第7話

「合わせて」

後ろから翔太さんの声がする。ペアを漕ぎ始めてから二週間経つが、状況は最悪だった。これで最後にしようと覚悟の気持ちを決めたつもりだったが、早くも心は折れそうになっていた。そもそも気持ちの持ちようだけでそんなにすぐに人は変われるものではないということだろうか。

早朝に漕ぎ始めた時は薄暗かった空もすっかり明けた。太陽はその位置の低さの割に早くも本領を発揮していた。川の両側に等間隔に植えられている桜の木は今は緑色の葉を密集させていた。川の水も同じく緑に濁っているが、光を受けながら微かに波打って煌びやかだった。青い空と緑の葉と水。ただ視界の麗しさとは裏腹に脳と体は悲鳴をあげていた。

「合わせて」

もう一度同じ指示。訳がわからない。合わせてと言っているその当人の姿が見えない俺に、どう合わせろというのだろう。ストロークで漕いでいる俺の背後のシートに翔太さんはいた。だから翔太さんの姿は振り向かない限り伺えない。そして漕いでいる動作中にそんなことは不可能だった。葉が揺れているから風は吹いているようだ。でもこの夏の風にさらされると余計に体が熱を帯びていく気がする。どこか難波あたりからロウリュが発生していて、巨人がタオルで仰いで南風を起こしているところを想像した。

いや、そんな馬鹿げた妄想をしている場合ではなかった。一番深刻な問題がまだある。水に艇を浮かべる前から予想していたことではあるが、艇を押す力量が俺と翔太さんでは違いすぎて、真っ直ぐ艇を進ませることすらできていない。川の左半分を漕ぐのが俺たちの水域のルールだが、俺の力が弱いために、艇はどんどん川の中央に寄ってしまう。そのままだと折り返して漕いでくる他艇と接触する危険性があるので、何本かに一本翔太さんがわざと力を抜いてくれる。それでなんとか航行ルートを死守している状況だ。本当に情けない。


さらにレートの問題もある。1分間に漕ぐ回数のことを「レート」と呼ぶのだが、試合まで2週間を切ったのに、まだ俺たちは「低レート」と呼ばれる20回/minくらいのリズムで漕いでいた。試合では、大体34〜36回/minで漕ぐのが目安となるが、それには程遠い。ほぼ今の動きから倍速で動かないといけない。ちゃんとしたレースの形になるのだろうか。客観的に見て現実的ではなかった。

そんな状況の中で、今日まで一貫して翔太さんの指導は「合わせろ」の指示のみで、俺はその最初のアドバイスでさえクリアできていなかった。さすがに我慢の限界だ。一本一本、力負けしないように、全力で漕ぎ続けている。そもそもフォームやリズムを気にする余裕なんてない。大したレートじゃないのに息が上がりっぱなしで肺が痛い。それに太ももはガチガチに固まっているし、力みまくっている結果手にはすごい数のまめができている。腕も肩も腰も、負荷に耐えかねて悲鳴を上げていた。本来後ろの漕手が前の漕手に合わせるのがボート競技の通例じゃないのか。その合わせる役であるはずの翔太さんがずっと俺に「合わせろ」と言っている。訳がわからなくて、俺は初めて翔太さんに意見した。

「もう限界です。ずっと合わせて合わせての一点張りで。見えないのに、どうやって翔太さんに合わせろっていうんですか」

言ってしまった後に、しまったと思った。

返ってくる語気の荒さを予想し、俺の体は硬直していた。

強い風が吹いて、耳元でボーッと低い音を立てている。視線を落とすと空になったペットボトルが情けなく転がっていた。

「あー、そういうことか」

意外にも翔太さんの声はのんびりとしたものだった。

「悪い悪い、合わせてっていうのは俺にじゃねえよ。艇に合わせろって意味だ」

勇気を振り絞って、怒鳴られる覚悟で翔太さんに意義を申し立てたつもりだが、返ってきたのは優しい声だった。この人はこんなに物腰の柔らかい人だっただろうか。俯いて黙っている俺に、翔太さんが続ける。

