番外編

文字と魚

 一八八九年、大英帝国の首都ロンドン。

 エドワード・マイヤーと夏目なつめ総十郎そうじゅうろうは、パブ・コンスタンスで料理に舌鼓を打っていた。


「あれから半年近く経ったのか。あれだけ血生臭い、凄惨な現場を見せられると頭から離れなくて困る。そのうち夢にでも出て来そうだ」


 イギリスの定番料理――フィッシュアンドチップスを口に頬張りながら、夏目は以前の事件を振り返る。


「君がそう思うのも無理はないよ。あの時の事件は僕にとっても衝撃的だった。まさかヤードから協力を要請されるなんて思ってもみなかったからね。しかも、事件はひとつにとどまらなかった」

「エドワードは、人一倍『血』が苦手だからな」

「それを言わないでくれ、夏目……」


 苦笑いを浮かべるエドワードを見て、夏目は「ふっ」と、口角を上げた。

「……ん?」

 二人は自分たちの方へと向けられた、とある視線に気が付く。顔を上げると、お世辞にも人相がいいとは言えないが目の前に立っていた。


「よぉ、マイヤー。ここにいたか」

「ホワード警部! 奇遇ですね。あなたもここで食事を?」


 ギルバート・ホワード、二人を事件に巻き込んだ張本人である。

 彼は、エドワードの隣の席に「どかっ」と音を立てながら腰を掛けた。


「そうだ。と、言いたいところだが……ある事件に行き詰まっていてな。大学にも家にも見当たらなかったんで、ここに出向いたってわけだ」

「またそのパターンか」


 斜め向かいから放たれる夏目の呆れた声に、ホワードはぐうの音も出ない。


「まあまあ、夏目……差し支えなければ、どのような事件か教えていただけませんか?」


 エドワードのひと声で、ホワードは「うむ」と頷き、一枚の写真を取り出した。


「昨夜、この近くの屋敷で殺人事件が起きた。被害者は頭部を鈍器で殴られて死亡。室内に粉々になった花瓶の破片が転がっていたんでな、そいつが凶器とみている。写真にある血文字は、恐らく被害者が死の間際に残したダイイング・メッセージだろう。容疑者はどうにか三人にまで絞ったんだがな」


「血」という言葉に、エドワードは思わず「うっ」と口を押さえるが、テーブルに置かれた写真へ恐る恐る目をやる。


「アルファベットの“H”のようにも見えますが、縦の線が随分湾曲していますね。しかも、横の線がかなり飛び出ている。筆記体とも違う……」

「それにだ、仮にコイツが“H”だとすると、容疑者のうち二人に当てはまることになるからな」

「二人ですか。ちなみに、容疑者の名前は?」

「ルイス・ポワソン、ヘクター・ミッチェル、トーマス・ハミルトンだ」

Hectorヘクターに、Hamiltonハミルトン……」


 エドワードは顎に手を添え、夏目は腕を組み、考えこんでいたところへ、


「なーに難しい顔なんかしているんだい、先生」


 酒場の女将であるコンスタンスが追加のワインを運んできた。


「ええ、ちょっと頼まれ事を……」


 苦笑いを浮かべるエドワード。


「頼まれ事?」


 コンスタンスはエドワードの隣に座っていたホワードの顔を凝視する。


「なんだい、アンタ。また先生に依頼かい? 先生は探偵じゃないんだよ。依頼ならよそを当たんな。まったく、スコットランドヤードの刑事が聞いて呆れるね」

「うるせぇことをぬかすな。犯人を監獄にぶち込みさえすれば、それでいいんだよ!」


 すっかり機嫌を損ねたホワードは、持っていたタバコに火をつけ、吸い始めた。

 彼の吐き出す白煙に溜息をつくコンスタンス。呆れたと言わんばかりに、三人のいるすぐ近くの窓を開け放った。


「今夜はせっかく晴れているっていうのに。見てみな、星が綺麗だよ」


 この日のロンドンは珍しく晴れ渡っていた。

 雲ひとつない夜空に、またたく星々の海が広がっている。


「確かに、これは見事だな」


 夏目は窓から顔を出し、空を仰ぐ。


「星……」


 すたすたとその場を後にするコンスタンスの背中を見送りながら、エドワードはひとりごちる。


「なるほど、そういうことか」

「マイヤー、まさか犯人が分かったのか?」


 ホワードの問いに対し、エドワードは首肯しゅこうした。


「ダイイング・メッセージに残されたこの文字は“H”ではなく、あるマークを表しています。そのマークは、二匹の魚とそれを結びつけるリボン――つまり、魚座のマーク」


「魚座⁉ 星座にマークなんてあるのか?」


 夏目が首を傾げる。


「十二星座にはそれぞれ、神話をモチーフにしたマークがあるんだ。魚座は、美の女神アフロディーテとその子どものエロスが、怪物から逃れるためにふんした姿。親子ははぐれないよう、リボンで互いを結んだ。それが、この横棒だよ」


 エドワードは写真にある血文字の横線をなぞる。


「花瓶が粉々になったのなら、犯人は手を負傷している可能性がありますね。今回の犯人は恐らく、Louisルイ Poissonポワソン――Poissonポワソンはフランス語で魚を意味しますから。彼がフランス人であればルイスではなく、ルイが正しいかと」

「確かに、奴の手には包帯が巻かれていた。すぐに奴のところへ向かう。感謝する!」


 ホワードはその場でびしっと敬礼をしてから、慌ててその場を立ち去った。

 夏目はワインに口をつけ、「ふぅ」と大きな溜息をつく。


「犯人が魚座だという線はないのか?」

「だとすると、警察は犯人の誕生日を調べる必要があるし、被害者が全員の誕生日を把握しているとは限らないからね」


 エドワードはワイングラスに口をつけ、ゆっくりと飲み干した。


「なるほど。しかし、せっかくの食事が台無しになってしまった。仕切り直しといきたいところだが……」

「ダメだよ、夏目。あまりもたもたしていると、君が寮の門限に遅れてしまうからね」

「それは困る。まったく、あの疫病神め……」


 夏目はしぶしぶ立ち上がり、エドワードと店を後にした。






 翌朝、マイヤー家にて――。


「そういえばエドワード、昨日の夕方にヤードの警部が来たんだが、会っていないだろうな」


 新聞を片手に、兄のジェームズがエドワードに尋ねた。


「ホワード警部なら会いましたよ。だいぶお困りのようでしたから」

「……まさか、これのことか?」


 ジェームズは新聞をめくり、とある記事を指で示す。

 エドワードが目を向けると、見出しには「凶器は花瓶 現場に残された文字を手掛かりに犯人逮捕」と書かれていた。


「やはり、ルイ・ポワソンで間違いなかったのですね……良かった」


 微笑むエドワードとは対照的に、新聞を持つジェームズの手がぷるぷると震えている。エドワードが「あっ……」と気が付いた時には、もう遅かった。


「あの警部は……お前を利用したのか。前回は、ソールズベリー侯からの依頼ということで見逃したが。昨夜、屋敷に来たのをこの私が直々に追い返してやったというのに!」

「兄さん、利用だなんてそんな……」

「どうせ奴らは、都合のいい時だけに決まっている。エドワードは大学教授であって、探偵ではないのだ。これだからヤードは好かんのだ!」


 ジェームズの怒声が屋敷中に響き渡った。


(了)

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エドワード・マイヤーの事件録 櫻井 理人 @Licht_S

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