第12話

「浜寺の水は重いから、艇がいつもと違う動きをする。まずはそれに慣れよう」

アップで漕ぎ始めると、昨日翔太さんが言っていたその意味がすぐに分かった。今までは水の重さや、艇の動きなんて感じずに漕いでいたが、今ならわかる。感覚的な部分も多くうまく説明できないが、なんとなくオールを水に入れるとガッチリと固定される感じがする。俺はその感触は嫌ではなくむしろ好きだった。

「それからここのコースは水が掴みやすい感じがするから、エントリーとかキャッチ雑になりがちだけど、いつも通り丁寧にいこう」

翔太さんのアドバイスを、確かに気をつけなきゃ、と思いながら聞く。オールを水に入れるのがエントリーで、そこから漕ぎ出す最初の瞬間をキャッチという。この動きを疎かにすると、その後の漕ぎ全部が台無しになる。確かに翔太さんのいう通り、この感じだと雑にやっても掴めている感じがする。数cm程度なら水を掴む位置がずれても漕いでいる感覚的にはほとんど違いがないだろう。でもそのその数cmの積み重ねが勝敗を分けるかもしれない。

水の感触を確かめ終わると、いつも通り低レートで漕いでいく。

時折すれ違う剛田さんと友永さんのペアに目が奪われる。試験会場に行くとみんな賢く見えるというけど、アップ中は他のクルーが速く見える。でも今回に限って言うと、速そうではなく確実に速い。俺の様子に気がついて、翔太さんが声を掛けてくれる。

「不安か?」

不安だ。負けることが不安なのだろうか。それとも他の何かだろうか。

「いや、不安なままでいこう。無理に抑え込もうとしなくていい」

そういうといつも通りのメニューをこなしていく。意識しているわけではないが、ふたりとも少しずつ口数は少なくなっていった。翔太さんだって当然緊張したり、不安だろう。

いつものウォーミングアップのルーティンが残り少なくなっていく。それはつまりレースの開始が近づいていることを意味していた。

ゴール付近に部員は集合しているため、2000m離れたスタート地点はやけに静かだ。先にスタート位置に到着した俺たちの後を追って、スタート地点に六甲大ペアが近づいてくる。先に0mポイントにつくと、モーターボートに乗る六甲大のスタッフの人が、全長約11メートル艇の先を掴んでくれる。「ありがとうございます」とお礼を言うと、「頑張ってください」と相手チームである俺たちにも声を掛けてくれた。ボート競技をやっていると、こういう垣根を越えた応援をもらうことがある。少し照れくさい。でもやはり嬉しくて、誇らしい気持ちになる。

さあ、もうできることはない。後はレースで全力を尽くすだけだ。この1ヶ月、訳も分からぬままここまできてしまった。まともに口を聞いたことのなかった翔太さんを今では身近に感じるから、ボートは本当に不思議な競技だと思う。後ろを見ずに漕いでいるのに、全く不安を感じない。完全に背後は翔太さんに預けている格好だ。

「いつも通りいこうな」

「はい」

翔太さんの声に俺は頷いた。なぜか不意にこの場にいられること自体がありがたいと感じた。


六甲大の艇もスタート位置についた。

俺たちが岸に近いレーン。左手にすぐ岸が見える。右側に六甲大のペアがいる。相手の漕手二人は、先ほど岸で会話したときの朗らかさはなく、張り詰めた表情をしている。当たり前だが本気って感じだ。相手はインカレ優勝クルー。一方で自分は、と思いかけたとき。

”勝ってもいいんだぞ”と居酒屋で言ってくれた翔太さんの言葉がお守りのように頭に響いた。

この場にふさわしいかどうかじゃない。過去の実績でもない。今日速いやつが勝者だ。


審判艇がスタート地点にあがってくる。カタマランボートと呼ばれる白い審判艇は波を立てずに静かに位置についた。その上に二人の審判員が乗っている。一方の審判が白い旗を掲げている。その旗が振り下ろされた瞬間にレースがスタートする。掲げられた真っ白な旗を見上げた。その向こうに青い夏の空が見えた。さあ、レースが始まる。


「Attention・・・」

俺の手は震えてる。

「Go」

振り下ろされた旗の色みたいに、頭の中がサッと真っ白になった。隣のレーンから剛田さんが短く雄叫びをあげている。気迫に押されて、やばいっと思ったらやっぱり二本目のキャッチで水をうまく捉えられない。艇がレーンのセンターから逸れたけど、三本目を翔太さんが加減してくれて元に戻った。

しかしその間に六甲大学との距離がかなり開いてしまった気がする。すでに六甲大の艇は視界の外ではっきりとした距離はわからない。気配が遠くに感じる。焦るな。焦るな。

「大丈夫」

翔太さんの声。

「まだ近くにいる」

俺の心情を察したかのようにストロークの合間に翔太さんが短く告げる。シートスライドの音、オールが水を掴む音。時折キャッチの時に水飛沫が上がって、ゴールに向かっている俺たちの背中を打ちつけた。視界に入った陸には誰もいない。陸上競技場のスタンドを思い出す。ボートの試合ではゴール付近に観衆が集まるのが通例だから、スタート付近が閑散としているのは珍しい光景じゃない。そうわかっていても胸騒ぎがした。ゴールが近づいた時、ちゃんと俺を応援してくれる人がいるだろうか。いや、よそう。今は翔太さんと艇を進めることだけに集中する。500mを通過した。

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