第6話

次の日の朝は、いきなり25kmを漕いだ。とっくにみんな漕ぎ終わっているのに、そこからさらに俺たちのペアだけが1時間練習した。陸に上がったのは、九時を回っていて、四時間以上も水上にいたことになる。その日はあまりの疲れに午前中の講義はサボってしまった。十一時ごろに目が覚めて、さすがに午後からの講義には出ようと思って電車に飛び乗ってとりあえず大学の食堂に向かった。まだ午前中の講義が続いている時間だが、さすがにラスト十五分で教室中の視線を浴びながら講義に飛び込む勇気はなかった。がらんとした食堂の窓側の席に腰掛ける。俺のように大学にいながら講義に出ていない人がトランプをしていたり、単に喋っていたり、ぼんやり手元の液晶の画面を眺めたりしていた。

「おおー、やっぱりここか」

突然、柔らかい声がした。声の主は同じ経済学部の生田瞬だった。本人は痩せているのがコンプレックスで、いつも体のラインが不明瞭になるようにダボっとした白いTシャツを着ていた。瞬が着ているそのTシャツは着られているというより、部屋の中でかけられているだけみたいにやる気がないように見えた。長身で顔立ちは濃い。笑うときには目が無くなるみたいに顔を崩すのが印象的だった。

「ほれ」

と言った彼の手に、午前中の講義のプリントとノートがあった。俺は顔を綻ばせて、自分の顔の前で手を合わせて拝むような素振りをすると「なんか飲む?」と瞬に聞いた。「んや、気にしないで。これがあるからいいよ」と言って瞬はいつもの水色の方のレッドブルを飲んでいた。瞬はいつもこうやって俺の分のプリントを取ってくれたり、ノートを貸してくれたりする。聞けば出身地も近く隣の高校に通っていたようだが、仲良くなったのは大学に入ってからだった。どこかのサークルの新歓で出会ってそれからいくつか一緒に新歓に行く間に仲良くなった。同じ講義に出る時は隣に座り、昼食は大体この食堂で一緒に食べるのが習慣になっていた。ボート部では上手く馴染めない俺にとって、瞬は唯一なんでも話せる存在だった。他人を警戒してしまう自分がここまで警戒心を解ける彼は本当に珍しい例外だった。理由は分からない。

食堂で瞬のノートを書き取っていると、レッドブルを飲みながら瞬が、

「なあ、なるべく快適に長生きしようとするのが動物の本能なはずだろ。なんで自分をそんなに追い込むんだよ。顔がめちゃくちゃに疲れてるじゃん」

ボソッとつぶやいた。パーマかけ直そっかなと言って茶色の前髪をくるくるさせている。

「外で煙草フカしてる奴もそうだよ。しっかり飯食ってさ、健康に生きてなるべく沢山セックスするのがさ、動物としての本能であり幸せなはずだろ。なんでわざわざ死に急ぐようなことするんだろうな」

外のテラス席で三人組がタバコを吸っている。

「今日習った教科書の中でも全員が”合理的に自分の利益を追求すること”っていうのが前提で経済学は構築されてるのにさ。そこがなんか杉本とか見てると腑に落ちないよ。スポーツに打ち込むなんて動物としては超非合理じゃん。自分から体をいじめて。でも確かにそういう奴がいるってのは理解してから、その後は先生の話があんまり入ってこないんだよな」

不真面目そうな見た目だが、教師のことをちゃんと「先生」と呼んだり、講義には休まず出席するのが瞬という男だ。講義の内容についても、単にテストのためじゃなく自分の中に染み込まそうとする姿勢にはいつも頭が下がる。

「お前らみたいな変人がいると、マクロ経済とかも訳わかんなくなるな」と皮肉とも賞賛とも取れることを言われた。そして瞬はそのことを心から愉快そうに笑った。

瞬は結局どこのサークルにも入らなかった。夜バーでバイトする以外の自由な時間はマッチングアプリで女の子に会うことに全力を注いでいる。それだけ聞くといかにもチャラい遊び人って感じだが、何も考えていないように見せかけて、ふいに鋭いことを言って俺をハッとさせた。もっともその瞬にプリントや講義の内容を後から教えてもらう自分が偉そうに彼を批評できる立場ではないのだが。

「俺は動物的本能に従ってなるべく沢山セックスをするよ。それ以外は規則正しい生活して、ちゃんと自分の体を労って。それが俺の青春だ」

彼が言うことはもっともだった。頭では理解できる。

でもなぜか俺が選んだ青春は、動物の摂理に真っ向から反したものだった。

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