第9話

いてもたってもいられないとはこのことだろう。ようやく低レートで艇が真っ直ぐに進むようになってきたところなのに、再来週の相手がよりによって昨年のインカレチャンピオンだとは。とんでもないレースに自分は出るのだ。もう試合まで残り時間は少ない。今日は午後練習がオフで翔太さんは今日は就職活動でいなかった。でもせめて自分一人でできることをやろうと艇庫にきた。艇庫をほとんど根城にしている部員もいるし、マネジャーも部のパソコンを使って仕事をしているので、オフでも二階部分には結構人がいた。


自分の寝床に肩にかけていたトートバックを置くと、ハンガーラックから練習着を引っ掴んで着替える。一番効果があるのは本番と同じ距離の2000mのトライアルだろう。着替えが終わると静まり返った一階部分に降りていった。いつも通りの簡単なストレッチをすると、外を軽く走る。運動の前に静的なストレッチをやりすぎるのはむしろパフォーマンスの向上に寄与しない。なるべく心拍数も一緒に上がるような体操で体を準備していく。エルゴの前に座る。最近はとにかく水上で漕ぎまくっているので、久しぶりのエルゴだ。長らく触っていないこの機械はいつもに増して無愛想な気がした。シートに座りグリップを握るとひんやりとしていた。エルゴと仲良くなれる日は来るのだろうか。多分こない。

まずは大きく呼吸をしながら、低レートで漕ぎ始める。レース前にやる流れと同じアップをしよう。しばらく低レートで漕ぎ続けてから徐々にレートを上げていく。15本力強く漕いでまたリラックスして漕ぐ。呼吸が落ち着いてくると、またレートを上げて15本漕ぐ。それをレート24から32まで1セットずつ移行していって、筋肉と肺を負荷に慣らしていく。最後にスタートから300mを二本行うと体は完全に戦闘モードになったのがわかる。自分の背中側から扇風機の風を送る。この暑さの中では心もとないが、ないよりはマシだろう。そして、同じこの場所で行った二週間前のトライアルが遠い昔のことのように思えた。いつまでも自信不足を理由に逃げてばかりではダメだ。どこかで壁を壊さないといけない。翔太さんも俺の心の壁がなくなれば、もっと速くなると言ってくれた。早くその言葉を素直に受け入れられる自分になりたい。変わりたい。

モニターを操作する。『Select Workout』のメニューから進んで距離を2000mにセットする。もう一度6’40”にチャレンジしよう。人知れず覚悟を決める。心の中でスタートのコールを唱える。


“Attention”

息を吐いた。

“Go!!”

弱い自分に唯一救いがあるとすれば、もがく権利があるということだろう。


2000mは勢いで乗り切れる距離ではない。スタートこそ無酸素運動だが、その後コンスタントと呼ばれるレース中盤のほとんどの距離では有酸素運動である。感情に任せて最初から体力の全てをぶつけるのは無謀な漕ぎだった。きちんと頭を働かせて、意識してリラックスする。翔太さんに「艇に合わせて」と言われてから、漕いでいない時の動きも意識するようになった。艇に合わせようとする動きは自分自身にもメリットをもたらした。リラックスしない艇の動きを邪魔してしまう。リラックスすると漕いでいない間、自分の呼吸が楽になる。次の一本への準備がしやすい。今までサボればいいところまで頑張りすぎていたんだ。たった二週間の練習。それでも自分は成長している。モニターに写っているタイムは1’38”悪くない。このまま進めば、6’40”カットも十分すぎるほど射程圏内だ。1000mを通過する。今までよりも体の感じは悪くない。まだエネルギーが自分の中に残っているのを感じる。だがそれでも後半はやはりキツい。呼吸が苦しくなってくる。筋肉も悲鳴を上げ始める。結果さえ出れば、全て報われる。だからこんな苦痛なんて跳ね除けろ。モニターの数字が1’37”に上がる。

「結果さえ出ればって、本気で思ってるのか」

耳元でコートの男の声がした。モニターの数字は1’42”に落ちた。

またか。自分が追い込まれると必ず見る景色がある。


*****


十六歳の夏。トラックにラスト一周の鐘がなった。俺は真っ白な頭で、無意識に足を交互に前に出している。「ひゅっひゅっ」と無様な息が漏れていた。トラックの周り360度から歓声を受けて走る選手たち。でもその中で俺に向けられる声援は、顧問の小橋先生のものだけだった。部員はスタンドには誰一人いなかった。その頃の俺は、大学に入ったら箱根駅伝を走ることを、夢見ていたランナーだった。放課後の練習以外にも、自分で勝手に朝と夜にも走り込みをしていた暗い走ることにのめり込んでいた。

最初は入部からメキメキと記録を伸ばす俺に、周りも一目置いていたと思う。周りから話しかけられることも増えて、昔から友達付き合いが苦手だったが、このままもっと速くなれば自分にも仲間がたくさんできると思った。そしてきっと部員も俺が速くなることを望んでいる。グランドには、「全国駅伝出場」の文字が踊っていた。これをみんなで達成するんだ。と意気込んでいた。


