの途中経過をお伝えします。1着2レーン六甲大学。1分41秒。2着1レーン阪和大学。1分47秒」

「思ったよりいいレースだね」

川田の声は穏やかで、レースが自分の見立て通り進んでいることに納得している風でもあった。

「え、なんでですか。負けてるんですよ」

岡本が驚いて川田に向き直る。その隣で井上も同意するように視線を投げかけていた。黙っている川田に代わり辰巳が疑問に答える。

「ああ、そうか。井上と岡本は知らんだろうがな、翔太さんは二回生のインカレであのふたりのペアに負けてるんだ。それも雄大との兄弟ペアで臨んだ盤石の体制でな」

「え、嘘でしょ。あの二人が負けたんですか。信じられない」

岡本がそういって驚いている間に、井上は素早くスマホを出して画面をいじっている。インカレでの結果を検索しているのだろう。二回生にとっては、入部する前のことであったのと、阪和大の中でその敗戦は一種のタブーのようになり、部員の話題にもなってこなかった。辰巳が静かな調子で言う。

「俺が入部したその年は戦力が揃わずに、エイトが組めなかったんだよ。そのときの対校クルーが翔太さんと雄大のペアだったんだ。抜群のスピードで優勝候補だったんだけど、いきなり現れた六甲大のペアに負けたんだ」

辰巳はそこでさらに声を落とした。

「それから、翔太さんと雄大は険悪になっちゃったんだよ」

「全然知らなかった」

驚いている岡本の肩を井上が叩いた。差し出したスマホの画面に確かに結果が出ていた。

『2011年インカレ男子舵手なしペア、優勝六甲大学 剛田・友永  準優勝 阪和大学 桂(翔)・桂(雄)3位・・・・』

「あのエリート兄弟に勝っちゃうなんて、あの二人はいったい」

唖然としている岡本に微笑み、川田はCOXらしくレース展開を予想している。

「それほど今回の相手は強敵だってことだよ。そしてこのレースのポイントは次の1000mでどれだけ差が空いてるかだろう。10秒以上差があったらいくらなんでも厳しいよ。六甲大のペアはスタートダッシュ型だから、翔太はきっと後半追い上げる作戦だろうけど。俺の感覚的には、1000mで10秒は致命傷になるだろうね」

500m 地点ですでに六秒の差が開いている。1000mで10秒という差は想像に難くない展開だった。四人は今、翔太と杉本が漕いでいるであろう方角を眺める。陸から果てしなく見える水の直線の向こうで確かにレースが進行している。

「でもなんで、翔太さんは雄大さんと出なかったんですかね」

初めて知る過去に岡本が疑問を口にした。

「リベンジって感じで、また兄弟ペアで出ればよかったのに」

対照的に、井上はスマホの中の世界に戻る。

「岡本の言うようにそりゃ翔太だって、雄大と出たかったんだよ」

そこで川田は数日前の記憶を頭の中で再生した。先月のエルゴでのトライアル日、翔太は雄大に一緒にペアに乗ろうと提案したが、雄大はその提案には応じなかった。

「まあ、周りで見るほど単純じゃないってことなのかな、兄弟って」

川田はそれ以上、その件に関しては言及はしなかった。雰囲気を察したのか、岡本もそれ以上は質問しない。レースに意識を集中し直す。浜寺の海水は日を浴び煌きながら静かに揺れていた。

