第10話

「杉本ー!!いけるぞー!!」

空間を切り裂くような声がした。

「とにかく動け。スパートは何も考えるな!」

翔太さんの声だ。いつもの穏やかな声じゃなく、叫ぶようなその声に呼応して体のどこかから熱が湧いてくる。今あと何mだ。モニターの残距離は200mだった。まだ間に合うだろうか。いや、関係ない。とにかくやれること。全部出し切るんだ。ごちゃごちゃ考えるのはそのあとでいい。呼吸はきちんとできていない。セットとシートスライドの順序もあべこべで、フォームは崩れている。脚も全部は使えきれてないだろう。シートスライドのレンジがいつもの半分くらいしかないんじゃないだろうか。目を開けていることすらきつい。僅かな視界にも映るモニターを必死に睨みつけた。

突然、歓声と拍手が聞こえる。それでようやく終わったんだと気が付く。グリップを手から離して体の力を抜くが、体の負荷はなかなか去ってくれない。足の乳酸を流すためにシートだけ動かしながら、大きく何度か呼吸した後ようやくモニターが目に映る。

『6'39"0』

ベストタイムだった。

「杉本、おめでとう」

翔太さんが俺の背中を叩いた。振り向くとスーツ姿の翔太さんがいた。就活終わりに艇庫にきてエルゴをする俺を見つけて着替えもしないまま応援にきてくれたのだ。そしてその他にも何人もの人が立っていた。エイトの先輩たちもいるし、まだ話したことがない一回生もいた。マネージャーも来てくれていて、人だかりの中には岡本と井上もいた。呆然と拍手してくれるみんなを見ていた。笑っている。みんな口々に「おつかれさまー」とか「おめでとう」と言いながら、二階に上がっていった。

「ラストスパート、すごかったな」

翔太さんは俺のすぐ隣まできて、自分のことのように喜んでくれる。その姿を不思議な思いで眺めていた。

「でも、なんで今日なんだよ。疲労がピークだろうに。それでベスト出したのは凄すぎるけど、無茶だし怪我のリスクも高いぞ」

怒っている風ではない。不思議がってその訳を知りたいという感じだった。なぜだろう。とにかく漕がないといけないと思った。結果が欲しかった。漕ぐ前まで混乱していていろんなことを考えて焦っていたと思う一言ではうまく説明がつかない。

「居場所が、」

完全に言い表しているかはわからない。でも多分これが一番近いだろう。

「ずっと、居場所が欲しかったんだと思います」

言い終わると、体から力が抜けていくのがわかる。二十歳になってもう大人のはずなのに、子供のように項垂れている自分が恥ずかしかった。

「結果を出さなきゃいけないって思って。でも結果が出ても認められなかったら、居場所がなかったら自分は一体なんなんだろうって思って。でもとにかくまずは結果出さなきゃって」

無様に混乱している。堂々としていればいいのに。せっかく結果が出始めているのに。俺の気持ちを吐露すると周りから人が離れるんじゃないか。切れた靴紐が脳裏に浮かんだ。でも言葉は堰き止められなかった。俺はそれ以上は何も言えず黙っていた。

「杉本、順番が逆だよ」

静かな声だった。順番。どういうことだろう。翔太さんの言っていることが分からない。

「みんなお前が勝ったら嬉しいだけだよ。当たり前だけど、杉本が勝つから仲間なんじゃないぞ。仲間が勝てば嬉しいってだけで。居場所なんか作らなくても最初からあるさ。本当にしんどくなったら何もせずボート部にいて、ヘラヘラしてればいいんだぜ」

本当だろうか。結果を出さなくても。ここにいていいのだろうか。翔太さんの言葉に嘘はないだろう。応援してくれた人も目に入った。でも今の自分にはまだそんなありがたいことを受け入れる勇気がなかった。