異変に気がついたのは、夏の選手権を控えた一年の六月だった。新入生ながら地区予選の出場選手に選ばれた俺は、予選会を勝ち上がり全国大会に駒を進めることができた。自分の成長にワクワクしていた最中だったが、その日は部室の裏で紐の切れたシューズを持って呆然としていた。まれに使い込んだシューズの紐は切れたりするが、保管中に切れるのは明らかに不自然だった。一度目は「登下校の持ち運びで紐が切れたのかな」と自分を誤魔化したが、今日も朝練後に部室に置いてきたシューズの紐が切れていた。犯人を探そうと思い、部室の裏で息を潜めていた。部室に集まってきた部員は、裏に俺がいると知らず不用意に話し始めた。

「杉本って走りすぎで、ついてけないよな」

「そうそう。なんか小橋先生も感化されちゃってるよね。全体のメニューがきつくなってるし」

「迷惑なんだよねー。アイツ一人でやっとけよって感じだわ」

「そういえば、今日も俺あいつの靴の紐切っといたよ」

「バカ、お前ペース早すぎんだよ。そのうちバレるぞ」

そこで俺が聞いたことのない、まとまった笑い声が部室に響いた。犯人とかそういう単位ではなかった。全員が敵だった。お前ら速くなりたくて走ってるんじゃないのか。走りすぎってなんだよ。俺には他の部員の考えていることがわからなかった。顎から汗が滴り落ちて、足元を濡らした。


夏の選手権にはそのまま出場した。部では唯一俺だけが全国大会に出場したのだが、部員は誰一人として応援には来なかった。遠征が必要な距離ならまだ分かる。でも今回は近隣の県での開催で日帰りが可能な大会だった。俺は顧問の小橋先生の車で二人きりで試合会場に向かった。そしてレースの結果は散々だった。自己ベストよりも30秒も遅く、全体でもビリから二番目のタイムだった。

帰りの車で先生はポツリポツリと話した。

「悪いな、杉本。先生が空気読んでやれんくて」

「そんなことないです。俺が悪いんです」

それっきり車内は沈黙に包まれた。心の中では、悪いのは先生でも俺でもなく、紐を切ったりそれを面白がっている奴らだと思った。

俺は自分の何に否があるのか分からずただ怯えていた。怒りよりも恐怖が大きくて、その大会を最後に部活を辞めた。

その秋、俺は体育館の壇上に上がっている陸上部のメンバーを見ていた。後ろに習字で書いた「祝 陸上部長距離 駅伝県大会出場」という文字が踊っていた。もちろん立派な結果には違いないが、毎年のように出場できている大会だ。俺の応援にはこなかった先輩や同期が、全校生徒の前で誇らしげな顔でユニフォーム姿で胸を張っていた。

何よりショックだったのは、小橋先生が笑顔で意気込みを述べていたことだった。"チーム一丸"とか、"想いのこもった襷"とかいう言葉が聞き取れた。部員たちが頭を下げ、体育館は喝采に包まれた。全校生徒の拍手を聞きながら、そうか、この世界のなかで、俺のことなんて誰も知らないのだ。と思った。頑張って走ったあの夏のことは今もう誰の頭の中にもない。心地いい空間が作られて、みんな幸せそうに拍手をしている。俺以外が。俺が陸上部から消えた今、チームは良くなっていて、悪いのは俺の方だったのか。加害者は俺だったのか。速くなりたかっただけなのに。何がいけなかったのか。

結果を出せば認めてもらえると思ったのに。速くなれば居場所があると思っていた。実際に最初の方は良かったんだ。速くなればなるほど、みんなとの会話も増えてたし。このままいけば

結果を出して、少し前進したと思った。これで認めてもらえると思ったのに。速く走っても結局意味はない。じゃあ、俺はどうすれば良いんだ。でもせめて速くなけりゃ、もっと意味のない存在だろう。遅い自分が悪い。いや、もしかしたらほどほどの記録ならみんなと仲良くできたのか。それでいいのか。わからない。どうすればいいのか。どうしたいのか。


鐘が鳴る。ふらふらと逃げるように走っている。ホームストレートに入り顔をあげるとやはり砂の男が現れた。銃を手に持っている。男がフードを外すと息が詰まりそうになる。男の顔は歪んだ自分の顔だった。幾分暴力的な印象は増しているものの、間違いなくその男は俺だった。


「絆を深めるためだよ」

居酒屋で翔太さんは俺にそう言った。俺と翔太さんは絆なんていうもので繋がっているのだろうか。ふたりを繋いでいるものはなんだ。それだって絶対的な力がなければ、あの靴紐のように簡単に切れる何かなんじゃないのか。

「ひゅっひゅっ」

無様な呼吸。力が抜けていく。

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