「ここからもっと離されると思うよ。1000mまでは我慢だね。1000mで10秒差、それが限界だと思う」

「え、川田さんなんか予言者みたいっすね」

「予言なんかじゃないさ。まあCOXの勘ってやつさ」

川田は驚いている岡本に笑顔を向けて続ける。

「それにもうひとつCOXの勘で言わせてもらうと、岡本と井上は杉本と仲直りした感じ?」

「え、いや、別にそもそも喧嘩とかしてないっすよ」

いつもより低い川田の声に岡本は驚いている様子だ。首を振って否定しているが、明らかに狼狽していた。

「喧嘩とかじゃないっすけど、でも最近のあいつを見てるとなんかムカついたんですよ。冬場はせっかく良い位置にいたのに、あるときから全然練習に身が入ってないっていうか。まあでも最近は変わってきたというか、むしろあいつから良い刺激もらってますし。こないだ勝手にエルゴのトライアルやってたのもすごいと思うし、その時に声かけたんですけど、まあ、仲直りしたと言えばしたし、杉本がどう思ってるか、微妙なんで完璧とは言えないですけど、、、、」

そこまで聞いて川田は顔をほころばせた。慌てて話す岡本を落ち着かせるように言った。

「大丈夫、大丈夫、わかってるよ。別に咎める気持ちはないんだ。それに岡本はムカつくって言うけど、本当は寂しいんでしょ。普通エイトのシートを争ってるんだから、同期に負けて悔しいことはあっても、ライバルの記録が落ちてイライラするなんて、ちょっと特殊だよ。岡本は相当な同期思いなんだね」

「いや、別に、そういう訳じゃないですって」

岡本は照れているのか慌てている、その横で井上は異論なしという風に笑っていた。

井上に目配せして「選手を見るのも、COX仕事だからねー」と川田は満足気にしている。

その様子を見て「お前ら、不器用だな」と辰巳が茶化している。そして急に声のトーンを落とし、辰巳はしみじみと言葉をつないでいく。

「でも、俺はお前らが羨ましいよ。それだけ、繋がりが強いってことだろ。同じ同期同士でも俺と雄大は、一緒にやってるっていうより、俺が必死に雄大についていってる感じだからな」

そのことについては、他の部員も感じていたことだった。

「友達としては心を開いてくれてると思うんだが、雄大がボートに関しては心を開いてるのはやっぱり翔太さんだけだと思うな。ピリピリしててもいざ俺らが話しかけたら、無理に優しく接してる感じするだろ。あれ本当は言いたいことあるけど、手加減してくれてるんじゃないかな」

みんなそれを聞いて沈黙する。その沈黙には的を得た辰巳の意見への同意の意味が込められていた。話題を変えるように岡本が沈黙を破った。

「そういえば、辰巳さんが来年主将をやるんすか。そろそろ次の代も幹部決めなきゃでしょ」

「ああ、でも主将は雄大がやるんじゃないか。あいつと直接話したわけじゃないけど。そうだ、岡本。お前代わりに聞いといてくれないか、雄大に」

「いや、無理っす、無理っす。最近、雄大さんは以前にもまして、一人でいる時はピリピリオーラ全開なんで。俺近づけないっす」

首をブンブン振っている岡本に、「冗談だよ」と辰巳言った。

「なーんか、雄大は俺を認めてない気がするんだよな。俺はあいつのこと尊敬してるんだけどなー」

「辰巳さんたちも、不器用。ですよね」井上がボソッと言った。

苦笑いしながら「そうかもな」と辰巳は応える。


「そうだ。俺、杉本に思いっきり声かけるんで、辰巳さんも今日の試合終わったら、雄大さんと話してください」

そういうと、岡本は山頂で叫ぶような格好で「いけーー!杉本ーーー!」と叫んでいる。

その横で、井上も「ファイトー」と控えめながら声を上げていた。まだまだ両校のペアは声の届かない場所を漕いでいる。

満足気にドヤ顔で振り返った岡本に、「ああ、多分な」と言って辰巳も応援に加わる。ノリの良い川田もその流れに乗って身を乗り出し叫んでいる。

「杉本ーーー!頑張れー。翔太さん、行けるぞーー!」

「翔太ー、上げろーーー!」


その時、アナウンスが1000m地点の途中経過を知らせた。

「1000m地点。六甲大学、3分27秒。阪和大学、3分38秒」

川田が致命傷と語った十秒。それよりも大きな差がついている。

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