「そうだ。岡本と井上が後ろにいたの気がついてたか? 俺がついた時にはもういたよ。もう二階にあがっちまったけど、後でちゃんと礼言っとけよ」

俺と岡本と井上の関係に、主将の翔太さんが気がついてない訳がない。チームを見ているのだ。そしてなんとなく気まずくなっている後輩たちのことを気にかけてくれていたのだ。

翔太さんには、はい、と返事したが本当にふたりに「ありがとう」と言えるだろうか。まだ言える気がしない。きちんと交わすべきものを交わせない自分がありありと予期できて、先に謝罪の言葉が漏れた。

「逃げてばかりで、すいません」

「謝らなくていいって」

勝手にトライアルして、勝手に色々思い出して混乱して。もうめちゃくちゃだ。翔太さんは可能な限り意図を汲み取ってくれようとしているが、さすがに困られてしまったのか、翔太さんは弱々しい笑みを浮かべていた。

「それにな、何かから逃げてるのだってお前だけじゃないさ。後ろめたいことが何にもない人間なんていないよ」

翔太さんはいつもは見せない寂しげな表情をしていた。先ほどまでの笑みも消えた。

「そんなこと言い出したら、俺がここにいることだって逃げだよ」

"ここ"というのはきっと阪和大のボート部ってことだろう。でも俺はそれ以上翔太さんの過去に踏み込むだけの勇気はなかった。

「とにかく今日は飯食って早く寝ろ。予定通り明日からレート上げるぞ」

「はい、秘策もまだ教わってないですしね」

翔太さんは顔をわざとらしくキリッとしてから笑って頷いて、その場から去っていった。


エルゴを綺麗に片付けてから艇庫の二階に上がると、練習着に着替えた岡本と井上がいた。一本道の廊下で向かい合う格好になる。

「お前のせいでオフなのに練習したくなっちまったよ。ベストおめでろう」

岡本が笑っている。喉までありがとうが出掛かっているのに簡単なその言葉が出てこなかった。「うっす」とも「おっす」とも取れる曖昧なことを呟きながら小さく会釈するのが精一杯だった。ふたりが歩いてくる。すれ違う時、俺の肩に岡本の手が置かれる。そこから重みと熱が伝わってきて居心地が悪くなる。

「漕ぎこみの時期なのにベストって、マジすげえじゃん」

まだありがとうが言えない。

「君にしてはよくやった。まだ僕には遠く及ばないけど」

井上の言葉の後、ふたりの顔を見ると爽やかに笑みをこぼしていた。

なぜだろうと不思議に思ったけど、少しして俺が笑ってるからだと気がついた。岡本と井上は「俺らも頑張るわー」と手を振りながら階段を降りていった。意気込むふたりが見えなくなってから「ありがとう」と小さく呟いた。


それから試合までの期間はとにかく無我夢中に漕いで漕いで漕ぎまくった。講義にもちゃんと出席したが座っていると眠気に勝てない時がほとんどだった。必死に話を聞こうとしても、途中で力尽きる。そして瞬に肩を叩かれて目が覚めると、食堂でたらふく飯をかきこんで、その後でノートを写させてもらった。何回かに一回は瞬にレッドブルをご馳走した。午後からの講義が終わると俺は電車に乗って艇庫に向かい、瞬はマッチングアプリで待ち合わせた女性の元に向かった。

もがき続けて、なんとかレース前日の夜を迎えることができた。その日は珍しく瞬からメッセージが来た。

「動物の摂理に反する明日のレースに乾杯。鳥は許可されたから飛ぶわけじゃない」とある。

教養不足で疲労困憊の俺の脳みそでは意図するところを完全には理解できなかった。乾杯という言葉からしても今日もどこかの街で酔っているのかもしれない。でも瞬が応援してくれていること、自分がひとりではないことをも感じた。部員から応援されることももちろん嬉しい。でも俺が頑張って漕いでいるところを見たことない瞬も応援してくれているということが、今の自分には心から頼もしかった。


そろそろ瞬が酔い潰れて眠りにつく頃かだろうか。

未明に目を覚ました俺はレースに向かう準備を始めた。

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