「いいか、杉本。お前に足りないのは、艇への意識だ」

そうやって、シートの上で尻を動かして、左右に揺らした。

「エルゴなら漕いでいる時がほとんど全てだろう。でも実際の水上ではそうはいかない。艇は漕いでいない時も動き続けているんだ。今でもほんの少しだが、川の流れに乗って流れているだろう」

顔を上げた俺は、ゆっくりと流れていく岸の景色に目をやった。当たり前のことで今まで特に意識はしなかったが、目印にした木が少しずつ遠ざかっていく。

「お前は漕いでいる自分への意識は抜群だ。ほとんど完璧と言ってもいい。でももったいないのは、漕いでいない時の動きだ。その時にいかに艇の邪魔をしないか。艇とひとつになれるか。それを意識してほしい。そういう意味での合わせろだ。俺たちはフィニッシュまで漕ぎ切ってから次の一本漕ぎ始めるまで、つまりセットからフォワードの間、艇の進行方向とは逆に進むことになる。だから進もうとしている艇の動きをなるべく邪魔しないように艇に合わせることを意識してみてほしい」

言われてみればそうだ。次の一本を漕ぐことに必死になりすぎて、進み続けている艇のことなんて今まで考えたことがなかった。俺が漕いでいるんじゃない。あくまで漕いだ力が艇に伝わっている。そして伝えた力で動かしたボートの先がゴールラインを相手より先に通過させることができれば勝利となる。俺が進んでいるんじゃない。俺はただアウトリガーから繋がったオールを持っていて、そして足元に固定されたシューズの中に自分の足を入れていて、可動式のシートの上に座っている。その3点でボートと繋がっている。そしてシューズの裏にあるストレッチャーと呼ばれる板を押す下半身の力を、体幹を通して腕の先へ伝え、握っているグリップへ、そしてオアロックと呼ばれるオールの中心をリガーと固定している部分に伝える。それがアウトリガーを伝って艇本体に推進力として伝わっている。そして次の一本漕ぐまでは、伝えた推進力を殺さないように艇の侵攻方向と逆に進む必要があるのだ。せっかく力一杯推進力を生み出しても、乱暴に動けば自分自身でそれを邪魔して艇を止めてしまう。ボートとはそういう競技だ。

自分がとにかく動けばタイムがモニターに表示されるエルゴとは似て非なるものを相手にしているのだ。

「杉本が夢中で漕いでるから邪魔しちゃダメだなと思って、最小限のことしか言わなかったんだけど、ちゃんと分からないなら言ってくれよ。そうすればもっと早く話せたのに」

そう言って翔太さんは笑っていた。

「まあ、俺もエイトに長く乗っるから、合わせろと言えば、艇に合わせろって伝わると勝手に勘違いしてたとこはあるな。申し訳ない」

じゃあ、もうちょっとそれを意識して漕ぐぞ。と翔太さんが言って、俺たちは練習を再開した。それからの練習の詳細は、よく覚えていない。

不恰好に辛さを吐露した俺に対して、物腰柔らかく解説してくれた翔太さんの声を、頭で何度も反芻しながら漕いでいた。練習が終わった後に、「最後の方は力が抜けていて、よく漕げていたし、艇の動きにも近づいていた」と言われた。

”力が抜けていて、よく漕げていた?”どういうことだろう。そういえば後半は、艇があまり川の中央に寄っていない気もした。翔太さんがバテたなんてことはないし、確かに自分の漕ぎが向上していたのだろう。でも俺はその漕ぎを自分のものにできていないのは確実だった。

その日の練習後に、「杉本、ちょっといいか」と翔太さんに声をかけられた。

「なんだ、まあ飯でも行こうや今日の晩」と翔太さんは恥ずかしそうに言った。いきなりのことに「あ、はい」と間抜けな声で返事した俺は、待ち合わせの時間ギリギリになって、翔太さんの指定する居酒屋に入ったのだった。

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